6月21日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design
6月 22nd, 2010 Posted 1:37 AM
Tags: 品位, 川崎和男のデザイン金言, 趣致
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6月 22nd, 2010 Posted 1:37 AM
Tags: 品位, 川崎和男のデザイン金言, 趣致
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6月 22nd, 2010 Posted 12:00 AM
咸
「感」は咸=みなへんと心から成り立っています。
咸は、口と戌(ほこ)です。
これは刃物で口を封じ込める意味を持ち、
口の中が閉じられながらも何かでいっぱいになっている、と言われてきました。
周易では「沢山咸」として六十四卦の一つとして、
「自分も相手も真心を持てば、それを互いに感じあうさま」
を表しているという解釈もあります。
心
私は、おそらく、「口の中が一杯になっている」という咸に、
心がついているというのは、
心の中も一杯一杯になってくること、
心に何かが封じ込められているほどいっぱいのことだろうと解釈しています。
最も、「心」というのは、心臓を表していますが、
感じるということは、認識、それも私は「反射的な認識」だと考えてきました。
察
だから、「驚く」ということから、「察する」ということにも繋がりがあります。
洞察、考察、観察などを構成しています。
多分私たちが、「認識」するというのは、
脳内反応だけでは言い切れないことがそれこそ一杯あるのでしょう。
まず、私たちは「感激」できる自分なのか?ということを自問しておく必要があるでしょう。
そして、「何に」感激するのだろうか、
「どうして」感激するのだろうか、
最近の自分は「感激」をしているのだろうか、
こうしたことを「察する」必要があるでしょう。
私は、「感激」は一瞬、あるいは瞬間的に心の中が何かで満たされるのです。
それから、「感動」というゆるやかな心の運動が持続してくるように感じます。
だから、「感激」し、「感動」する自分に出逢う必要があるのです。
私が、初めてモンドリアンの原画をニューヨーク近代美術館MoMAで出会ったとき、
それは「感激」がゆっくり心の中に広がってくる経験をしました。
まず、本物が見られた!、という感動は、
私は絵画によって心の中にしみじみと流れ込んでくる実感がありました。
翌日は、MoMAのその部屋にひたすら2時間居ても、
その感動は心の中を一杯にしてくれました。
以来、「感」とは心の中が、瞬間的に一杯になるのが「感激」であり、
それがじっくりと一杯になっていくように感じることが「感動」だと思うようになりました。
だから、心が空白、あるいは空虚になることには、
やはり耐えきれないことも事実です。
6月 21st, 2010 Posted 9:18 PM
6月21日 先負(丁酉)
「感謝」できる自分であるかどうか、
それが試されている。
私はそう思っている。
6月 21st, 2010 Posted 12:00 AM
驚
私は、ともかく「驚く」ということがとても大事だと思ってきました。
「驚く」というのは、身が引き締まるのです。
まさしく、馬が、身が引き締まる緊張度が漢字になっています。
おそらく「感激」したり「感動」するのは、驚くことから始まる気がします。
そして、残念ながら、現代は「驚く」ことはある面では、
悪弊に対して「驚いてしまう」ことになっています。
「あんなこと、考えられなくてとても驚いた」となるわけです。
感激
大学人になって、若者が「感激」していることに偏りがあると観察してきました。
「どきどきしているか?」とか、
「どきどきすることやってるか?」とかを本当に毎日尋ねている気がします。
私は、「興味」あることをいっぱい持っていることが、
特に、デザインや創造的な仕事をする人間には必要不可欠だと確信しています。
現代、「感激」や「感動」を刺激しているのは、
スポーツや音楽に限定されているように思います。
ちょうど、ワールドカップでのサッカーの勝敗に、
日本全国民が一喜一憂という「感激」の場面を観ます。
私自身も、本来それほどサッカーを選んで観ることなどないのですが、
「気がかり」でなりません。
反射的認識
私は「感激」というのは、「反射的な認識」だと思います。
私は28歳、交通被災で車椅子生活になりました。
脊髄損傷をリハビリテーション訓練、ベッド生活から、
本来は1ヶ月かかるベッドでの起床を半月訓練という米国流を選び、
たった2週間後、初めて自力で起き上がりました。
それこそ、看護師さんから周囲の人が励ましてくれました。
内心は怖くて怖くてたまらなかったのですが、
強がりの私は平然を装いつつ、勇気いっぱいに起き上がって驚かせました。
みんなが拍手してくれたり、看護師さんやトレーナーの人達が泣いてくれました。
これは生涯忘れないでしょう。ともかく、とても苦しいリハビリでしたから。
私は、彼らが泣いてくれたのを見て、
私に「感激」が明確に反射してきたことを思い出します。
それ以来、「感激」というのは、心理的反射だと考えるようになりました。
おそらく、スポーツにおいても、
スタジアムでプレーしていて勝負が決定した瞬間、
それまで練習に練習をしてきた選手たちの大きな喜びを
「反射」して受け止めるのでしょう。
選手たちの喜びの「感激」が反射して共有できるのです。
そして、スタジアムにいるサポーターも、
TVを見ている私たちも「反射的な感激」で共有します。
選手たちは、必ず、こう言います。
「応援をしていただいたから、勝てた!、感謝します」と。
見事に、私たちも「感激」し、「感動」できた「感謝」を選手たちに返すのです。
私は、「感激」・「感動」・「感謝」のサイクルを見いだすことができます。
Tags: 反射, 感動, 感激, 感謝, 脊髄損傷, 興味, 驚く
Posted in 034「感動・感激・感謝は感覚から」, 資本主義から逃走せよ!
6月 20th, 2010 Posted 11:01 PM
6月20日
BOSS(川崎和男KazuoKAWASAKI)
担当講義の海洋デザイン戦略論 br>
(マリタイムデザインストラテジー)は
阪大、神戸大、大阪府立大学の
大学院合同講義です。
前回講義はダイソン社
ワークショップを行ないました。
まずは、機構などのレクチャー、
そして掃除機の分解と組み立て。
次に、グループでの
ディスカッションとプレゼン、
BOSSとダイソン社デザイナーからの
評価、表彰!
全員に、参加賞鉛筆が配られました。
Tags: ダイソン社, デザイナー, レクチャー, ワークショップ, 参加賞, 大阪府立大学, 川崎和男Staff Blog, 戦略論, 担当講義, 掃除機, 機構, 海洋デザイン, 神戸大, 鉛筆, 阪大
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6月 20th, 2010 Posted 9:30 AM
Tags: 信念, 川崎和男のデザイン金言, 旨趣, 良識
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6月 20th, 2010 Posted 2:00 AM
モノ=モ・ノ
モノいう表現は、私流には「人工物」をという意図です。
今日ある大学デザイン系の報告書を読みました。
大学の後輩が教授職にあります。
デザイン系学生への教育方針を模索している相当の内容でした。
確かに、先般、ある「デザイン系大学の作品展」でも、
この大学、学生の作品はとても優れた成果でした。
学生の作品は、教える側の反映であることは間違いありません。
この報告書では、「デザイン」を「モノ」と「コト」の関係性を
重点的に教育方針で論議の経過や結論にまとめていました。
大学の意欲を強く感じた次第です。
「デザイン」がようやく、
「外観づくり」とか、「応用芸術」ということからは解放されつつあります。
明らかに、デザインは、「コトのデザイン」だということは明白になりました。
単純な図式は、
「ヒト」と「コト」を「も・の」でつないでみれば、ほとんど論理性などもなく、
図式ができるということです。
●「ひと」モ「こと」=「情景」=人間と情報の関係
●「ひと」ノ「こと」=「情報」=人間と人間の関係
これは、「モノ」が介在して、人間と情報・情景を構造化していることを可視化しています。
再度、{人間と情景・人間と情報}・{人間も情景・人間も情報}
この関係式になるということでは、
「モノ」=モ・ノという助詞の機能=助詞がコンテクストの要になっているということです。
私は、あらためてこの関係性=構造性に、「人工物」の役割を配置する必要性を感じます。
助詞
「助詞」である、「モ」と「ノ」が、
日本語のコンテクストの構成要素であることに注視します。
私は、常に「日本語」と向き合っています。
それは日本人として生まれ、「いのち」をつないでいるのが「日本語」だからです。
私はデザイナーという職能で「モノ」の「かたち」を対象化してきました。
その対象である「モノ」・「モノづくり」=「かたち・づくり」に関わっていますが、
その基盤であり背景には「コト」があります。
そして、その「コト」と人間の関係は、
「ことば」だというすべてが、実は「十牛図」のごとく、
連環していると考えることができます。
今日も、「十牛図」のイメージは、私に「ひと」・「モノ」・「こと」に覆い被さっています。
6月 19th, 2010 Posted 9:30 AM
6月19日 先勝(乙未)
Tags: デザイナー, デザインコンセプト, 川崎和男のデザイン金言, 旨趣
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6月 19th, 2010 Posted 12:25 AM
丑
私は十二支では、「丑歳生まれです」。
昨年、還暦でしたから、生まれ歳をいれて6回巡りました。
日本舞踊家の西川千麗さんと、Ustreamで対談をしました。
思いがけない出逢いでした。
親友たちが仕組んでくれた対談でした。
「何を対談する?」
「まぁ、出逢ったら、それなりの話になるはずだから」。
そんなことで、簡単に引き受けて、
まあまあ、「舞踊論」だからそれなりに、
それも自分なりに思っていることで対応をと考えていました。
舞というロボット
私が最初にデザインしたロボットは「舞」と名付け、
その次のロボットが「踊」でした。
だから、「舞踊」には私なりの論がありました。
「舞」は、足の裏側を決して見せない。
「踊」は、飛び跳ねる。
そんなことを、日本の「舞踊」、その伝統や、
歌舞伎・能・舞い・踊り、さらにはダンスやバレーなど、
舞台芸術が、人間の肉体をもって表現する意図を
私なりに追いかけてきました。
そして、「Dance」を「舞踊」と翻訳してきたのは坪内逍遙でした。
対談では、この翻訳が正解だったのだろうかとも話し合え、
学ぶこと多々ありました。
「十牛図」
さて、ところが、この対談の題材には、
「十牛図」が持ち込まれました。
それは、西川千麗さんがこの秋に発表する新作日本舞踊の題材だったからです。
私の記憶は、ふるさと、祖父、吉峰寺で中学時代に見た、
ほとんどうる覚えの絵柄とその物語、
物語が意図する目的が蠢きだして、内心ハラハラでした。
「十牛図」は、「牛を探し求める10話の話にこそ、
人間は、生きて死ぬまでに「悟り」を得ていく、
ある種の永遠の終わりなき、始めなき、「禅図」です。
西川千麗さん、彼女は、この「十牛図」をテーマにした「舞」を創作されて、
この秋に発表されるということでした。
なぜ、彼女とこれほど満ち足りた対談ができたのかと、
今日になって、さらにその重力感を受け止めています。
この「資本主義」への思索をもう一度見詰め直す動機。
それを与えに舞い降りられてきたのかもしれないとさえ思っています。
生・悟り・死
私たちは「生きる」ということが「死んでいく」ことだと知りながら、
「生きる」がゆえに、「悟り」と言われる境地にたどり着きたいのでしょう。
「悟り」など得られるはずが無いとさえ思います。
しかし、「死にいくため」にこそ、
その境地を追い求めいくことが「生きがい」であること。
彼女は、この秋、京都でこの新作を「舞」として表現し、
私たちにヒントを与えてもらえるのかもしれません。
そういえば、女優の真行寺君枝さんの創作劇も、
直筆で招待を受けながらも観に行くことができませんでした。
「映像」で観ました。
やはり、舞台という場で、
こうした「舞踊」や「演劇」を肌で実体験しなければ、
それこそ、「十牛図」のごとく、
私は彷徨うだけかなのかと、想い知らされた対談でした。
この秋、この新作が楽しみです。
Posted in 033「十牛図との出逢い」, 資本主義から逃走せよ!