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Posts Tagged ‘情報’


『資本主義からの逃走』
   「欺瞞的エネルギーこそ、共同幻想である」


   


     6月 15th, 2010  Posted 12:20 AM

エネルギーへの論議
「物質・情報・エネルギー」が現代世界構造の三大要素です。
物質と情報については、これまで考察メモをここに記してきました。
さて、「エネルギー」を大きな課題として取り上げていくことになります。
正直、書けないこともあると告白しておきます。
しかし、後世、私のアイディアや思考が間違いであるということがあったとしても、
提言を書き連ねておく所存です。
ある直感があります。
欺瞞的エネルギーは風景であり光景にはなりえぬ
それは「太陽エネルギー」・「ソーラーパネル」についてです。
私は、これが地球にとって最善のエネルギー源になるとは思えませんし、
考えれば考えるほど、「欺瞞的エネルギー源」にすぎないということです。
ソーラーパネルが輝き、風力発電のプロペラが回っている、
これは「風景」にはなるでしょうが、
「光景」にはならないと考えます。
なぜなら、ソーラーパネルを生産するために、
どれほどの電力を消費しなければならないかということです。
風力発電も決して主力電源・エネルギー源にはならないことは明らかです。
私は、おそらくここでは「原子力」について言説化を考えています。
まず、「エネルギーは原子力」である、と明言しておきます。
そしてこの論議は、「タブー」化されてきましたが、
真にエネルギーを考察し洞察するには、この論議こそ大名目だと考えます。


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『資本主義からの逃走』
「日本語の曖昧さを観念化と概念化で見定める」


   


     6月 2nd, 2010  Posted 1:43 AM

概念と観念
私は「情報」や「環境」という現代最も重要なキーワード、
その曖昧さを再検証すべきと主張しています。
その再検証によって、
観念化と概念化を明確にすることができると判断するからです。
では、
概念化と観念化についてもその差異性と同意性を確かめておきます。
これも英語訳で取り囲んでみると、
差異性と同意性が分かります。

● 概念=(concept, idea, notion)
● 観念=(idea, concept, sense)

同意性は、concept, idea
差異性は、概念のnotionと観念のsenseだということです。
そこで、キーワードそれぞれについて、
次の差異性で検分していくことができるものと考えます。

■ 概念的にとらえるには、notion=意図・理解・見解
■ 観念的にとらえるには、sense=思慮・分別・感覚

さて、
こうした差異性を踏まえてキーワードを取り囲んで熟考します。
そうすれば、意味性の深度が必要だということに気づくはずです。
私はデザインをする対象に対して、
簡単に「コンセプト」立案と言う場合には、
すでに「コンセプト」=概念に直結している単純性に持ち込むことは、
デザイン実務、特にデザイン造形を狂わせるものと考えてきました。
しかも、すでに「常識語」であり、なんら検証しないままの
日本語そのものを再検証すべきだと提案しておきます。


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『資本主義からの逃走』
「日本語が曖昧になって現代認識の観念化を誤るかもしれない」


   


     5月 31st, 2010  Posted 7:17 PM

曖昧さ検証へ
私は次の言葉も、「情報」のように曖昧にしていると考えてきました。
福祉
機械
環境
人間
病院
医療
科学
しかもこうした言葉は、「現代」・「現代の問題」を抱え込んでいますから、
大学や行政でも、とても重要視される言葉です。
にもかかわらず、私は、こうした言葉が曖昧になってきたのは、
おそらく三つの理由があったのではないだろうかと推測しています。

■ まず、国際的に「英語」表記が拡大し、
 グローバル用語と日本語との対照訳語、その意味性に距離観がある。
 しかし、その検証を放任している。

■ すでに日本語として確立している言葉だけに、
 現代的意味性がどれほど付加しようと、
 こうした現代性を引き出してまで検証はしない。

■ 既知の意味性、その認識がすでに常識であるために、
 最も通用する、という大錯覚があるにもかかわらず、
 ラングでありパロールとして社会的、絶対的な信用語としている。

私は、すでに日本語として既知認識となっているこうした「言葉」こそ、
その意味性には慎重でなければならないと考えてきました。
特に、現代問題の核心となっている「言葉」は、まず概念よりも観念に直結しています。
したがって、デザインワークの前提には、
「コンセプトワーク」・「コンセプトメーキング」という段階があります。
あくまでも「コンセプト」ですが、
これは必ずしも「概念」で捉えるだけでは不十分です。
私は、「コンセプト」は日本語になっていると思います。
Conceptとコンセプトには距離観があります。だから「概念」より「観念」です。
コンセプトには「概念+観念+問題意識」が不可欠だと考えます。

「環境」という言葉を事例に
たとえば、『環境』という現代、最重要な言葉においても、
「環境=Envilonment」というわけにはいきません。
それは「環境」という言葉には、
日本語になるまで中国からの連綿とした歴史があります。
なぜなら、東洋では「元史・余闕伝」から周囲論という意味、この言葉から始まります。
そして西洋ではヒポクラテスの時代に、
「空気・水・土地」から生態論へ移行して意味の集約に入ります。
この二つの文脈から、「環境=Envilonment」この等式には無理があるようです。

曖昧さの利点と欠点
結局、現代問題の核心となる「日本語」、
そして国際的な英語の訳語としての隔たりと
漢字での表記意味の正確さを対照化するべきと考えます。
そこで、私はこれを「近さの概念」=トポロジー的概念として捉え直す、
その数学的手法も熟考方法になると確信してきました。
その具現化の応用も適用し、評価を受けてきました。
あらためて、日本語の曖昧さの利点と欠点に、
実は「観念」から「概念」
そしてコンセプト・Conceptの文脈があると結論化しています。


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『資本主義からの逃走』
「日本語・『情報』はなぜ曖昧になってしまったのか?」


   


     5月 29th, 2010  Posted 11:27 PM

曖昧性
ある有名情報機器メーカーがかつて、
「情報」とは、「情けに報いる」という広告コピーを出したことがありました。
なんとなく、人情味の交換という意味性を匂わせていますが、
厳密には、「情」は心の中の黒ずんだ感覚であり、
報はそのやりとりが縛り付けられていることというのが原意との解釈ができます。
それは、あまり良い意味性ではなく、
「情報」という表層的な意味の軽量観になっているということです。
したがって、「情報」というのは、四つの意味性で取り囲んだ核心に配置すべきだと考えます。

Information
報道・制度的な広報・私的あるいは公的事実性
Intelligence
秘匿事・隠匿事・企み事・戦略・策略
Knowledge
知識・経験事・生活の知恵・伝統伝承事
Consciousness
意識・見識・良識

以上のことを熟慮すると、「情報」という集約語には収束はしないのです。
むしろ、こうした「伝達性や伝導性の事項」の統合性を一言で言い切ること、
断言できる言葉が必要だったわけです。
「情報」という言葉に収束させて生まれてきた言葉、
「情報」が冠詞的となった、たとえば、情報工学や情報操作などがあります。
「情報」が結語的となった、個人情報やデザイン情報など、
すべからく、包含されている意味性が部分的であり、
なおかつ、誤解される要素に満ちていたものと判断します。
だからと言って、今さら「情報」を日常語から外すことは不可能かもしれません。
したがって、私は、情報を取り囲んでいるこの四つの意味性の総合化を諮るには、
「モノ」=物質=人工物が発明されなければならないと考えています。
この判断は、過去事例に明らかです。
「マルチメディア」という「マルチ情報」をコントロールするモノが結局は登場しなかったこと。
さらには、本来、Informationでしかなかったジャーナリズム思想は、
なんらメディア=新聞・雑誌・ラジオ・TVなどの
モノの形式から解放されなかったのです。

曖昧さからの解放と再利用
だからこそ、思想としての変革は置き去りになり、
電子書籍という形式とそのモノの登場がありました。
その発明とか登場によって、大きな驚愕とともに、
マスコミすら変質あるいは喪失すらするという不安が拡大しています。
私はあらためて「情報」という日本語に押し込められた意味性の曖昧さを指摘し、
この曖昧語からの解放、あるいはこの曖昧さの再利用が必要だと評価しておきます。


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『資本主義からの逃走』
「情報・日本語であるための曖昧性」


   


     5月 29th, 2010  Posted 11:39 AM

情報
「情報」という言葉は、森鴎外の訳語であったという説があります。
そして、そういう説があるらしい、ということを15余年程前に、
ある誌面で書いたところ、強烈な否定論を大学のFAXでいただいたことがありました。
あまりの強烈さゆえ、今も鮮明にその時の驚きと、
その指摘人物=著名学者を覚えています。
それから、日本語での「情報」という言葉については、
とりわけ慎重になる癖がついたと自覚しています。

ドイツ・英国・米国の「情報」
ところが、あるとき偶然にも、
海外のインダストリアルデザイナー友人達と会合を持ったときに貴重な体験をしました。
英国人・ドイツ人・アメリカ人、そして私=日本人での会合でした。
パソコンという言葉が登場した頃であり、
今後、このパソコンで「何」が変わっていくか、というテーマになりました。
決して、これは議論でもなく和気藹々とした会話だったのです。
まず、会話では、コンピューターのパーソナル化、
すなわち、「日常生活でパソコンの存在」が、「ポストインダストリー=脱・工業化社会」、
この言葉での書籍も一段とビジネス書は増えてきた頃でした。
結局は、「工業社会から情報時代」に入る。
そうなれば、インダストリアルデザインの職能範囲、拡大するのか縮小するのか、
あるいはもう終焉し、デザイン職能が変態するかもというとめどない会話になりました。
そこで、行き着いた各国語での「情報」という言葉がどこに集約し収束しました。
だから、焦点がどこに至るのだろうかということでした。
まず、ドイツが、脱・工業化を国際的には最初の発言者だったという確認でした。
それは、「意識社会」の出現、という予測でした。

意識=Consciousness

パソコンが大きな刺激を与える存在になるというのが、ドイツ人の主張でした。
ところが、英国人は「知識社会」の深度がますます重要になっていくという主張をしました。

知識=Knowledge
を膨大にストックし、
その知識配分の格差が増大してくるという話題でした。
米国人は、ちょうどArpanetがInternetになっていくことから考えても、
これはIntelligenceの国家・民族・宗教・思想・主義などの諜報性に、
対立や調和や共有が様々に起こりそうだということの主張でした。
情報は、情感的な伝達性という意味が日本語の根底にはあるようだということを話をしました。
彼らと明らかに違っていたのは、
情感という感覚的な曖昧性が日本語にはあることをその時、私は改めて知ったのです。
この曖昧さは現在も温存されたまま、
「情報=インフォーメーション」という単一な茫漠とした意味合いのままなのです。


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『資本主義からの逃走』
「情報がプライバシーの決定因子になってきた文脈」


   


     5月 28th, 2010  Posted 2:44 AM

Privacy
プライバシーとは、私事、個人唯一性の確認だと考えます。
そして、この言葉ほど意味が拡大というよりも膨張してきた言葉はないかもしれません。
最も原初的な意味は、単純明快でした。
「他人から観察されない私事、私的性の唯一さ、その確認」。
ところが、20世紀後半からは、
意味が拡張というよりは膨らんできます。
「私的であること」が、他人から何ら操作されない権利性に関わってくるのです。
それは秘密とは私事的なことだという定義まで生まれてきた文脈です。

観察されないこと
他人から観察されない状況とは、私的性の確実な確認を、
無比に他人からの観察・干渉・操作から保護されていることになっているということです。
私的である私事には「権利」が保全されているべきだという、
「自由性」が社会的制度からも犯されないことにまで拡大と膨張をしてきたのです。
さらに、その自由性に、「情報」という観念と概念が含蓄されてきます。
「情報」が私事や私的であるということの法的ルールが、
あくまでも「自由であるべき」という基盤上にしか存在しない。
絶対に社会管理されてはならないということにまでなっていきます。
プライバシーが、私事であって、私事からの情報発信性と情報受信性に、
「自由権利」が当然でなければならないということです。
つまり、「情報」を「発信」する自由には、全く義務からの解放が容認されてくるのです。
この開放性は、三つ掲げておくことができます。

■ どのような義務も無く、権利を保全することこそ、
 「自由」を再定義しているという認識の共有化です。

■ この共有化には、「個人性」それぞれの私事が
 秘密化されることも容認していることです。

■ 「自由」は権利であって、
 どのような義務にも拘束されていない、
 義務性には立ち入らないということになります。

以上からは、
「自由」・「権利と義務」・「情報」の組み合わせを私事上に成立させようとするとき、
いわゆる「プライバシーの侵害と保護」の対立性が起こるということは想像できました。
これは私事や個人情報、個人にのみ従属と備蓄されているコトがあるのです。
個人が発信した情報には、
その個人のみが操作し判断できる権利を互いに認め合うことでしか社会は成立しない、
そんな結論を鵜呑みしているのかもしれません。
これは個人的な世界観や個人的な思想を、
お互いに「敬意と敬愛」しかありえないということになります。
したがって、秘密・隠匿・隠避する権利をも容認することが、
「民主的」だという共有感覚です。
私はこれには正直、懐疑的だと告白しておきます。
この「私事権利」に「義務設定」を解放、
あるいは皆無化させることで、
公的と私的との距離感覚、その麻痺が始まっていることは否めません。
結局、情報の発信性と受信性にプライバシーの意味が決定づけられていることは、
再確認と再容認、そして再共有の因子がある、
この想像力は保守しておかなければならないでしょう。


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『資本主義からの逃走』
「物質と情報は、クロス化して同値的となる」


   


     5月 27th, 2010  Posted 1:42 AM

モノ・コト
単純に、「物質=モノ・情報=コト」と、一言にまとめておきます。
そうすると、モノとコトとの関係=構造化は、
価値的には同等だと考えることが可能になってきました。
例示するならば、
実物であるモノ・例えば、自動車や時計を考えてみましょう。
現物である自動車=リアリティ・モノは、
写真という仮想現物=バーチャル・コトは、
当然、現物と写真そのモノの価値は全く異なります。
しかし、現物が効果ならしめるコトと、
写真となっているコト=情報は、
現物のモノ仮想ですから、
「所有し、使用すれば」、価値性は同等です。
また、「モノとコトとの構造を認識」すれば、それも価値としては同等です。
したがって、デザインの役割も、
モノづくり+コトづくりの社会化が職能と20世紀後半から言われてきました。
結局、私はこのブログで何度も何度も、様々な視点から思考し考察し、
デザインするモノとデザインするコトが、
メディアでありツールでもありうるということに行き着くわけです。

● モノの効果→物質のメディア化
そこで、モノの効果としてのコトは物質のメディア化となり、
● コトの表現→情報のツール化
コトの表現としてのモノは情報のツール化になるというわけです。

メディアクロス・ツールクロス
現代は、メディア・ツールが混在し、
なおかつ補完し合うことが私たちの「日常性の環境」になっているということです。
デザインするモノが、メディアとなって、
デザインするコトが、ツールとなっていく、
このことが理解できない経営者はリーダーにはならないでしょう。
今、成功している経営者の経営手腕、
その経営姿勢や企業の商品・店舗などの表現形式と内容は、
確実に、
モノ=物質=商品と
コト=情報=広告や広報などには、
見事な「メディア・クロス・ツール」と
「ツール・クロス・メディア」という手法が実践されています。
現代、物質・情報・エネルギーというこの三大世界観に起こっているこのクロス性は、
資本主義経済社会を変更させていると考えます。


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『資本主義からの逃走』
「三大観念である物質系デザインはエコロジーの具現化か?」


   


     5月 22nd, 2010  Posted 12:45 AM

世界観としての物質・情報・エネルギー
私は「物質・情報・エネルギー」が世界観だと考えています。
そしてこれらをまさしく、歴史的な世界観と照合させます。
五大思想や五行説、あるいはインド的三大(火・水・土)です。
「物質・情報・エネルギー」この三大世界観を日常化するには、
この三大世界観、私なりには、世界の構造軸、
その要素と要因を意図しています。
物質
物質というのは、物ですから自然物から人工物全般です。
私はこの中でも人工物=モノと表現しています。
デザイナーとしては、このモノ=人工物を中核にしています。
本来なら、自然の中での人工物ですが、
私は、デザインするモノ・デザインされたモノが、
自然との関係と人間との関係、すなわち世界観の構造というわけです。
自然物が当然、世界観の基本ですが、
私は、人工物=モノから自然を見ていると思っています。
エコロジー
このまなざしゆえに、たとえば「エコロジー」という、
ある世界観へのまなざしには慎重でありたいと考えています。
とりわけ「エコ」ブームには懐疑的になっています。
「エコプロダクト」という呼ぶ方に集合されているモノのデザインに、
「デザインの本質性」があるのでしょうか? 正直、無いと思ってます。
いづれ明快な回答と解答を書くつもりですが、
現在、「エコプロダクト」という商品で、
デザイナーとして納得できたモノは有りませんでした。
なぜなら、人工物=モノと自然物=もの・物,
この二つは対決せざるをえない構造を持ち合っていると判断するからです。
もし、世界観における「物質」系=自然もの+人工モノは、
調和・ハーモニーと均衡・バランスの相互性が必要です。
したがって、モノとものという「物質」系は、
ハーモニーとバランスという相互作用性がデザイン対象意図だと判断しています。
ただし、調和とバランスには、反発構造や対決と融合・融解までの幅もあるわけです。
あらためて「エコロジー」という言葉の由来、
そして生態系バランスのあり方を見直す必要があります。
デザインが世界を変える
「物質系」世界観の最適解としてのデザインこそ、
「デザインが世界を変える」ことになります。
「世界を変えるデザイン」というのは、
本質的な論理性が実は壊れているのです。
このことに気づかないデザイナーには、
デザインの本質がまるで見えていません。
もっと基本的な「世界観」・観念論的哲学の基本が必要でしょう。


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『資本主義からの逃走』
「三大観念の世界観を!」


   


     5月 21st, 2010  Posted 12:53 AM

五大
私は、現代21世紀も10年、ワンディケードに入りました。
そして、私が明確に意識しているのは、三つの世界観です。
世界観という観念が三つあるということです。
仏教における五大思想のような象徴であり、焦点です。
仏教での五大というのは、
■ 地・地球であり大地
■ 水・海や川で流れる変化変相
■ 火・燃え上がる情熱
■ 風・自由性や成長
■ 空・天空・無
この五つの要素や要因を掲げて、
これが世界と人間界の実存と伝えられてきました。

三大
中国の五行思想=木・火・土・金・水と混同されますが、
世界観への人としての、
自分の存在を自己納得させる要素要因の観念としては
同等の思索軸だと私は理解しています。
そして、現代、この世界観念の軸・象徴を掲げるなら、
まさに、かつての三大=火・水・地は、
■ 物質
■ 情報
■ エネルギー
この三大観念と具体が世界観と考えます。
果たして、この三つの要素・要因の具体性は、
● 物質というモノの体系
● 情報というコンピュータとネットワーク体系
● エネルギーという具体的な電力やエネルギー源体系
こうしたことに集約して、現代世界観念をまとめることができます。

経世在民へのエネルギー
この三大世界観を、人間社会の能動性や効率性に、
「経世在民」が覆い被さっていると考えることができます。
私が、この現代三大世界観に、
これまでの「経世在民」の基盤である「資本主義」、
そして「民主主義」を照合していかなければならないと考えています。
世界観の変貌性は劇的で瞬時です。
少なからず、
「情報」世界観が、iPadなるモノの出現でどれほど変貌していくのだろうか、
そんなことを記してきました。
たかだか、iPadという製品です。
それでも、この製品からの体系=アプリケーションから、
日常的なユーザビリティのダイナミックスです。
ところが、それ以上に、私たちが直視しなければならないのは、
「エネルギー」へのまなざし、
そのあり方になっていくでしょう。


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『資本主義からの逃走』
「手旗信号、モールス信号、子供の頃から現代まで」


   


     5月 16th, 2010  Posted 12:01 AM

モールス信号
子供の頃に、手旗信号をいわゆるガキ仲間でマスターして遊んだことがあります。
モールス信号は、父が教えてくれました。
そして、当時市販の通信セットを組み立てました。
これは、覚え方があったのです。
イ=Aは、 「・ー」で、A、イ、トー
ロ=Bは、 「ー・・・」Bー、ロージョウ
ハ=Cは、 「ー・ー・」Cー、ハー、モ、ニー、カ
などや(正直もう忘れています)、
Twitterでoctopusoctobus さんからは、
A=イ「アロー=イトー」
B=ハ「ビークラス=ハーモニカ」
C=ニ「シーノコース=ニューヒゾーカ」懐かしいと教えてもらいました。
肝心なのは、SOS=Save Our SoulsまたはSave Our Shipで
「SOS=・・・ーーー・・・」です。
これは、私の「緊急発進ラジオ・東京ラリア」という作品に表示して、
笛の拭き方を示すのに利用したことがあります。

手旗信号
手旗信号は、最近、映画「剣岳」でそのシーンを見て、
「僕は出来るんだぜ」って言って、
カタカナ表記を両手で表現するのをワイフに見せて、自分では自慢していました。
ワイフは「フーン」って言われただけでした。女にはこの凄さわかんないんだ!
さて、人は、遠くにコトの次第を通信するのに、
「のろし」や「手鏡」や、手旗信号、モールス信号などを発明してきたのです。
RadioやVideoの意味も、「遠くの音を聴く」、「遠くのものを見る」ですから。

ピクトグラム
記号では、「ピクトグラム」というのがあります。
無論、大学時代に基礎を学びました。
ちょうどそのとき、大阪万博で「サイン」と呼ばれるピクトグラムが発表。
会場のポイント表示がされたのです。
今では当たり前の、たとえば「トイレ」のサイン、
大抵は、青い人のかたち=男性で、ピンク赤の人でスカート=女性です。
ところが、当時、これが日本人にはまだ不明だったのです。
だから、「便所」とそのサインの上に貼りだしたという話が残っています。
私は、上海万博で、とてもおしゃれなサインがデザインされているのを見て、
これが「中国の現代化」を象徴していると思いました。
もちろん、各国の空港には、このピクトサインが架かっています。
だから、目新しいモノや、
ピクトグラムのデザインで優れているものを見つけることは楽しみであり、
必ず写真に撮ります。
特に、障がい者向けやいわゆるユニバーサルなデザイン表現は、
自分のデザインテーマでもあるのです。

情報の記号化と信号化
このピクトグラムが、パソコンでは、「アイコン」になっています。
そして、この「アイコン」という記号、情報の記号化は、
いわゆる情報のメタファーや、情報のアフォーダンスから、
さらに、記号が信号化していく進化が望まれているのでしょう。

記号の信号化
信号の記号化
目の前にiPadがあります。
さて、「写真アルバム」と言われている写真が上積みになった「表現された記号」は、「アルバム」という名称が、もはや、「変更を余儀なくされています」。
すでに、記号化された信号と、信号化された記号には、
新たな名称が求められているのでしょう。
そしてこれが、
記号化された信号と信号化された記号、こうしたことを融合と統合する、
「新たな文化」創出の時代に私たちは直面しています。


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