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Posts Tagged ‘大誤解’


『対決が明白なTVドラマの効能性の評価』


   


     1月 20th, 2015  Posted 12:21 AM

私はTV大好き人間です。
だから番組改編ともなると、全ての番組を観ずにはいられません。
すでにTVというマスコミの形式は破綻を始めています。
これは情報社会、マスコミ論として別稿しなければなりません。
したがって、TV番組の形式と内容は、視聴率という評価軸で、
その存在性が、時代的に問われる事態になっていると思います。
「能書き」という会話ことばがありますが、これは性能説明のことです。
一般的には薬の効能、薬の効き具合を説明書きされたことです。
私は、デザインは機能的とか、機能的だからデザインという論述は
きわめて曖昧であり、それゆえにデザインの理解は大誤解を招く、
このことをずーっと主張してきました。
そこで、今回とても明確なこのTVドラマ対決は、
ドラマの効能性そのものの評価に連動していると思っています。
同時刻に、一方は夫であり一方は妻を主人公にした番組です。
肖像権上、ブログであっても男優や女優の写真は控えましたが、
ドラマタイトルのロゴは著作権表示で借用しています。
こうしたドラマは、すでにタイトルで一つの決着が決まっています。
夫の形容はすでに「ダメな」と言い、妻の形容は○○ゆえに、
視聴者の想像力に任せた○○が勝っています。
つまり、タイトルが効能性を表現し、ドラマ内容は脚本と、
画面構成デザインで視聴率の勝負はついてしまっているようです。
TVドラマには、その番組物語には機能性はありません。
問われているのは効能性という、特に時代的で社会性での存在です。
もし性能性を語るとするならそれは対決するTV局の能力差異性です。
翻って、デザインの効能性と性能性もこのドラマの対決存在から、
一つの大きなヒントを確認することができるのではと思います。
デザインは、性能性と効能性、その能力が機能性だと、
私は定義することができると考えています。


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11月14日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     11月 14th, 2014  Posted 12:00 AM

11月14日 己丑(赤口)

武士道と喧嘩道は
大誤解を受けている。
いづれも
暴力的な、
まさに「斬り捨てゴメン」的な
即行動扱いをされるが、

真実、
武士道も喧嘩道も
誠心誠意をつくす
作法であり、暴力性などは
全く無いのである。
川崎和男「喧嘩道」


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『陶磁器の二つの歴史・創れないモノまた創れるモノ』


   


     2月 7th, 2014  Posted 12:00 AM

私は陶磁器には二つの歴史があると見ています。
縄文弥生にあった六古窯の歴史と、
秀吉の朝鮮征伐により日本にもたらされた家元制度の歴史です。
そして、私が陶磁器には進化が無かったというのは、
かつて革新されてつくれたモノが現代では創れなくなったモノ、
もう制作不可能だったモノが現代、なんとか再現できるモノです。
日本が貿易国家になっていった九谷焼(右)はもう再現不可能。
比して、現代、弥生時代には出来たであろう越前焼(左)です。
九谷焼は明らかに有田焼技能が北前船で伝わったであろうこと、
しかし、有田での輸出品よりはるかに技術開発されましたが、
現代、九谷でこのガラスのような磁器と絵付けはもう出来ません。
福井にいたころ、越前焼ではないと私は主張し過ぎて、
越前焼には出入り差し止めでした。
ところが、陶器である六古窯時代を再現する若手が出てきました。
これら陶磁器はいづれも日本の伝統工芸です。
私は恩師から、伝統工芸にデザインを向ける時のまず知識、
その蓄積を教えられました。
そして、革新的な「造形」の新製造生産システムづくりです。
したがって、伝統とは継承ではなくて「革新」です。
ところが、日本のモノづくりの大誤解が最近まかり通っています。
それは、日本の伝統工芸への美的なセンスの全く無い、
プロデューサーを自称する輩に「産地」が騙されているのです。
伝統工芸の革新づくりには勿論、現代生活への適合性が必要です。
だからといって、安易な手法での商業主義では台無しになります。
こうしたモノを見たときには、徹底的に非難します。
問題は、もはや再現できなくなった技術の復権である高度化と、
再現が可能になったなら、過去になった伝統性への裏切りです。
デザインにとって、日本の伝統工芸には未来があるのです。

【ブログの関連記事】
『磁器お皿・三つのパターンと料理手法に進化無し』
『陶磁器産業地を視察して・伝統産地は県行政を決定する』
「六古窯・越前焼ー若い才能が復元から再興を始めだした」
「陶磁器は進化も革新もしていなかった、私の判断」
「自然から学んだはずだった・・・のだが?」


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「3Dプリンターの誤解が未来性を語っている」


   


     5月 23rd, 2013  Posted 12:00 AM

スプーンなどの単純な形態、
実際のスプーンデザインはとてもむずかしいと思っていますが、
これが3Dプリンターで造れるということで未来の工場になる、
というのが大誤解です。
これは実際にデザイナーがモックアップモデルというより、
プラスチックであれ、金属であれ、
この装置が低価格になれば、誰もがデータで自宅でも使えます。
しかし、まだ、正確なモデルや資料などは高価です。
確かに、廉価な装置を「技」ある人物なら可能です。
私のクラインボトルは、どこまで複雑なことが可能だろうか、
こんなことを試している状態です。
ところが、最近では3Dプリンターブームです。
確かに、TV報道でも「銃器」もテーブルの上の廉価な装置で、
簡単に造れるとか言われていますが、
これにはまだまだ「技」形成していく基本を知ることが大事です。
行政や大企業研究所、大学まで、ほとんど予算消化で購入。
けれどもほとんどが「動いていません」。
私は、まだいくつかの問題があると思っています。
廉価な装置にまでなりましたが、
それには、まず「光造形」を知っておくべきだと思います。
そして素材の問題もあります。
金属などは限度と知識、そしてデータ作成と造形「技」です。
確かに、デザイン部門でこの装置をモックアップ化はできます。
上部写真はヴァーチャルにイメージ造形をそのままセット。
下部では、装置が駆動=この装置はまだ個人所有は困難ですが、
3Dプリンターでスプーンが出来ています。
でも、大きな問題はまだ、サポートからモデルを外しても、
その剥離溶剤は産業廃棄物であり、
業者に廃棄をまかせることになります。
これは大きな問題ですから、
自宅使用でもまだ社会システムにはなっていません。
私は、せめてこのサポート剥離の問題は光造形でも問題です。
光造形も3Dプリンターも、確実に、未来工場では、
最高速で、サポートの自由度があり、
結局は成型後の後処理を安全で完全にしていくことが基本です。
3Dプリンターで「何をつくるか?」というよりも、
この装置が日常的な備品になっていくための社会環境、
この改変によって「新しい革新的な未来」があるでしょう。


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「Skype=グローバリズムツールだろうか」


   


     1月 15th, 2012  Posted 12:00 AM

「TV電話システム」は登場初期から種々使用してきました。
福井から名古屋に移住していた頃には、
鯖江市で毎土曜夜の社会人のためのデザイン講座、
SSID(Sabae School of Intelligence Design)を
名古屋からTV電話システムで講義をしていました。
このSSIDは17年間やり遂げました。
約250名の修了生が今も一つのローカルコミュニティになっています。
そして今はUstreamやSkypeがとても役立つツールになっています。
Skypeの使用機器も様々に試してきて、
現在はこれらを使用しています。
映像も音も随分と進化したと思います。
したがって、研究室とデザインスタジオはいつでも会話が可能です。
国内外とも図面や企画書も見ながら会議を済ませることが可能です。
パソコンを核として映像と音響、
それは電話方式や放送形式を簡便なことに変貌することが、
ネットワークの進展によって可能になったわけです。
そこで、私たちはこの簡便さが、
まさしくグロバーリズムのツールと思われています。
しかし、私はグローバリズム、
この世界観的な経済主義の正当性を疑っています。
グローバリズムがあたかも理想主義、
その一つの形式ということを再熟考する必要があります。
TPPもグローバリズムへの推進論と慎重論でとの対決で語られています。
これは国家論としての今後の方向を決定づける一大事です。
私はSkypeを使うときに、
きっと次のような幻想が取りついていると考えます。
Skypeのカメラに自分が写り、
そしてネットワークは限りなくグローバルに広がった世界が映っている、
そんな想いが、確かに現実感ですが、
実は大きな幻想・幻覚・大誤解のweb、
すなわち蜘蛛の巣に現代人は呪縛されてしまったのでしょう。
あらためてネットワークとグローバリズムを
Skypeという現実ツールを前にして再考する方法がありそうです。

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『資本主義からの逃走』
  「『付加されているデザイン』は、デコレーション」


   


     7月 24th, 2010  Posted 12:00 AM

見過ごすデザイン?
正直、これがデザインされているのだろうか、
というモノが本当に氾濫し始めています。
私はすでに60歳を過ぎてからは、「見過ごすように」しています。
当然ながら気持ちは分断されます。
「明確に言うべきだ、いや見過ごそう」という二分化が内省で起こっています。
ただし、デザイン教育の現場で自分の教え子には、
「ここがデザインではない。デザインという大誤解がある」という理由を
説明し指導しておきます。
それは次世代には伝えるべきだと思うからです。
デザインはどうしても「感覚」で捉えられます。
したがって、私も価値感の多様性については、
「あってしかるべき」態度は正確に保持しています。
しかし、「デザイン価値がたとえ付加価値として目指されてことであっても」、
デザインの本質が問題解決や、新たな文化構築ではなくて、
破壊しようとしていることや、
迎合がみえみえのモノは、
デザインではなくてデコレーションという一言で片付けることにしています。
デフレスパイラルで、デコレーションをデザインと呼ぶモノが増殖しています。
でも、デコレーションといっても、
いわゆる加飾の極致である「絢爛豪華」なモノは、充分に受け入れます。
大誤解
さて、デザインの大誤解は二つあります。

▼ Simple is bestとless is moreのはきちがい
▼ Appropriation的が現代デザインだという非見識

この二つを、最近は見過ごすようにしています。
しかし、私が尊敬するデザイン界・学識界・美術界の先生方に、
自分はこうしたモノはデザインでは無いと考えますが、という質問をすれば、
必ずこうした大先輩も同じように「見過ごし」ておられます。
私もそろそろ、信頼する学生や次世代デザイナーには「聞かれたら正確に解答」する、
そんな態勢と態度になりたいと考えるわけです。
それでも、そんなことが出来ない自分がやはり存在しているようですから、
これを「実作デザイン」で具現化創造に、と意気込んでいます。


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