11月 5th, 2010 Posted 3:44 PM
目次を見る
11月 5th, 2010 Posted 9:30 AM
11月5日先勝(己未)
相変わらず、
体を酷使しているのかもしれない。
今やっておかないと時間がないと、
何かが私にささやきかけてくるのだ。
『デザインの極道論』量感
目次を見る
11月 5th, 2010 Posted 12:00 AM
1800年代に遡及
私は、現代にモノをデザインしています。
現代という現実までの過程を知る大事さを直視します。
特に、私は日本の近代化、その原点はどこなのか、
最も注視してきたことです。
1800年代に遡及します。
そうして、その年毎の史実の事実と真実を見極めることにしてきました。
おそらく、なぜ、デザイナーがそんなことを、と思われるでしょう。
しかし、歴史の虚構は小説に氾濫し、歴史上の人物は、ヒーローとなり、
その歴史性を彩るこれも歴史上の人物はトリックスター化されているものです。
大河ドラマを事例にしました。
おそらく、大河ドラマの見せ場は、坂本龍馬の暗殺シーンでしょう。
しかし、この場面の虚構性があればあるほど、
人間は「虚構の中にえも知れぬ娯楽性」を受け入れるでしょう。
私はこの事実を否定するわけではありません。
小説・ドラマという虚構に、人が娯楽性を希求することは、
デザインによってデザインされたモノが与える感覚と似通っています。
私は、虚構の想像力をあらためて見詰め直したいと考えます。
虚構は理想・幻想・妄想をも娯楽性に変換することができます。
安政の大獄
そしてもし、歴史的事実の事例として、
「安政の大獄」時代に二人の人物を取り上げたとき、
歴史には、「もしも・・・・だったら・・」という仮説は成立しません。
吉田松陰と橋本左内は、同じ牢獄につながれ、罪人として、決して出逢うことはありませんでした。
お互いのやりとりの史実があるだけです。
虚構を断ち切る歴史的事実、
それは26歳にて橋本左内は斬首され、
20日後、30歳にて処刑された吉田松陰への「想像力」です。
史実の現実に、もしも・・・はありえず
「もしも、二人が出逢っていたなら・・・」、
この虚構はありえません。理想も幻想も妄想も消去する「死」だけが歴然としているのです。
虚構の歴史、歴史の虚構よりも、
私は、歴史的史実である、二人の人物の「死」という現実から、
さらに自分が何を見いだしていくべきかを考える次第です。
Tags: 1800年代, ドラマ, トリックスター, ヒーロー, 処刑, 原点, 史実の事実と真実, 吉田松陰, 坂本龍馬の暗殺シーン, 妄想, 娯楽性, 安政の大獄, 小説, 幻想, 想像力, 斬首, 日本の近代化, 橋本左内, 死, 理想, 虚構の中にえも知れぬ娯楽性, 虚構の想像力
Posted in 003「橋本左内」, 056「現実と虚構の狭間で」, 資本主義から逃走せよ!
目次を見る
11月 4th, 2010 Posted 6:57 PM
目次を見る
11月 4th, 2010 Posted 12:01 AM
坂本龍馬はヒーローか
NHK大河ドラマは日本の歴史的物語です。
毎年、誰が主役となりその活動の街が脚光を浴びます。
今年は「坂本龍馬」でした。
時代は幕末、大政奉還という日本の転換点が選ばれました。
制作側には、現代日本に対するなんらかの意図があったのでしょう。
ヒーローがトリックスターとなる虚構性
この大河ドラマは日本人に対して、
大きな連綿させるべき意識構造の維持をめざしていると私は思ってきました。
しかし、このドラマはヒーローを演出した情報操作だと判断しておくべきでしょう。
すなわち、大河ドラマに関わらず、
いわゆる歴史小説はすべからくその主人公をヒーローとした「虚構」、
情報操作どころか情報攪乱性さえあるということを分別しておかなければならないでしょう。
結局、歴史物語・歴史小説・歴史そのものが、
ある意味では、歴史情報・歴史時空間性での虚構性があるということです。
日本にとって、300年の武士社会・鎖国時代からの解放であった明治維新には、
現代日本のその後の原点の多彩な展開があり、登場するヒーローへの強い敬愛観が出るものです。
私は、明治維新に至るまでの1800年代を見るとき、近代日本の医学的歴史書に最も注目しています。
理由は、ただ一点です。
虚構非在の歴史性
医学的な事実には、「虚構性」を忍ばせることは不可能だと考えるからです。
幕末から明治維新での、経済史・政治史・その他どのような領域においても、
「虚構」を包含させる可能性があるからです。
杉田玄白から福沢諭吉に至るまでの史実の中に、
幕末・大政奉還が記述されている近代医学史に、当時の政治情勢、特に開国に至る経過には、
坂本龍馬というヒーローはまったく存在していません。
となれば、トリックスターをもってのヒーロー物語は、
「虚構」そのものでしかないことを明記しておきます。
Tags: NHK大河ドラマ, トリックスター, ヒーロー, 医学的歴史書, 坂本龍馬, 大政奉還, 情報操作, 情報攪乱性, 意識構造の維持, 明治維新, 杉田玄白, 歴史, 歴史小説, 歴史情報, 歴史時空間性, 歴史物語, 歴史的物語, 福沢諭吉
Posted in 003「橋本左内」, 056「現実と虚構の狭間で」, 資本主義から逃走せよ!
目次を見る
11月 3rd, 2010 Posted 10:00 AM
11月3日 大安(丁巳)
「言語道断」とは、
道元が発した禅宗の、
いわば哲学的な言説語である。
ことばでの表現が
全く不可能な世界観を示す、
「道断=言わず、道断=言わず」という
現成公案(=心理は常に
すべての存在の上に、ありのままに
はっきりとあらわれているという解釈)
の一つであった。
『デザインは言語道断』あとがき
Tags: KazuoKawasaki, ことば, 世界観, 哲学的, 川崎和男のデザイン金言, 現成公案, 禅宗, 表現, 解釈, 言語道断, 言説語, 道元, 道断
Posted in APHORISM
目次を見る
11月 3rd, 2010 Posted 12:01 AM
夢・希望=虚構
夢や希望は当然、虚構です。
その虚構を現実化・具現化していく。
私はこの手法の一つがデザインだと考えます。
したがって、私自身はいつも虚構の中に住んでいるようなものです。
ところが、昨今のデザインを見ていると、
虚構という想像力の中に入り込んだのだろうかと思うモノが氾濫しています。
いわゆるモノ真似は、虚構ではなく現実品をそのままもう一度具現化するだけの営為です。
虚構システムの情報操作
これを見事にやっているのは中国です。
したがって、中国を今テキストにすれば虚構と現実の関係を吟味することができます。
中国は、人民=中国人を虚構のシステム(一党支配)を情報操作して、
現実的には国家の発展印象を与えています。
中国人というのは毛沢東がつくりだした虚構の民族にすぎません。
以前、私は中国は大きく分けても7民族で5言語文化があり、
政治的には4言語文化圏だと指摘しました。
私は、上海万博後の中国情勢に注目が必要だと考えています。
「政権交代」という虚構
しかし、わが国の「政権交代」という虚構によって、
現実、中国からの侵略すら押しとどめる現実感が現政権にはありません。
そして、ロシアはそれに乗じるかのように北方四島に現実を見せつけに来ました。
対して、尖閣諸島の現実に比すれば、「北方四島返還」も「拉致被害奪還」も、
実はすでに虚構としている政権に日本は支配されていると言うべきでしょう。
現代日本の虚構の構造を、中国・ロシアは現実性で襲いかかってきています。
私は、虚構と現実の狭間というのは、この国際関係こそテキストだと考えています。
もう負けられない日本
私は70年代学園闘争を傍観していたからこそ、
「虚構化している現代日本」は、早く覚醒しなければ、
私たちは居場所=日本という国家を失うものと判断しています。
日本は、もう二度と負けてはならない国家です。
負けた国家は、全てを失い、全ての償いという責務を負わされるのです。
Tags: 4言語文化圏, 70年代学園闘争, 7民族で5言語文化, モノ真似, ロシア, 一党支配, 全てを失い全ての償い, 具現化, 北方四島返還, 夢, 尖閣諸島, 希望, 拉致被害奪還, 政権交代, 毛沢東, 現実化, 虚構, 虚構のシステム, 虚構の民族, 虚構化している現代日本
Posted in 056「現実と虚構の狭間で」, 資本主義から逃走せよ!
目次を見る
11月 2nd, 2010 Posted 10:00 AM
11月2日 仏滅(丙辰)
留守電モードになった電話から
口笛の音が聞こえると、
彼らは電話のそばで耳を傾けて
聞いているらしい。
こうした飼い主と愛犬の関係間隔から
ロボットを発想していくことが
必要なのではないかと思う。
『デザインは言語道断』花容
目次を見る
11月 2nd, 2010 Posted 12:00 AM
夢のまた夢・虚構
あの秀吉が辞世で詠んだらしいのです。
「人生は夢のまた夢」と。
私は車イス生活になって以来、現実は虚構だと言い聞かせてきました。
なぜなら、「歩いていた私はいません」。
車イスから見える視界は、かっての私が見ていた世界ではありませんから、
努めて、歩いていた川崎和男はもう死んでしまったことにしておこうと考えてきました。
名古屋で大学人になるとき、親友が癌で入院していました。
最期の別れで彼を見舞いました。
「あの世で、また会おう」と言い合いました。
幸い、彼は癌をひきずりながら、今も元気で生きています。
交通事故直後に、私は「君は40歳まで」と言われました。
ところが、41歳になってから、「あれっ」て思い出したぐらいです。
それなのに、もう20年私は生きながらえています。
情報は虚構にすぎない
私は、日常空間は虚構だと思う方が極めて楽です。
さらに、情報は虚構にすぎないと思っていた方が気楽です。
肝心なことは、現実と虚構の狭間です。
その狭間の均衡を自分に身体化していく術が重要だと考えることにしています。
私が、これは現実と認識するのは、「病」の時です。
本当は高熱で夢現(うつつ)ですが、その苦しみほどの現実感はありえません。
だから、私は「いのちと向き合う」デザインは、
現実そのものに自分の想像と創造を委ねることができるのです。
現実と虚構の狭間
おそらく、私がこの場で「虚構」についてメモ書きを始めた内容は難解だったと思います。
情報=空間に虚構が張り付いているとか、
現実政治の虚構性や、三島由紀夫事件の予想という虚構が、
やはり現代日本の現実になっている話をしてきました。
私は、情報操作こそ、虚構をいかにも現実だと思わせることが可能だと思っています。
大衆は、虚構に逃げ出し癒されるものです。だから映画を見、音楽を聴き、小説を読むのでしょう。
仮想現実とは虚構を表現しているにもかかわらず、
実は、現実を明確に手に入れる手法・技能・技術になっているということです。
すなわち、情報操作とは、現実と虚構の狭間をコントロールする力があるということです。
デザインは、現実と虚構の狭間から、現実を取り出す技術と考えることも可能です。
Tags: 人生は夢のまた夢, 仮想現実, 夢現, 情報は虚構にすぎない, 情報操作, 日常空間は虚構, 現実と虚構の狭間, 現実を取り出す技術, 病, 秀吉, 身体化
Posted in 056「現実と虚構の狭間で」, 資本主義から逃走せよ!
目次を見る
11月 1st, 2010 Posted 10:00 AM
11月1日 先負(乙卯)
落花は、
流水のままに流れたいと思い、
流水は落花をのせて
流れたいと思うらしい。
そして、
散り落ちた花に情けがあれば、
その流れる水にも情けが伝わり、
花は流れ去っていく、
という「落花流水」の
風情感である。
『デザインは言語道断』落花
目次を見る