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Posts Tagged ‘ボランティア’


「メガネ革新の核心がはずれた商品は不可」


   


     6月 27th, 2012  Posted 12:00 AM

私が2008年から開発に関わった製品があります。
しかし、このメガネ発案の革新性は国外で開発されました。
そしてデザイン開発にはそこからの依頼で深く関与しましたが、
中途半端にすでに商品化されて発売されています。
無論、この製品は低開発国向けのモノゆえに、
デザイン対価はボランティアでした。
だから、私は「お人好し」だったと思っています。
商品発売は一昨年前に突然、わが国で販売流通がスタートしました。
その発表直後に私はその趣意を知りました。
正直、無念で悲惨な商品になっていますし購入検証して確認済みです。
「ガジェット商品」、つまり「アイディア商品」になっており、
素材や構造は、さらには生産工程がデザインされていません。
日本の製造技術ならこのような商品には絶対になりえないでしょう。
結局は、「低開発国向け」というのは私への虚偽だったと認識しています。
詳細は今後、これを必ず超える商品で証明するつもりです。
しかし、
この商品開発に関与したことで私には多くのノウハウを蓄積しました。
先般、
ふるさとの鯖江市・メガネ地場産地でそのノウハウの一端を紹介しました。
もちろん、この開発での「守秘義務は紳士協定ゆえ」守っています。
むしろ彼らは「紳士協定を無視」していると指摘しておきます。


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「東日本大震災のNHKジャーナリスト講演から」


   


     12月 24th, 2011  Posted 12:00 AM

震災直後のNHK取材は3D撮影であり、
監督されたNHKメディアテクノロジーの智片通博氏に
阪大で特別講演をしてもらいました。
依頼後時間が経ちましたが、
かえって「風化しそうな」記憶を再確認できました。
私自身は震災直後から東芝で
「復興計画デザイン」に関与してきました。
ほぼ10ヶ月かけて「全計画」を書き上げ、
来年早々、東芝トッププレゼンします。
デザイナーとして40年の実務経験からの発想です。
講演では、取材編集はあの日の参議院予算委員会から始まります。
時間経過にそったNHKの天災時対応の詳細や、
そうした放送台本が放送直前の修正まで見ることができました。
私はメモを相当に取りました。
講演を見聞し、幾つか私の心に残り書きとどめたことです。
●震災の歴史的記念は
これは残すべきかは被災された方の気持ちが大事で記念館など不要。
●市町村合併によって町名に何ら東北地方性が失われていた。
●1000年に一度の天災でこそ
「役立たない技術」などはまったく人類に不要。
●NHKは日本人全員の生命と財産を守るマスコミとして
相当の日常的準備訓練があったこと。
●「みちのく」を復旧し復興することが政治で可能だろうか。
●マスコミとしてのNHKに対して、
ミニコミの必要性がもとめられますが、そのあり方。
●箱根を境界として、
日本が二分されてしまった現状から国力再建の可能性。
私は、あらためて国難の中にたたずんでしまっている
自分を客観視しました。
講義後、講座担当教授としてこのような話でまとめました。
1860年、日米修好通商条約提携に向け、
勝海舟・福沢諭吉が乗った咸臨丸が出航。
1854年から1859年は「安政時代」、社会不安に天災続き、
特に大阪も安政南海地震で大津波、
結果、難波(津波災害から)、梅田(埋め田)という地名が生まれるほど。
NHKでも若い取材者は、精神的ショックが相当だと聞きました。
現実、大学生にもボランティアに行きつつも、
そのやりきれなさで自殺者が出ています。
私たち日本人にとって、この震災・津波・原電事故は、
日本を「壊滅」させました。
それ以上にタイでの洪水は、産業的海外基盤を失っている状況です。
祖父や父世代が、日本を敗戦ながらも「楽園国家」にしてくれました。
その楽園環境に麻痺していたのかもしれませんが、
現実、まだまだ復旧さえ進まないわが国は
本当に「絆」をもって再興すべきだと再決意しました。

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7月27日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     7月 27th, 2011  Posted 10:00 AM

7月27日 友引(癸未)

「サービス」とは、宗教用語である。

宗教用語というのが重すぎるなら、
ボランティアとか、奉仕という言葉の
類語だと考えたい。

「サービス料」という、
金銭的なタイトルになっていることが
「何か変」だ。
誠実さを無料で奉仕するという行為が
サービスだと思う。

『デザインという先手』手抜き 不可欠である誠実さ


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「市民運動のパトロンは決定的資本主義」


   


     4月 25th, 2011  Posted 12:00 AM

まず、市民運動に疑念があります。
昨今は誰もが政治の主役。
だから政治は素人で充分という認識。
そうでしょうか。それは無理でしょう。
政治家と言うほどですから専門的職能だと私は考えます。
当然、どのような職能も素人から始まりますが、
やはり政治家になっていくには基礎知識とそれを支える教養、
そして、立法・行政・司法という法律立案運営を支える哲学。
さらには経営能力など政治家素養は拡大しています。
自身の能力で叶わないならばそれなりの専門家アドバイス。
しかし、アドバイスとの対話が出来うるだけの自己啓発力です。
したがって、市民運動が対象としている「ある問題」設定と、
その問題意識だけではいわゆる「情報処理認識」は不可能です。
ひとまず、ここまでのことがらを政治家資質に求めます。
そして、市民運動もさることながら選挙ともなれば、
その活動資金は不可欠です。
ボランティアが全てを支えられる訳ではないでしょう。
すでに明らかになっていることは、「反なんとか・・」には、
必ずパトロンがいるということです。
いわば、そのパトロンは資本主義的な自己利益のために、
世論、たとえば安全神話を操作するだけのために、
当初は純粋な人を市民運動家にしているだけです。
これはほとんどイデオロギーや思想哲学というより宗教です。
したがって、新興宗教団体がパトロンということになれば、
あの「オウム真理教」を思い出します。
宗教法人格を持ち、この法人格=集金装置に出来ます。
明らかに、これは資本主義を変調させています。
哲学と錯覚する新興宗教観での洗脳です。
今、国際的にも、捕鯨禁止だという市民運動、
反核運動、自然回帰運動、CO2問題運動、反原子力運動にも
パトロンが存在していることは明らかです。
私の疑念はここに止まりません。
市民運動・住民運動・学生運動など、
すべからく「人気度と認知度」、
そうした運動の中心人物のカリスマ性まで加わってくれば、
これは民主主義と言うより、
大衆主義が派生しているということです。
だから民主主義と大衆主義での共通項には、
まず、賛同者数ということ=多数決が民主主義という盲進錯覚を
強引なカリスマ性が引導する必要があるということになります。
これは常套手段であり資本主義利得が必ず張り付いているのです。
地方分権(資本主義の矮小的象徴)が声高になってきていますが、
これが市民運動とどれほど接近しているのかは、
さらに「国難」に覆い被さっています。
あらためて、政治へのパトロン性には厳密な監視が必要です。
このパトロン性から、「政治家存在」と「政治家同一性」を
徹底的に確立していくことが国難への前提です。
復旧・復興を語る前段、「救援」はまだまったく終わっていません。
市民運動がまだ立ち入ることができないのは、
パトロン欠落があるからでしょう。
国難と市民運動は充分に対照化できることになっています。
そして無念極まりないのは市民運動家が首相リーダーという悲劇です。

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『資本主義からの逃走』
  「慈愛は慈善には決してつながらず」


   


     6月 30th, 2010  Posted 12:00 AM

ボランティアなる慈善
「感情」の病は憂鬱であり、
単なる悲哀にとどまっているわけではないと思ってきました。
そして、悲哀を包み込む「慈愛」は、
哀=愛よりも広大無辺な支援力を持っています。
私が車椅子生活を宣告されて、リハビリテーションで入院していた時、
いわゆる「ボランティア」という活動が日本でも芽生えた直後だったと思います。
「明日は、あいつらが来るから、それなりに演技せーよ」と言う話を初めて聞きました。
私には何のことかわからず、6人部屋でしたから、尋ねました。
「明日になったら、わかるから」、と
誰も教えてくれませんでした。
当日、いかにも金持ち風の年配で、ギラギラしたメガネのおばさんたちが、
おしゃべりしながらやってきました。
だから、私はギラギラしたメガネのデザインは絶対にしないことにしています。
さて、病棟は、けたたましくうるさく、あの連中が?、でした。
その日、やや熱のあった私には、耐え難き時間が流れていきました。
私は、寝込んでいて、入れ替わり立ち替わり話かけられることにうんざりでした。
「どうしてこんな体になったの?」
「気分が悪いの?」
「ゆっくり休んでいなさい」
「洗濯物があったら、洗うから出しなさい」
(ウルセーェー!)、本当なら叫び罵っていたと思います。
彼女らが、満足気に帰っていくのも、けたたましくうるさかったのです。
「みんな、今日はみんな演技が巧かったなー」と、
病室は、おばさんたち一人一人のまるで品評会でした。
私は、この両者に「怒り」が残りました。
『これが、慈善ってやつなのか?』
慈善は、「施す側」は気持ちいいのでしょう。
「施される側」は、百も承知で、演技で感謝しているかのように演じます。
この演じ合いは、見るに堪えかねる情景でした。
以来、「慈善」は信じられません。
まず、言葉が間違っています。
「神様に捧げる象徴としての羊の頭」を「慈しむ」ことを表意していますが、
こんなことは想像ができません。
つまり、切り取った羊の頭を慈しむという場面は想像を絶するからです。
慈善事業への疑念
「慈善事業」はありえない。
慈善を声高にする団体など、信じること、
それは私には正直、疑念しかありません。
そして、デザインは決して慈善事業などに関与することを私は全否定します。
「我為汝略説 聞名及見身 心念不空過 能滅諸有苦」
お釈迦様は汝のために説くだろう。
観世音の名を聞き、観世音の姿を見て、観世音を念じ、
空しく過ごさなければ、諸々の苦しみを滅ぼすことができることだろう。
観音経』の一節こそ、「慈悲」の力であり、
「慈善」になりえないことを言い説いています。


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