kazuo kawasaki's official blog

Posts Tagged ‘基盤’


『「アート&クラフト運動」はデザイン原点でもあるが・・・』


   


     10月 23rd, 2013  Posted 12:00 AM

「アート&クラフト運動」について、私には調べ尽くしています。
それはデザイン史にとっては重要な基盤であるからです。
この創始者、ウィリアム・モリスの生涯と彼の作品、
さらに彼が後々まで影響を与え現在もこの影響は連続しています。
このところ、ワイフが非常勤講師としての授業のための、
いくつかの資料、さらに彼女が購入した資料を改めて見ました。
私の結論は、デザインのデコレーション性と彼の自宅での実証、
これらを照らし合わせれば、今なお彼の作った壁紙など、
彼の残したパターンは現代性を強く持っています。
しかし、彼が現代デザインに影響を与えているかというと、
私には、彼のパターンのデフォルメ性や、
「赤い自宅」(彼は建築後はすぐに売り払い住んでいません)には
インテリアでの英国中産階級の「住みやすさデザイン」は評価。
日本では写実主義は結局は残らなかったという見解に照合すれば、
彼のデザイン運動は、私には、デザイン運動とは思えません。
もし、どうしてもといえば、彼の出版での「美」の追求については
私は「デザイン」が最も求めている「美」は容認しています。
彼のデフォルメは、写実性を下敷きにしてまったく正確です。
したがって、彼が現代のデザインをどこまで牽引していたかは、
まだまだ論議を尽くすべきです。
そういう意味では、国際的にもこの研究者は少ないと思います。
私はまだ英国には行ったことがありませんが、
「赤い家」と後にグラスゴーで活動したC.マッキントッシュは、
現地で確認する必要があると思っています。
それは、グラスゴー大学とグラスゴー美術学校では、
お互いに、PDEという資格制度すらあるわけです。
PDE=Product Design Engineerというのは、
日本では「設計論」と「デザイン」の専門家です。
この資格制度を立ち上げるために、一人の学部長が来日して、
この制度の背景は名古屋で創られた歴史があるからです。
「アート&クラフト運動」のデザインでの位置設定は重要です。


目次を見る

「かたちの意味・造形言語と形態言語」


   


     10月 29th, 2012  Posted 12:00 AM

ようやく、私は「教科書」を書こうかと思っています。
それにはひとつ大きな理由があります。
1985年当時から、「製品記号論」Product Semioticsを追いかけてきました。
そして、最終的にはこの結論を書き残しておきたいと思っていました。
博士号学位論文で、このテーマを一人の学生が追いかけてくれました。
彼の論文指導にあたって、
あらためて自分が考えそして実務でも基盤としてきた作品もあります。
このところ、
このブログではあえて「拳銃」の言語性と記号性を取り上げてきました。
デザイン分野では、
デザインジャーナリズムがまったく国際的にも進歩していませんし、
また、「製品記号論」をもって、
その実務展開をしているデザイナーを見かけなくなりました。
それならなおさら、デザイナーであり大学人としても、
この論理はまとめておく必要を使命として感じています。
果たして、年内に書き上げられるかどうか、
ここで約束を確実にはできませんが、幾つかの論文誌からの依頼や、
海外論文誌への概要投稿では投稿OKをもらっていますから、
そこに向けて自分を奮い立たせています。
これまで、
言語論や記号論などは随分とその手の定本は熟読もしメモも残しています。
「意味すること」対「意味されること」
それはそのまま、
「デザインすること」対「デザインされたこと」に当てはまります。
 ● デザインする形=造形言語=designing language
 ● デザインされた形=形態言語=designed language
この関係、つまり構造は、
まさしく記号論的な考察ができるものと考えています。
後期授業は、ここに焦点を当てて講義を展開しています。
私は、拳銃が分かりやすいと思って取り上げてきました。
今、ある論文誌からの依頼原稿は、「カーデザイン」です。
ちょうど、車に関しても、これからの日本の車メーカーは、
もっともっと革新的なデザイン手法が必要だと思っています。
その手法の思考論理に、
「製品記号論」を再構築すべきだというのが私なりの動機になっています。
もし、年内に無理であったとしても、
この「教科書」は置き土産にしておくつもりでいます。


目次を見る

「USBからワイヤレス化と電磁波空間」


   


     9月 3rd, 2012  Posted 12:00 AM

明確に記憶していますが、
レガシーインターフェイスからバスインターフェイスが汎用化される。
こんな情報を1993~4年頃に、
当時、EIZOモニターをデザインしていましたから、
私はとても興味と期待を持って待っていました。
USB=Universal Serial Busになって、
本当にPCはじめデジタル機器のコードコネクションは便利になりました。
最近は、miniUSBやmicroUSBでコード・マネージメント、
これはEIZOブランド商品で私が提示しましたが、
おおよそ、この写真にあるようにほぼ5種程度でいいようです。
無論、
私にとってはオーディオ用のUSBコードの進化に最も注目しています。
USB性能の進化は、転送速度と機器間の相性問題があります。
だから、安易なコードがUSB3.0といえども、私自身は信用していません。
オーディオ用のUSBケーブルが、miniやmicroになり、
しかもノイズ対策が完備してほしいと思っています。
機器設計デザインの立場だと、
microUSBが基盤実装上でも効率的なレイアウトが可能です。
つまり、データー転送の信号ケーブルと電源コード、
ローパワーデバイスとハイパワーデバイスだけでなく、
さらに、
各種機器間のコネクションケーブルになってほしいと思っています。
しかし、将来は、USBコネクションもワイヤレス化が望まれますが、
これも空間の電磁波問題は、まったく見通しもついていません。
私としては、このUSB進化の系譜が
そのまま「医療機器」のコードコネクションをまず完成させ、
そのワイヤレス化、当然電力デバイスへの進歩であり、
この時の電磁空間が与えるであろう人体への影響です。
私には、ICDが身体に埋め込まれていますから、
電磁波空間は生死に関わっています。
明言すれば、
電磁波空間も放射能空間も同次元・同位相なのかもしれません。
考え過ぎかもしれませんが、
それでもUSBは大きな進化だったことは間違いありません。


目次を見る

「絵画に惚れることの重大さ」


   


     5月 4th, 2012  Posted 12:00 AM

絵画にはいつも目配りをしています。
それは美大で学んだこともありますが、
「絵が大好き」という天性の嗜好性があるからでしょう。
心臓疾患で長期入院162日間入院をしたことがあります。
ちょうどその時に、
以前から美術雑誌で見かけ心を奪われていた画家がいました。
彼の初めての日本展開催を知り、
妹にカタログ購入を頼みました。
その後、フランスで彼の画集を随分探し回りました。
しかし見つかりませんでした。
ところがそれは書棚の一番上に大量に並んでいました。
まさかそれほどの人気画家とは思ってもいなかったのです。
モンパルナス付近の美術書専門街でも、
そこの書店主は「家族全員が大好きだ」と告げられました。
フランスでは本当にポピュラーでした。
ともかく、大好きな画家はいっぱいいますが、
彼はその中でも一番です。
パソコンなどのデスクトップ画面は、
必ず彼の絵にしています。
あるとき、
グラフィックデザイナーから画家に転身した友人から、
「誰の絵が好きか」と尋ねられて彼の名を上げたら、
「買えばいいじゃないか」って、簡単に言われました。
「彼の名をあげるなんて最高にいいよ」と評されました。
私は「色彩論」を教えるときには、
彼の絵画での私なり解釈の色彩調和論を講義します。
この「サッカー」などを見ても明らかに、
具象性と抽象性、さらにマチエールもミックスメディア性など、
現代絵画を革新しています。
現代絵画と現代音楽は相通じるところがあります。
「絵画」と「音楽」は美学の対象分野であり、
私にとっては、デザインをするときの背景、
特に造形と色彩選びの基盤・下敷きであることは間違いありません。
そして、彼のこの絵が代表するように
世界の画壇に大きな影響を与えるものとしてスターになりました。
これからさらに一般的にも有名性を獲得することを約束されました。
ところが個展準備の制作中、個展直前に自死しています。
どういうわけか、私は自死を選んだ画家が好きなようです。
フランスに行くと必ず彼の画集を探し求めています。
彼の作品で欲しい物が数点あります。
彼の名は「ニコラ・ド・スタール」です。
「絵画」を眺めるということと自然風景を見ること、
すなわち「鑑賞」するということの重大さを心眼にしていくことは、
きもちの振幅にα波を与えるようなものです。
このα波がいのちを活性化するのです。
このα波を絵画に込める苦難が作家を冥府に誘い込むのでしょうか。
デザインも絵画同様「鑑賞」してもらうことを願っています。

目次を見る

「2/14のチョコレートは天然とヒーリング」


   


     2月 16th, 2012  Posted 12:07 AM

チョコレートは大好きです。
今や様々なチョコレートが満ち溢れているわけです。
しかし、人間の味覚感覚は
子供の時に方向付けられることは確かです。
14、15歳に味覚は決定してしまうとさえ言われています。
私にとってチョコレートは明治の板チョコが基盤になっています。
最近、亀倉雄策デザインが変更されてしまいました。
デザイナーとしては正しい変更だと思っていますが、
ちょっと淋しいことです。
高価で有名なチョコレートより、
私のチョコ味覚はこの板チョコに戻ってしまいます。
バレンタインもワイフには「明治の板チョコ」を要求します。
さて、今年は珍事発生。
もらった板チョコには、「これは食べられません」という表記あり。
ワイフに、「おい、嫌み?」って聞いたら、
「なぜ、こんなに高いのだろう大きいからかな?」
って思っていたという回答。
(超天然!に入り込んでいる)、という次第です。
すべて「ゲーム」でした。
「食べられません」ってこんなにはっきりラベルがあるのに。
というわけで、昨日、「食べられる板チョコ」になりました。
まあまあ、今年の思い出というか、
天然である健全さにホッとしたバレンタインでした。
プレゼン会議の後に、
ワイフは男性陣にはきちんとチョコレートを配ってくれていました。
「おお、帰宅したら妻に自慢できる」という具合で、
緊張感バリバリの会議終了時、
やわらかなヒーリングムードを準備してくれました。

目次を見る

6月26日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     6月 26th, 2011  Posted 10:00 AM

6月26日 大安(壬子)

デザインの真意は、
デザイン手法の基盤である
理念や哲学である。

『デザインという先手』手解き 伝道しながら


目次を見る

4月30日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     4月 30th, 2011  Posted 10:00 AM

4月30日 赤口(乙卯)

よく、感性が
デザインの基盤だとさえ言われる。
半分は賛同できるが、半分は疑わしい。

『デザインという先手』はじめに


目次を見る

『資本主義からの逃走』
 「デザインは『付加』するものではないということ・3」


   


     7月 21st, 2010  Posted 12:00 AM

外観化の思想

私は、デザインを「付加価値」だと考えたことはまったくありません。
理由は簡単です。
当然、デザイン職能は「外観づくり=形態化」に集約された営為です。
しかし、「外観」は単なるハリボテを纏わせているわけではありません。
特に、機器であれば、筐体・基盤・機構などを「実装」します。
そして、それぞれの「素材」を熟慮しなければなりません。
ソファやイスなど、ほとんど「構成」された形態といえども、
内部の構成部品や構造から製造工程、流通・運搬工程に、本来のデザインは関わります。
「本来のデザイン」と改めて記述しました。
「デザイン」=形態化というのは、私自身、美大では産業美術学科であり、
まさしく産業のために美術を応用しようという時代を通過しました。
しかし、それはデザインを「制度」として日本に位置づけた官僚的な判断だったと考えます。
未だに大学教員の専門が「デザイン」は「美術」に配属されています。
結局わが国の文化的醸成度が大きく欠落していたからでしょう。
確かに、大学では産業美術としてのインダストリアルデザインを学びましたが、
美術的なテクニックはあくまでも「表現手法」として訓練されただけでした。
むしろ、「デザインの本質」としては、
「社会的・Socio・デザイン」と「革新的・発明を念頭・デザイン」や
「少数派のためのデザイン(現代的に言うユニバーサルデザイン)」など、
考え方や思想面を徹底的に仕込まれました。
企業内インハウスデザイナーになってからは、
さらに「発明や革新性や社会性、文化性」をデザイン部門は常に追いかけていました。
デザイン=意匠=外観化の基盤や背景・思想であり、
単純な「商品価値を強化する付加的要素としてのデザイン」は、私の経験の中では皆無でした。この私の体験は、決定的に「付加価値否定論」者です。
物語=モノ語り
私がデザインは「全体価値」と言うことを「物語」=モノ語りに焦点化させたのは、
次のような考え方がありました。
まず、「モデル化」;
すなわちデザインモデルは「数理的モデル化」に近似しているということと、
見本ではなくて手本、つまりサンプル思考では無くてテキスト思考だということです。
そして、いづれの「モデル化」にも共通しているのは、「構造主義的な思考」です。
これは、70年代からの社会科学に数理モデルの適用や、
文化人類学からエソノメソドロジーやセマンティックスが混在化しつつ、
「学際性」により専門性の解体が始まろうとしていた時期と共時できた幸運でした。
「物語」への構造主義的な論理に私は心惹かれるとともに、
自らのデザイン背景、「論理から形態と形態から論理」のインターラクション性、
ことばとかたち:かたちとことばを意識するようになりました。
結果、「付加価値というデザインはあり得ない」ことへの自覚と自信が、
私のデザインにも表れる様になったものと自負しています。


目次を見る

『資本主義からの逃走』
「マスメディアへの死亡宣告を告げなければならない!」


   


     3月 25th, 2010  Posted 9:40 AM

マスメディアは瀕死
私は「マスメディア」・「マスコミュニケーション」は、
共に瀕死的状況になっていると確信しています。
新聞・TVは、報道というジャーナリズムがすでに、
自らの役割認識をどこかで見誤ってしまったのでしょう。
その認識変異点=時期はおおよそ指摘することができますが、
もう少し、確証を集めてからにしたいと思っています。
変異点の体験
Mac派の私に言わせれば、1984年は変異点でした。
1996年に名古屋市立大学に芸術工学部が新設されたとき、
大学人になった私は、第1期生すべてに、
Machintoshの購入を求めました。
そして、それにはethernet-cardを特別仕様として、
Apple Japan社に依頼しました。
その時の営業本部長が現・マクドナルドの原田社長でした。
学生には自分たちのデスクからethernet-cableを自作させました。
そして、全員にメールアドレスというのは、
名古屋市立大学全学からも相当の批判をされましたが、
押し切った思い出があります。
私が追いかけていたのは、「ラピッドプロトタイピング」でした。
なぜ、ここまでの時期に振り返るかといえば、
当時には予想もしていなかったジャーナリズムの、
大転換時期が始まりつつあったからです。
ジャーナリズム
「ジャーナリズム」とは、「日々の記録」が原意です。
したがって、Blogという形式が「日記形式」というのは、
個々人のジャーナリズムが、自ら発信し出したことでした。
プライバシー
読まれなくても、Blogには、
報道されることへのきわめてプライベートな意見が
書き込まれるようになりました。
この変化に、マスコミは「たかがBlog」と看過していたのです。
どれほど、「プライバシー」と「パブリック」が、
メディアでその相互性が変貌し始めてきたかに、
全く気づいていなかったのでしょう。
このBlogという「日記的文体形式」は、
「マスメディア」を浸食していることが、
いわゆる職能ジャーナリスト(そんな職能は幻想共同体)には
気づくどころかその影響の大きさを想像することさえできあせんでした。
そしていまなお、マスメディアを存続させようとしていることが、
どれほど、プライバシーとジャーナリズムの融合点が生じているか
見ようともしていないのです。
そして、この事実に「資本主義」と「民主主義」が、
基盤だと言っている限り、彼らは消滅していくのです。


目次を見る

『資本主義からの逃走』
 「# チュッパチャプス武器論・効能考察です #4」


   


     3月 23rd, 2010  Posted 12:01 AM


効能=結果考察
戦術結果というのは「効能」ですから、
チュッパチャプスの効能を考察することに集中します。
論文の文体プロット的に、私が題材とした映画の武器結果から、
チュッパチャプスが武器だと思ったことへの考察・熟考を
試みてみたいと考えます。
ジェネラルルージュの凱旋
ジェネラルルージュの凱旋」というのは、
映画テーマとして現代救急医療制度、
その問題点をとらえた物語性としては面白く、
エンターテイメント性を、社会正義とするための反正義性、
贈収賄を二重構造として、主人公の横柄さや権力への反抗が
よく表現できていたと私は評価しています。
その演出小道具が、チュッパチャプスであったということ。
しかもチュッパチャプスも贈収賄物品だったというオチに、
「武器」なるものの、威嚇性・抑止性がどれほど実際的には、
滑稽さがあるかという批評性が基盤であり、演出でした。
この映画の演出結果、それは演出効果であり、
チュッパチャプスの武器効能に直結していると考えます。

無論、ジェネラル=提督たる緊急医療時の指揮官の話です。
緊急かつ救急医療に立ち向かうときの指揮官の決意には、
青ざめる唇に口紅を塗ってまで自己を奮い立たせるという
口紅と凱旋光景があるという題名があっても、
全編では、主人公が自己選出にはチュッパチャプスの存在、
私はその存在物を「武器」だと感じ取り、
この武器を演出にとどまらず、
自分の武器にしようとさえ思いついてしまったわけです。
そして、明らかに、この武器論を書くまでには、
武器として使用し、武器なるモノのあり方を確認しました。
実験というより実施した体験からの考察です。
モノの体系は武器の体系
だから、結論は結果・効果は効能、
すなわち、現代のモノ、そのすべからく体系には、
ツール性とメディア性の分別も述べてきました。
結局、ツールやメディアも、武器なのです。
だから「モノの体系」論として、
たかだか、舐め舐めする飴にすぎないチュッパチャプスすら、
使い方では「武器」になる!ということです。
武器デザイン
したがって、文明が人類に人工物としてモノ全てが、
武器であるというのは、決して言い過ぎではないと考えます。
デザイナーとして、
モノのデザインは「武器デザイン」を常に意識することです。
欧米のデザイナーが、拳銃デザインに関わっていることは、
あまり知られていませんが、
私は毎年、新製品が登場する拳銃デザインは、
誰が、どのデザインスタジオがデザインしているかを、
「造形言語」から読み取ることができると自負しています。


目次を見る