12月 9th, 2010 Posted 12:34 AM
基本的人権
1215年、マグナカルタ。
人間にはこの権利があるという憲章です。
英国で定められました。
日本にこの憲章を基本にするためには新しい言葉が必要でした。
「基本的人権」という言葉を創らなければならなかったのです。
「基本権」・「人権」は、自然権として人間には備わっているということを
日本が受け入れたのは第二次世界大戦後でした。
英国ではすでに「人権」は基本権と言われてから、
この権利は、時代と社会に対応して変遷することで、
「権利」という共同議決の内容は充実してきたことです。
これは人類の知恵の結晶だったと思います。
しかし、わが国では「人権」という言葉すら創りださなければなりませんでした。
そして、現代、「基本的人権」の形式・内容・その質はさらに進歩していますが、
「人権情報」となってきてからはアポリアになってきていると私は考え込んでしまいます。
人権の私的公的アポリア性
私は、憲章化するために日本ではあらためてこの言葉が必要だったというより、
すでに「私」と「公」という漢字に基本権という考え方は存在していたと判断していますが、
すでに国際的議決化が困難=アポリア化しているということです。
「人権」はわかりやすく言ってしまえば、
私事ではプライバシーであり、公的にはパブリックが私事をどう扱っていくかということです。
さすがにこの人間の「基本権」が英国で気づきそれ以後発展進歩してきたことで、
プライバシーという言葉の定義も随分と複雑になりました。以前、このことについてまとめました。
それは、人権を情報としてとらえ直さなければならない時代に
私たちは生きるようになったからです。
このアポリア性に踏み込んでいきたいと考えています。
Tags: アポリア, パブリック, プライバシー, ポリア性, マグナカルタ, 人権, 共同議決, 国際的議決化, 基本権, 基本的人権, 憲章, 第二次世界大戦後, 自然権, 英国
Posted in 059「人権と情報」, 資本主義から逃走せよ!
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5月 28th, 2010 Posted 2:44 AM
Privacy
プライバシーとは、私事、個人唯一性の確認だと考えます。
そして、この言葉ほど意味が拡大というよりも膨張してきた言葉はないかもしれません。
最も原初的な意味は、単純明快でした。
「他人から観察されない私事、私的性の唯一さ、その確認」。
ところが、20世紀後半からは、
意味が拡張というよりは膨らんできます。
「私的であること」が、他人から何ら操作されない権利性に関わってくるのです。
それは秘密とは私事的なことだという定義まで生まれてきた文脈です。
観察されないこと
他人から観察されない状況とは、私的性の確実な確認を、
無比に他人からの観察・干渉・操作から保護されていることになっているということです。
私的である私事には「権利」が保全されているべきだという、
「自由性」が社会的制度からも犯されないことにまで拡大と膨張をしてきたのです。
さらに、その自由性に、「情報」という観念と概念が含蓄されてきます。
「情報」が私事や私的であるということの法的ルールが、
あくまでも「自由であるべき」という基盤上にしか存在しない。
絶対に社会管理されてはならないということにまでなっていきます。
プライバシーが、私事であって、私事からの情報発信性と情報受信性に、
「自由権利」が当然でなければならないということです。
つまり、「情報」を「発信」する自由には、全く義務からの解放が容認されてくるのです。
この開放性は、三つ掲げておくことができます。
■ どのような義務も無く、権利を保全することこそ、
「自由」を再定義しているという認識の共有化です。
■ この共有化には、「個人性」それぞれの私事が
秘密化されることも容認していることです。
■ 「自由」は権利であって、
どのような義務にも拘束されていない、
義務性には立ち入らないということになります。
以上からは、
「自由」・「権利と義務」・「情報」の組み合わせを私事上に成立させようとするとき、
いわゆる「プライバシーの侵害と保護」の対立性が起こるということは想像できました。
これは私事や個人情報、個人にのみ従属と備蓄されているコトがあるのです。
個人が発信した情報には、
その個人のみが操作し判断できる権利を互いに認め合うことでしか社会は成立しない、
そんな結論を鵜呑みしているのかもしれません。
これは個人的な世界観や個人的な思想を、
お互いに「敬意と敬愛」しかありえないということになります。
したがって、秘密・隠匿・隠避する権利をも容認することが、
「民主的」だという共有感覚です。
私はこれには正直、懐疑的だと告白しておきます。
この「私事権利」に「義務設定」を解放、
あるいは皆無化させることで、
公的と私的との距離感覚、その麻痺が始まっていることは否めません。
結局、情報の発信性と受信性にプライバシーの意味が決定づけられていることは、
再確認と再容認、そして再共有の因子がある、
この想像力は保守しておかなければならないでしょう。
Tags: 「資本主義からの逃走」, プライバシー, 個人性, 共有化, 再定義, 従属, 情報, 情報受信性, 情報発信性, 敬意と敬愛, 概念, 権利, 法的ルール, 社会的制度, 私事権利, 私的性, 義務, 義務設定, 自由, 観念
Posted in 030「情報としての日本語」, 資本主義から逃走せよ!
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3月 28th, 2010 Posted 12:30 AM
敗戦後にプライバシー
「プライバシー」とか、「プライベート」という言葉、
この言葉が日本に定着したのは、大戦後=敗戦でした。
そして、このプライバシーというのは自分顕示性です。
敗戦とともに、というのがこの言葉を強化させたものと、
私は、まず、この断言から、告白をしていこうと思います。
「プライバシーの侵害」というかけ声は、
自分性の保全を確保し確約させることを、
誰に委ねたのでしょうか。
私は、これを不明にしている謀議性にプライバシーが、
明確にあるということを感じています。
「プライバシーの侵害」という言葉に暴力性を認めています。
一人っ子のわがまま
私は一人っ子で育ちましたから、
まったく「プライバシー」は、保護されて育ったと思います。
プライバシーの根本は「他人から観察されない状態」です。
簡単に言えば、一人っ子は、
両親の観察状態が大きいにもかかわらず、
一方では放任で、自由と気ままさが容認されるのです。
それは、逆現象になっていると自覚もしています。
一言で言えば、「プライバシー」、
それは「わがまま」を周囲に押しつけることです。
しかも、私は特にデザイナーは、
「わがままであれ!」とさえ、言い放っています。
わがまま=プライバシーとすると、
私は、この主張には、実際的かつ背後の支援体制には、
「暴力性が秘匿内在」していることを、
根本的に認めているのです。
暴力性
なぜなら、「自分性・あるいは自分顕在性」には、
私自身の暴力性が確実にあるからです。
ここから、私は、プライバシーやわがままの暴力性を語り切る、
その自白性に、今度は、私の暴力性を援護している卑怯さを
重ねて配置します。
自分性の強調が暴力であり、その告白はさらに、
自己防衛までを用意周到にしているということです。
自己防衛
結局、
暴力性は二重性を持って、用意周到で狡猾な暴力性を秘匿し、
その防護性で、さらなる「わがまま」の影響性を拡大します。
私は、自分の暴力性、すなわち、自己中心性を失わず、
その暴力性でしか、自己防衛は不可能だとさえ思っています。
結局、私は自分自身、自分性プライバシーから、
「プライバシーには、暴力性が内在している」と言って、
「プライバシー」の現代的な意味性を、敗戦トラウマである、
その再配置する時期がきていると考えています。
プライバシーの侵害なんて、実は、とんでもない言いがかりを、
戦後、わが国に定着させてきたことや、
私も共犯であったことを自白しておきます。
この自白すら、自己防衛なのです。
Tags: 「資本主義からの逃走」, プライバシー, プライバシーの侵害, わがまま, 一人っ子, 内在化, 暴力性, 暴力構造, 自分性, 自分顕示性, 自己中心性, 観察されない状態, 謀議性
Posted in 019「メディアとプライバシー」, 資本主義から逃走せよ!
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3月 27th, 2010 Posted 12:01 AM
情報化
情報時代での「情報化」は、あらゆる物事に及んでいます。
上記はあまりにも一般的ですがあえて記しておきます。
そして、「物質・情報・エネルギー」が現代要素・要因なら、
これらは、
● 物質の情報化・情報の物質化
● 情報の情報化・情報化の情報
● エネルギーの情報化・情報化のエネルギー
という曼荼羅的な組み合わせの相互性や補完性が発生しています。
Privacy
その中でおそらく、
民主主義が最も権威性と権力性を持ったのは、
「プライバシー・自分性の保全」だったのでないでしょうか。
これは、
● 情報の情報化・情報化の情報のドメイン、
その中で検証と検討が不可欠になってきていると思っています。
前述してきた「マスコミ」や「マスメディア」との構造に、
深くプライバシーが関与してしまったからだと考えています。
私はデザイナーという立場で、
プライバシー化する(させる)ツール、
プライバシー化する(させる)メディア、というモノを
最も考えてきたからです。
そして、プライバシーの情報化と情報化のプライバシーに
メディアデザインするモノと
ツールデザインするモノを突き詰めている感覚があります。
以上の記述を読み解くことができ、
なおかつ、職能として「造形化」できるデザイナーが、
確実に減少しているとさえ思っています。
あらためて、問題提起をしておきます。
プライバシーの情報化とは何(ツール・メディア)なのでしょうか。
情報化のプライバシーとは何(ツール・メディア)なのでしょうか。
さらに、これからの「デザイン」が「プライバシーと情報化」に向かい合うとき、
何が「プライバシー・情報化」デザイン解決か?
何がメディアというモノとして「プライバシー・情報化」に、
何がツールというモノとして「プライバシー・情報化」に、
この二つを話題・課題・問題として、デザイン解決できるかということです。
Tags: 「資本主義からの逃走」, インハウスデザイナー, エネルギー, デザイナー, プライバシー, メディア, 情報, 物質, 職能, 造形
Posted in 019「メディアとプライバシー」, 資本主義から逃走せよ!
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3月 26th, 2010 Posted 2:05 AM
Blog=日記形式
私はブログが流行りだしたときにブログが「日記形式」に、
偏在して拡大していくことをかなり激しく否定しました。
そのおかげで、私も相当に非難されました。
私には、ブログが「日記形式」だけになると、
日記形式の「日記内容」が、プライベートの確認になる、
そんなふうに危惧し過ぎたのです。危惧でした。
Privacy
プライベート、すなわち「プライバシー」という定義は、
20世紀、特に大戦後はその定義は幾たびも変貌しました。
特に、法律定義として、法律術語として書き直されました。
だんだんと定義内容は複雑にならざるをえなかった言葉です。
プライバシーとは、
元来は単純、「他人から観察されない状況や状態」でした。
ところが、他人と自分との関係が膨らんでいくのです。
「他人から観察されない権利であり、
自分からの発信する情報、
その情報すら他人から保全される、
発信することも受信することも、社会的な観察・監理などから
まったく自由で解放されている」、という
きわめてこれこそ「民主主義」という極論に至ってしまったのです。
私は、このプライバシーやプライベートの権利主張は、
完全なる間違いだったことを指摘します。
完全なる間違い
「完全なる間違い」と断言するのです。
おそらく、この一方的な見解に、
またまた批判や非難が集中することでしょう。
構いません。受けてたちます。
なぜなら、「民主主義の偏り」は「自由主義」にあるのです。
「自由主義的な権利の主張」、あるいは、
権利の主張が自由主義、これこそ大きな間違いなのです。
そこに、「マスメディア」こそ「民主主義の代弁者」という、
とてつもない思い上がりが重なってきたのだと思います。
したがって、
新聞・TVなどのマスメディアは、
個人のプライバシーを、「知らしめる権利」とまで置き換えました。
有名な世相評論家の言葉があります。
「私は、正論で評論を書くのか、
あるいは、
反論で評論するのか、は、マスメディア企業方針で」です。
私が、プライバシーがブログで「日記形式」に偏ることを
最も危惧したのは、
このプライバシーをマスメディアが攻撃する、
そんな権利を宣言されてはたまらないと思ったからでした。
ところが、逆転したのです。
理由は簡単でした。
権利と義務
ブログの日記形式には「発言する権利の前に義務」をつくしていたことでした。
どのブログも、日記形式と内容は自分自身の意見吐露でした。
となれば、マスメディアは彼ら自身の「義務」にさえ気づかず、
「権利」ばかりを「表現」してきたことだったとも言えます。
これこそ、マスコミの傲慢さと暴力性にまでつながっていたのかもしれません。
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3月 25th, 2010 Posted 9:40 AM
マスメディアは瀕死
私は「マスメディア」・「マスコミュニケーション」は、
共に瀕死的状況になっていると確信しています。
新聞・TVは、報道というジャーナリズムがすでに、
自らの役割認識をどこかで見誤ってしまったのでしょう。
その認識変異点=時期はおおよそ指摘することができますが、
もう少し、確証を集めてからにしたいと思っています。
変異点の体験
Mac派の私に言わせれば、1984年は変異点でした。
1996年に名古屋市立大学に芸術工学部が新設されたとき、
大学人になった私は、第1期生すべてに、
Machintoshの購入を求めました。
そして、それにはethernet-cardを特別仕様として、
Apple Japan社に依頼しました。
その時の営業本部長が現・マクドナルドの原田社長でした。
学生には自分たちのデスクからethernet-cableを自作させました。
そして、全員にメールアドレスというのは、
名古屋市立大学全学からも相当の批判をされましたが、
押し切った思い出があります。
私が追いかけていたのは、「ラピッドプロトタイピング」でした。
なぜ、ここまでの時期に振り返るかといえば、
当時には予想もしていなかったジャーナリズムの、
大転換時期が始まりつつあったからです。
ジャーナリズム
「ジャーナリズム」とは、「日々の記録」が原意です。
したがって、Blogという形式が「日記形式」というのは、
個々人のジャーナリズムが、自ら発信し出したことでした。
プライバシー
読まれなくても、Blogには、
報道されることへのきわめてプライベートな意見が
書き込まれるようになりました。
この変化に、マスコミは「たかがBlog」と看過していたのです。
どれほど、「プライバシー」と「パブリック」が、
メディアでその相互性が変貌し始めてきたかに、
全く気づいていなかったのでしょう。
このBlogという「日記的文体形式」は、
「マスメディア」を浸食していることが、
いわゆる職能ジャーナリスト(そんな職能は幻想共同体)には
気づくどころかその影響の大きさを想像することさえできあせんでした。
そしていまなお、マスメディアを存続させようとしていることが、
どれほど、プライバシーとジャーナリズムの融合点が生じているか
見ようともしていないのです。
そして、この事実に「資本主義」と「民主主義」が、
基盤だと言っている限り、彼らは消滅していくのです。
Tags: Apple Japan社, BLOG, mac, TV, ジャーナリズム, パブリック, プライバシー, マクドナルド, マスコミュニケーション, マスメディア, ラピッドプロトタイピング, 体験, 名古屋市立大学, 基盤, 報道, 変異点, 大学人, 新聞, 日々の記録, 日記形式, 時期, 民主主義, 芸術工学部, 認識変異点, 資本主義, 資本主義からの逃走
Posted in 019「メディアとプライバシー」, 資本主義から逃走せよ!
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