kazuo kawasaki's official blog

Archive for 7月, 2011


「もう一人の友に再会すること」


   


     7月 14th, 2011  Posted 12:00 AM

書籍に埋もれた生活。
子供の頃からの夢でした。
30代になって、
文章を書きたいと思ったとき、
ある編集者に言われました。
「蔵書は何冊ある?」
「5000冊あるのなら、書けるよ」と。
私がコンピューター誌で連載を書くようになりました。
最初は「BUG NEWS」(すでに廃刊・パソコン誌の最初)でした。
最近探し出して、自分の連載を確認すると、
当時のAppleエバンジェリストと言われていた人たちもいました。
その後は、「Mac Power」(廃刊)の連載、
これは17年ほど続いて2年半に1冊づつで5冊書籍化できました。
もう雑誌の時代が終わろうとしていますが、
今も、書籍化をめざして書き始めているものがあります。
そのためにもともかくここで毎日ブログを書いてきました。
書くこと、そのための読書ということについて、
私は学生たちにはこんな風に伝えています。
「友達を持つこと」。
それは生きている人間と、
もう死んでしまっていない人たちを友とすることです。
大学人になって名古屋から大阪に引っ越すとき、
恩師に相談しました。蔵書を整理してしまいたいと。
恩師からは「大学人でいる間はもっていなさい」と。
ところが、書籍は相変わらず増え続けています。
しかし、自分の蔵書の前に立つと、
そこには「友」がいっぱいいるわけです。
このような書籍読んだかな、とか、
すでに読んでしまっているのに重複して時々購入してしまいます。
昨日も蔵書を取り出してみたら、
傍線が引いてあったり、その時の書き込みメモがありました。
「そうか、ここをかなり読んでいたんだ」
つまり、その友と会話をしていた名残に出逢います。
もう一人の友との再会です。
中村雄二郎先生の「精神のフーガ」と、
「パウル・クレーの日記」をベッドに持ち込んで読み直しました。
確かに、この部分を「夢の形見に」に引用していたという想いが、
再び巡ってきました。
あらためて、この感慨を15日京都で語りたいと思っています。

夢の形見に」講演会


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7月13日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     7月 13th, 2011  Posted 10:00 AM

7月13日 赤口(己巳)

特に、
人工物と生命の関わりが
派生してくるような場合は、
なおさらのこと、
この考え方を具現化させていくために、
デザインがあると思っている。

『デザインという先手』手抜き 不可欠である誠実さ


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「大きな変動が始まったネットワーク」


   


     7月 13th, 2011  Posted 12:09 AM

Social Networkの時代。
TwitterとFacebookが、
自分のメールやHP・Blogなどにも
最近は大きく関わりつつあるようです。
特に、海外とのやりとりは、
メールよりもFacebookが中心になってきました。
私は、毎日このようにBlogを書いてきましたが、
Facebookで読んでもらっている方が、
感想や誰が読んでくれているかが明快になってきました。
まだ日本でのFacebookは、Twitterほどにはなっていません。
私はTwitterは時間軸情報であり、
Facebookは空間軸情報という具合にみています。
Facebookのインターフェイスは、
最初、日本人にはとりつきにくい感がありました。
しかし、最近ではこの情報空間こそ、
「アンビエント・アライアンス」に近づいていくと思っています。
「アンビエント」というのはロックでブライアン・イーノが掲げた
ある種の「環境」まさに情報環境のあり方でした。
そして、この情報環境あるいは環境情報の具体さが、
Twitterであり、Facebookになっているのでしょう。
Twitterという「つぶやきコミュニケーション」は、
140文字ですが、私自身はなるべく100文字でを試みたものです。
しかし、こうしたBlogでの毎日の記述は、
Facebookの方が受け止めてもらいやすいし、
正直、Blogでは書き切れない形式と内容は、
Facebookという形式が今は見合っているのかもしれません。
結局問題は、パソコンをツールとしたインターネット空間に、
さらに今後は新たな形式が生まれてくるのではないだろうか、
そんな予感があります。
しかし、私はまだまだ「手紙」という形式を打ち破る発明が、
ソフト的・ハード的に生まれてほしいと思っています。
Ustも最近はFacebookでという試みをしています。
ともかく、「使いこなす」という感覚が重要だということです。
これからの講演内容やデザイン内容も、Facebook中心での
新たなコミュニケーション手法に変動するでしょう。
さて、京都の講演では新たなプレゼン形式を披露します。

「夢の形見に」


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7月12日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     7月 12th, 2011  Posted 10:00 AM

7月12日 大安(戊辰)

少なからず、
デザインが技術的な設計に
立ち入るときには、
安心工学としての使い勝手を
その設計に対して導入されるべきだと
考えて発言してきた。

『デザインという先手』手抜き 不可欠である誠実さ


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「手本となるデザイン思想の形見」


   


     7月 12th, 2011  Posted 12:00 AM

自分の著作は何度も読めます。
超速読ができます。
まもなく、プレゼン予定だけに、
「語る」ために読み直しています。
そしてプレゼンの手法自体を変更します。
画像・映像・音響や画面転換形式も革新します。
取り上げる作品は三つだけです。
本当はすべてをシリーズで語り伝えたいと思っています。
したがって、
それぞれ三つの作品のデザイン、
その核心については次の三つを念頭にして発想・表現・伝達を
動機・引用・借用・転用・類似性・隠喩性から、
具体的な表現形式では、大きさ・規模・材料・加工・発明などを
最終的にはどう伝えようとしているのだろうかということです。
結局は、私自身のデザイン手法との対照性に鑑みているようです。
ということは、あらためて私自身のこれまでを、
倉俣氏の作品によって、照合しながら、
私を、私のデザインを再確認していると思っています。
私は、「夢の形見に」と連載ではタイトルを直感的につけました。
これは見事に的中していたと思います。
19作品で20章、私の解釈を記述しました。
私はデザインは「ことばとかたちの相対論」だと考えてきました。
かたちは、必ずことばが寄り添うものです。
ことばから、必ずかたちが生まれるものです。
そして、ことばがあってもかたちにならないこと、
かたちがあってもことばにならないことを、
私は禅宗・道元の言葉「言語道断」の世界と解釈しています。
「Metaphors & Analogies」という名作定本は、
私のデザイン活動の下敷きでした。
動機・手法の革新・意味の転化・新価値の創出について、
デザイナーとしての形見を受け止めることができると考えます。

夢の形見に」講演会


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7月11日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     7月 11th, 2011  Posted 2:17 PM

7月11日 仏滅(丁卯)

私は、
安全工学だけではまったく不十分だと
主張してきた。

安全工学と安心工学が
両輪であるべきだと考え、
提唱し続けている。

『デザインという先手』手抜き 不可欠である誠実さ


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「語れるデザインを創るために」


   


     7月 11th, 2011  Posted 12:15 AM

倉俣氏の作品三つを語ります。
私は7年連載をしました。
19作品を当時、
私の知りうる限りを尽くして、
それらの作品を解釈しました。
恩師から出版された著作評を直接伝えてもらいました。
「私も彼は知っているが、デザインというより、
明らかにアートに向けてデザイン手法を使っている」と。
そして、
「川崎は、彼に向けて壁打ち練習をしようとしていたから、
君のデザインは影響されてはいないよ」。
なんだか、ホッとしましした。
造形に向かう姿勢を読み取ろうとしました。
特に、デザイン対象と向き合うときの動機です。
音楽と映画については、
音楽も映画も表現することですから、
その重なり方が最も気になりました。
音楽と造形からデザインは、
ピタゴラス、パウル・クレーを相当に読み込んできました。
映画・戯曲については、
倉俣史朗の代表作「ミス・ブランチ」という倚子です。
「欲望という名の電車」1951年を何度観たでしょうか。
この戯曲的な名作が、どれほど彼を魅了し、
その結果の倚子も、
私はちょうど発表された時に目の当たりにしていました。
その時の、言われない怖れが残っています。
あの倚子は、私には造形としてたどり着いたときには、
本来なら、決して観ないで済むことを、
「観ることができる人間の才能」を感じます。
私はこの作品については2章で書いています。
今夜も、三つの作品のプレゼンテーションづくりです。
必ず、著作では語れなかったことを語ります。
つまり、「語れるデザイン」が、
私にとっても死に際まで追いかけたいと思っています。

夢の形見に」講演会


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7月10日Staff Blog


   


     7月 10th, 2011  Posted 9:20 PM

7月10日

北京出張にて、
ラピスラズリの印鑑との出会いも
素敵でしたが、
もう一品というか逸品は、
「端渓の硯」!です。
BOSS(川崎和男, Kazuo KAWASAKI)
は、今回は筆と紙は手に入れずでしたので、
また次回に期待です。
夏休み?は書道三昧でしょうか。


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7月10日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     7月 10th, 2011  Posted 10:00 AM

7月10日 先負(丙寅)

人工的なモノは、
必ず壊れて朽ちていくモノである。
だからこそ、
点検や確認作業を
義務としなければならない。

『デザインという先手』手抜き 不可欠である誠実さ


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「デザインは語れるか・デザイン評論の有無」


   


     7月 10th, 2011  Posted 12:00 AM

たかがデザイン。
私はデザイナーとして、
これまで受けてきたある種の侮蔑。
しかし、されどデザインの力。
私の自負心とこの職能ゆえの幸運さです。
デザイナーという職能にも色々あります。
そして、デザイン=外観造形という印象は今なお存続。
したがって、デザイン評論がありうるかということです。
私は、一人のデザイナー・倉俣史朗氏を7年間、
詳細に分析したことがあります。
デザイナーですら、デザインは解釈するものではない、
堂々と言い放つ人がいますが、
そうしたデザイナーの作品は必ず消滅していきます。
私はデザインしたモノには、
やはり、意味することと意味されることがある、
これは記号論的な言い方を借用していますが、
7年間、一人の作品を分析してわかったことは、
本人がそこまで熟慮はしていなかったかも知れないこと、
それが作品の「永続的な存在性」を担保化しています。
したがって、私自身、自分のデザインするモノ、
そのモノが現代性と歴史性を必ず纏わないモノは、
この消費社会では消費どころか、
消滅・消尽すると結論づけています。
たとえば、幸いにも私はオーディオ商品に関わりました。
この世界は、ある意味ではマニアックな世界観や、
製品の存在性が仔細に問われます。
だから、30年前のデザインしたモノが今も残っています。
明らかにそうしたモノは背景となるモノ語りがあります。
モノ語り=物語は、アフォーダンスの持続性、
そう断言してもいいでしょう。
「倉俣史朗デザイン・夢の形見に」を出版しましたから、
私自身が、この著作から三作品を選んで、
プレゼンテーション手法も新たに評論をするつもりです。

夢の形見に」講演会


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