kazuo kawasaki's official blog

Archive for 2月, 2014


2月23日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     2月 23rd, 2014  Posted 9:30 AM

2月23日 乙丑(赤口)

ひらめきという軽さ、それは、
ミラン・クンデラの代表作である
「存在の耐えられない軽さ」
と比喩してもいいだろう。

倉俣史朗のデザイン『夢の形見に』2ワイングラスのインジケーター


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『行政サービスの力量は救急システムでわかる!』


   


     2月 23rd, 2014  Posted 12:00 AM

阪大への初出勤は救急ヘリコプターで搬送入院からでした。
私は救急車での救急搬送にはかなり慣れているでしょう。
しかしできる限りこの救急システムには未体験であってほしい。
福井で45歳、思いがけず心臓発作で救急看護されたときに、
「救急車は遠慮せず使いなさい」と福井で言われました。
最近はこの行政サービスが「悪利用」されていると聞きます。
おそらく行政サービスの力量は救急車両の制度に表れています。
明言すれば、大阪市の行政サービスにはこの8年呆れています。
様々なことで大阪が全国的にすべからく最低なのでしょう。
だから大阪から一新したいという首長の考え方は賛同できますが、
かつて「上方」と言われた文化である「文楽」を否定する首長には
絶対に救急車制度を革新することは不可能だと考えます。
大阪市の救急車にも私は何度か重篤で搬送されましたが、
救急隊員のユニフォームからして装備は多分全国で最低です。
しかし、名古屋市の救急車両から隊員能力までは最高でした。
たとえれば大阪市で救急隊員を見ると「助からない」と思います。
しかし、名古屋市であれば「助かる!」と思うのです。
大阪は犯罪率も高く、都市の倫理悪から行政までが最低でしょう。
阪大に居て、救急医療の行政サービスが悪いと言ってきました。
医療力量は最高の高度が大阪あっても、行政が台無しにしています!
その責任は首長の文化能力にあると断言します。
救急医療は「命の問題」です。
したがって、救急医療の行政サービスにこそ、
真の文化形成力がこのサービスには求められています。
もっとも、わが国の救急車そのもののデザインは海外先進国から、
学んでいることがあるのだろうかと、
心臓発作のままに検分してきました。
救急医療の行政サービスは、まず、車両と装備、そして隊員、
この文化力は伝統性によって育まれるべきです。
「文楽」という伝統芸能が否定される場にそのサービスは無理と、
私は断言主張しておきます。

「減災・防災・救災のために」
「大学でのデザイン教育=デザイナー育成をめざす


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2月22日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     2月 22nd, 2014  Posted 9:30 AM

2月22日 甲子(大安)

クラマタのインスピレーションが、
神の因襲だといってしまえばそれまでだ。
思いついた、いわば直観なのか、
あるいは霊感なのかはどうでもいい。

倉俣史朗のデザイン『夢の形見に』2ワイングラスのインジケーター


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『日本のレンダリング技術は先輩が切り開いてくれた』


   


     2月 22nd, 2014  Posted 12:00 AM

大学時代には『レンダリング(完成予想図)」は、
描くべきではない、という先生=レンダがデザインを決めるからと、
絶対に巧く描くべきだという先生が私たちを混乱させていました。
私は当然ながらレンダリング技能を磨きたいほうでした。
理由はデザイン表現の技法は最重要だと認識していました。
東芝に入社すると、学生時代の技能では不完全。そこで、
清水吉治の書籍や講習に頼ることになりました。
東芝からも海外向けのレンダを彼に発注することも知りました。
幸い清水氏は大学の先輩であり、留学と海外経験がありました。
CG台頭の最初に私はトロントでその基礎を学びました。
それは手描きのレンダリングをなんとしてもCG化させたいという、
その目的が最大でしたから、マーカーレンダの再現でした。
だから今なお、手描き=スピードライマーカーを使えないとすると
CG表現はとても薄っぺらいレンダリングであり、それはそのまま、
デザイン効用効果につながっていません。
したがって、まず、レンダ・スケッチの描けないデザイナーは、
私はデザイナーだとは絶対に認めていません。
どんなにPCが進化しようが「手」で考える土台がレンダです。
今では私のスタッフ達もMacでレンダを描きますが、
基本はマーカーレンダが描けなければ、CG表現の質は程度悪です。
清水氏は国内に限らずアジアのデザイナー教育を成し遂げました。
彼のレンダリングテクニックは、
技能だけを教えているものではありません。
レンダリングという実務手法の肝心要なこと、
それはデザイン表現での革新=デザイン発想を定着させる技術です。
先輩はデザイン、その技法技術をレンダに集約させてくれたのです。
この春、彼の集大成の展覧会があります。
それは日本からアジアのレンダリング技術の全容です。
デザインと「手」の最重要な関係の先駆者が先輩でした。

「最小限スケッチツールが最小限の存在理由」
「専門家の表現は手で美しく表現するべき」
「PCレンダリングの3D表現誤謬」


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1月27日 staffblog


   


     2月 21st, 2014  Posted 11:56 PM

2月20日

福井県織物工業組合の川崎和男未来塾で
ふるさと福井に行った、
BOSS(川崎和男, Kazuo KAWASAKI)


本塾にて青年部会皆さんと立ち上げた
「oooプロジェクト」の
来年度の商品開発スケジュールと
発表会の日程を決める事ができました!!
新しいモノを造る不安はみんな同じですが、
一致団結して頑張ります!!
お楽しみに


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2月21日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     2月 21st, 2014  Posted 9:30 AM

2月21日 癸亥(仏滅)

展覧会というショーアップ形式では、
次代を反映しているものが
訴求力を持っている。

倉俣史朗のデザイン『夢の形見に』2ワイングラスのインジケーター


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『関東に雪が降るのは天災であり黒潮異変です』


   


     2月 21st, 2014  Posted 12:00 AM

冬に西高東低という気圧配置は降雪のある兆候でした。
「雪雷(ゆきがみなり)」というのが私の記憶にあります。
雪が降る前夜には雷が鳴りました。
38豪雪は中学時代で、毎日がスキーでとても面白かったのです。
56豪雪時にふるさと福井に車椅子で戻り、毎日寝込んでいました。
さて、最近は、黒潮そのものに地球異変が関わり、
この黒潮と低気圧の関係で、関東地方に降雪があることが、
いくつかの大学の論文でエビデンス化されてきました。
山梨にいる友人が雪と格闘しているとかを聞かされていましたが、
まさかと思えるほど大変な事態になっていました。
降雪対策の無い地域にとって、
北陸育ちの私には5〜25cm程度ような降雪には全く驚きませんが、
こういう地域の人たちにとっては降雪=天災だと考えるべきです。
それこそ、住宅構造においても降雪4mを意識している建屋と、
降雪を全く無視してきた地域の建築から道路、車両のあり方
そのすべてに災害対策を考えなければなりません。
ましてTVでの天気予報を観ていても明確に違いがみえてきました。
それは、低気圧の変動を黒潮・潮流の予測と連関する無知識な、
見解を出さない天気予報士はプロではありません。
所詮、天気予報が命中することは半々だと言われていますから、
低気圧と黒潮の相関関係での予報報道は必至のはずです。
この日本列島は、地球環境の異変がそのまま反映しています。
関東地方への降雪はもはや天災だと考えるべきでしょう。
そうなれば、まず、黒潮と低気圧の関係での天気予報。
降雪地帯同様の街づくり・道路と車両と水・食糧・電力は、
「危機解決のデザイン」が必要だと考えています。
日本列島全てに雪が降る、
このことをすべて知り尽くす事態になりました。

『歩けた頃=スキーに夢中だった時の写真が届いた』
「『危機』・ことばの定義について」


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2月20日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     2月 20th, 2014  Posted 9:30 AM

2月20日 壬戌(先負)

展覧会というショーアップ形式では、
次代を反映しているものが
訴求力を持っている。

倉俣史朗のデザイン『夢の形見に』2ワイングラスのインジケーター


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『そろそろ電動車椅子デザインの時期=一人称デザイン』


   


     2月 20th, 2014  Posted 12:00 AM

私は車椅子生活を余儀なくされたので自分でそのモノをデザイン。
私の車椅子「CARNA=生活の女神」はMoMAの永久展示品になり、
海外のデザイン賞をいくつか獲得しました。
しかし、大阪に来てから自宅では電動車椅子を使ってきました。
まだモーターと電池で良いものが無いのですが、
いつも電動車椅子を探していました。
さすがに、米国ではこの車椅子開発や商品が増えてきましたが、
まだデザイン的には「やはり自分のデザイン」が必要です。
CARNAは1989年に実現しましたが、
このデザイン以上のモノは無いと確信しています。
それだけに自宅用と大学用はそれなりですがとても不満足でした。
最近、リチウムバッテリーの軽量20Kgで携帯用を見つけました。
私はこのデザインを今から使用しながら「自分の」モノづくりを
することが必要になってきたと認識しています。
CARNAをデザインしたときに、いつか電動車椅子デザインをと
考えてきたことは事実です。
つまり、「自分の」というのは「一人称」デザインです。
私はデザインの基本は「一人称」のデザインであるべきだという、
この意識がデザインの基本だと考えています。
しかも「自分の=一人称」デザインは最も易しいはずです。
なぜなら、「自分が最も好ましく望ましいモノ」だからです。
好ましく望ましい、というのは「価値」の意味です。
価値というのは一人称の欲望から考えればいいということです。
私のデザインの基本は、「一人称」の価値ゆえ、
車椅子・メガネ・刃物・モニター・TVなどがそのままデザイン対象。
それこそ人工心臓もその対象線上にあります。
電動車椅子への好ましさと望ましさ=価値=「一人称デザイン」。
これからこの車椅子を使用して、やがて「三人称」、
すなわち、みんな(我々)のためのデザインに繋げます。

「一人称・二人称がInclusiveの基本定義」
「造形の言語道断」
「Inclusive Designの近傍的定義はトポロジー解」


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2月19日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     2月 19th, 2014  Posted 9:30 AM

2月19日 辛酉(友引)

商品という形式が、
デザインに対する眩惑と錯覚を
強化することはあっても、
人間のモノづくりの姿勢を
赤裸々に、その内容までをも
発散させてしまうことはない。

倉俣史朗のデザイン『夢の形見に』2ワイングラスのインジケーター


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