kazuo kawasaki's official blog

Archive for 9月, 2010


『資本主義からの逃走』
    「 恩師との惜別から、また教示されること」


   


     9月 9th, 2010  Posted 12:00 AM

自分流のトレーニング
惜別とは、決して暗い話題ではないと思っています。
確かに、お別れの時の悲しみにはうちひしがれるものです。
しかし、この惜別から与えてもらえることに、
あらためて、「生き続ける」勇気を、「死」という現前から学び直すことができます。
恩師との最初の別れは、
やっと就職してなんとなくデザイナーらしさを自分でも実感し始めた時でした。
同級生から電話が入りました。
「主任教授のY先生が倒れられた」ということでした。
私は動転も動転、もうそこで泣き出しそうになりました。
私の東芝入社も、その先生からの強引な命令でした。
他企業が希望と言うと、「それはいい話だ、受ければいい」
「ホントですか?」
「いいよ!、ただし卒業はきっと出来ないだろう、君は東芝が待っているからね」。
現代なら、確実に、パワーハラスメントでしょう。こうした教授命令が必要なのです。
正直、最初は意に添わずでしたが、先生の判断と評価は「正解」でした。
私の性格・性分・将来をすでに見通しての指示でした。
当時、その先生は画家としても高名でした。
金が無くなると、先生宅で夕食、ただし庭掃除から書庫整理、
先生が色紙に絵を描かれると落款を押すなどの雑務が与えられました。
そんな先生の一大事でしたから、
私は咄嗟に上司に、「お金と休暇」を要求して飛行機で金沢に帰りました。
上司は、「出張にしておくからな」と言ってもらえました。いい時代だったと思います。
もう病院での面会時間が終わっていましたが、
看護師さんがとりはからっていただき、病室に行きました。
先生は、「なんだ、帰ってきてくれたのか、驚かせたな、大丈夫だぞ」と言われました。
「先生、安心しました」
「そうか、今夜はどうする?」
「実家が福井ですから」
先生は、病院の入り口まで見送っていただきました。
私は、もうその時間では福井に帰れず、金沢駅で夜明かしをして、飛行機で東京にもどりました。
それから、一週間後に先生は逝かれました。
でも、駆けつけて先生と別れ際に握手をしました。そのぬくもりのまま合掌することができました。
四番バッター
「川崎、お前は東芝に四番バッター(金沢美大から四番目の入社)で入れたんだ。
ホームランバッターだぞ、ヒット作の連発はお前の役目だぞ」と言われたのです。
これは、当時東芝内定が決まると、他の恩師からもそう言われてきたことでした。
「ホームランバッターはな、欠かさずトレーニングを自分流で毎日毎日し続けることだ」
と言われてきたのです。なかなか、そう簡単に毎日務まることではありませんが、
それこそ、野球選手のイチローを見ていると、「トレーニングなんだ」と自分に勇気が出ます。
あまりに早く他界された恩師から、教えられたことでした。


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9月8日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     9月 8th, 2010  Posted 10:00 AM

9月8日 友引(辛酉)

私達の知識や知性は、
進化する技術と、
喜怒哀楽の完成との
折り合いをつけるために
致知の領域まで
踏み込んでいかねばならない。

『デザインは言語道断』致知


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『資本主義からの逃走』
    「 『奇跡』は教育だけが起こせる、恩師との別れ」


   


     9月 8th, 2010  Posted 12:00 AM

奇跡=教えることで教わる
私は金沢美術工芸大学という、地方公立大学卒業を最も誇りに思っています。
私はいわゆる旧帝大でも講義をしますが、
自分の卒業した大学の方が本当に良かったと思うのです。
私の生涯を決定づけたのは、その大学に大きな縁(えにし)があったのでしょう。
人には、必ずや「ある道程」が宿命づけられているのでしょう。
なぜなら、その美大で「鍛えられ、かけがえない恩師たち」に出会えたからでした。
大学とは、恩師が得られなかったら無駄極まりない場と考えます。
90歳高齢となられた恩師を見送りました。
この夏、この酷暑ゆえ、心配をしていましたが、
先生は遺言にて、初七日を過ぎてからのみ連絡とされ、奥様から連絡があったという次第です。
昨年は、金沢で会うことができました。
頭脳は明晰なままでしたが、すでに杖無しながらゆっくりと歩かれるようにはなっておられました。
私も還暦ゆえ、「あと少し大学で精進します」と、伝えたところ、
「君はもういいよ、残り少ない大学時代を楽しんでゆったりとやりなさい」、
意外な言葉をいただきました。 
交通被災の時も相当な心配をかけました。
ふるさとでの仕事ぶりもすべからく相談していました。
私が大学人を希望したとき、ある大学の公募を受けようと相談したとき、えらく叱られました。
「君には、その道をもう整えてあるからしばらく待ちなさい」とのことでした。
学長候補になったとき、あまりの事情を聞かれて辞任するべしとの教えをいただきました。
大学移籍もすべからく私は頼りっぱなしでした。それは私の父からの教えもあります。
「三歩下がっても、師の影は踏まず」であり、師は自分以上に私を知り尽くされているからです。
私も大学で教えるようになってから、
師の経験を素直に受け入れることが人生では最大重要だと考えられるようになりました。
大学人になるとき、
「君はデザイン全能の人間になっているから、
デザインで『奇跡』も起こせると思っているだろう」、そんな問いかけをいただきました。
「デザインはそこまで出来ると思ってます」と答えると、
「まだまだだなー、だから大学で教えることで教わってきなさい、
『奇跡』を起こせるのは教育だ」と教えられました。
「君は美大に入って、やっと絵が描け、そしてデザイン技らしきものを身につけ、
思考方法も職能家としてデザイナーの卵になるという『奇跡』を身につけたはずだ」と。
叱ることと怒ることも、その違いを教えられました。
私は、「十牛図」にまさにその教え通りを見ています。
覚悟はしていましたが、恩師をまた一人見送りました。
充分に仕事をし終えてから、
「先生、これだけはやり終えてきました」と報告したいと思っています。
この悲しみは、両親や両祖父母やおぢおばたちとの別れとはことなりますが、
耐え難い辛さです。
今日は、もうひとりの恩師に電話しながら大泣きしてしまいました。
この歳になっても、私は恩師たちに恵まれています。


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9月7日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     9月 7th, 2010  Posted 10:00 AM

9月7日 大安(庚申)

「諳」(アン、そらんじる)というのは、
明確なことばになることであり、
音というのは、
口の中にものがつまっていてもぐもぐした
不明確な状態を示す。

今でこそ、暗記という書き方をするが、
「諳記」という書き方が
古典的には正しい。

『デザインは言語道断』致知


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9月6日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     9月 6th, 2010  Posted 7:33 PM

9月6日 仏滅(己未)

大衆化を否定するのではない。

大衆化=品位の低下
という図式が拡大してしまったことである。

『デザインは言語道断』趣致


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『資本主義からの逃走』
    「 富の分配意図、その実験国家だったわが国」


   


     9月 6th, 2010  Posted 12:00 AM

敗戦で決定づけられたこと
わが国の敗戦が招き込んだことは尊大かつ甚大でした。
日本の生活習慣から伝統的な精神性までが全否定されたとも考えられます。
しかし、そのショックは、米国流の資本主義体制で癒されました。
私の世代は、大きな冷蔵庫、家庭に一台の車、IVYスタイルのファッションに憧憬しました。
癒されると同時に、日本人の復興意志も強大だったと考えます。
すでに敗戦、それも2度にわたる原爆被災は「敗戦のトラウマ」になりつつも、
復興意欲は積極果敢だったのです。
しかも「戦争回避」・「専守防衛」での「平和志向」は、
人間としての正道だったことも存分に納得できます。
軍産複合体の解体は資本主義の本来は正義性あるものだったと私は考えますが、
結局は、理想主義となる資本主義が試されたのは、
国際的には日本だけだったという判断も可能です。
資源無き島国の民族、その存続を「資本主義」にあずけたことは、
抗えない敗戦国の運命だったのでしょう。
敗戦ショックとトラウマでの喪失
現代、失われた10年と言われますが、
それは資本主義の実験国家としての成長が10年しか続かなかったという評価が可能です。
「富の分配」は確実に、この10年間は「中産階級」を基軸とした、
倫理性と治安ある国家体制を構築できました。
けれども「貧しいこと」から脱出するには、
「拝金主義としての資本主義運営」を信仰し過ぎた結果を、今、目の当たりにしています。
家族崩壊・個人権利の保全・義務放棄しながらも自由権利の主張など、
社会意識、資本主義経済での生産下意識主義は歪曲されてきたのです。
資本主義の拝金主義は、金融経済中心に偏向していることへの抵抗もかなわぬままに、
さらに地球環境から国際関係でのわが国の立場は、
「経済成果として世界経済への分配」負担だけを受け入れる意識構造になっています。
わが国の資本主義は、見事な先進的技術による「モノづくり」国家になりました。
しかし、貿易の基本ルールは、あくまでも、キリスト教的背景のある資本主義体制です。
中韓アジアでの新たな「モノづくり=貿易体制」は、
急激な変貌下にあります。日本はそのモデル国家だったことも明らかです。
私は、資本主義の実験国家としてのわが国は、
敗戦ショックと敗戦トラウマで喪失している、わが国の伝統文化の再考と再興を訴求する次第です。


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9月5日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     9月 5th, 2010  Posted 10:00 AM

9月5日 先負(戊午)

ユニバーサルデザインという名称は、
いわゆるシルバー産業に対する功罪を伴った
追い風になってしまったような印象がある。

単なる「共用品」
というレベルであっても困る。
「共用」できることをさらに進化させて、
なおかつ
美しいことが目標でなければならない。

『デザインは言語道断』旨趣


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『資本主義からの逃走』
    「 富の分配は『豊かさ=審美性の共有』にあらず」


   


     9月 5th, 2010  Posted 12:00 AM

本当に豊かな時代はあっただろうか
日本が豊かだった時代は本当にあったのでしょうか?
私はもう一度、この探索をし直すべきだろうと思います。
少なからず、戦後の高度経済成長から、
日本の奇跡と呼ばれ「Japan as No.1」の時期はありました。
現代の若い世代には、そんな時代イメージはTVの中での一シーンにすぎません。
私自身、社会人になってすぐに「オイルショック」・「バブル」・「円高」・
「リーマンショック」、そしてまた「円高ドル安」でした。
私にとっては昭和30年代(小学時代)が「豊かな時代」だった気がします。
それは「貧しい時代」だったのです。モノには全く多種多様性はありませんでした。
価値感にも多様性はありませんでした。
だから、モノを大切に大事にしていた時代だったことは確かです。
私は、畳もなく、ガラス窓の無い住宅に友達が住んでいたことを思い出します。
しかし、「笑い声いっぱい」でした。
確かに「イジメ」もありましたが陰湿ではありませんでした。
喧嘩も充分にしましたが、ナイフを使って級友を刺殺することなどはありえませんでした。
豊かさの核心=審美性
敗戦意識は、「貧しい」という観念をすり替えられたと思います。
「貧しいこと」からの脱出は、
「お金持ちになる=豊かになる」という意識が入り込んでしまったのです。
この大きな勘違いが、現代アジアに根付いています。
日本が真の「豊かさ」をガラパゴスという批判から再構築する立場だと考えます。
したがって、高級=高額であり、高級感は高額なモノにある審美性ではありません。
極貧なれど「美」を生み出そうとしている芸術家、
芸術家は極貧ということも当然だった時代がありました。
私が美大を選んだ時には、「食べていけるのか?」という評価が一般的であり、
美大は道楽学校だったのです。
デザイナーは芸術家でも無いだけに、美大進学は進学校での信頼は皆無でした。
これは今なお、デザインは決して芸術的印象はあっても、芸術的価値として評価はされていません。
「豊かさ」の核心にある「審美性」、
あらためてデザインが創造する「デザイン審美性」の創出を私はめざしたいと考えています。


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9月4日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     9月 4th, 2010  Posted 10:00 AM

9月4日 友引(丁巳)

もはやイデオロギー論を論議する時代でもない。
奇特な、
あるいは殊勝なパブリックドメイン主義という、
グローバルスタンダードかつ
ローカルオリジナリティーを創出していく瞬間に
私達は生きている、
と考えるべきなのだろう。

『デザインは言語道断』奇特


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『資本主義からの逃走』
    「 富、あるいは高級感をという文脈の再考」


   


     9月 4th, 2010  Posted 12:00 AM

富としての高級感
南太平洋・ニューブリテン島のマエンゲ族、
そして、西太平洋・トロブリアンド島民、
彼らのことを紹介しました。
それは「労働」・「仕事」の成果、その評価のことでした。
彼らなりに、富の分配方法はあるでしょう。
しかし、私たちの産業経済でひたすら「豊かになること」は「富の分配」でした。
私たちはその「富の分配」結果を熟知してしまったと考えていいでしょう。
そして、もし、富ではなくて審美性や美学となると、
もうひとつ重大な価値感覚があります。
「高級感」ということです。
日本語は、この「高級感」は、言葉もこの一つに集約していますから、
「何が高級感?」ということでは、多様な定義が可能です。
しかし、たとえば英語なら、「高級感」は様々な語彙があって、
それぞれの語彙に、それぞれの感覚に制限や限度があると思うのです。 
とりあえず、五つ挙げておきます。
   ■ High class
   ■ Deluxe
   ■ Quality
   ■ Exclusive
   ■ Expensive
さて、この五つには確かに高級であり、贅沢であり、豊かさがあります。
私は、「富」という概念には少なからず、こうした価値感が宿っています。
それは「富」が集中蓄積されたところに「程度としての高級さ」があると言ってもいいでしょう。
私たちが日常生活の基盤としてきた資本主義、それによって構造化された階級、
あるいは格差には、程度たる「高級さ」があることは否めません。
高級感と審美性
したがって、私たちが今、真に再考を求められているのは、
「高級」を加飾している審美性は確実に、資本主義が育んできた局面性だと言っていいでしょう。
実例とするなら、
「ブランド価値としての高級感」;「高級ブランドの審美性」を議題にすることができます。
そうするとこの議論はやはり「富の再分配」が、
社会主義に対して資本主義が勝っていたということなのだろうかと私は考え込んでしまうのです。
考え込みつつ、「高級」なモノのデザインも随分としてきました。
それは単純には「高級」=「高額」だっただけかもしれませんが、
そのモノにもちろん審美性を意図してきました。
いわゆる「高級」なモノにも、私のひとつの嗜好性があることも認めておきます。
私なりの納得と矛盾、そして、それでも「高級な審美性」も確実にあるわけです。
「富」・「高級感」・「審美性」は、あらためて論考されるべき大きなテーマだと思っています。
私は、おそらくマエンゲ族やトロブリアンド島民の「耕作行き届いた畑」に、
審美性を確認できる感性があるのかどうかはまったく不明であることを告白しておきます。


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