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『資本主義からの逃走』
    「『感』という要素から資本要素への検証を試行」


   


     6月 22nd, 2010  Posted 12:00 AM

「感」は咸=みなへんと心から成り立っています。
咸は、口と戌(ほこ)です。
これは刃物で口を封じ込める意味を持ち、
口の中が閉じられながらも何かでいっぱいになっている、と言われてきました。
周易では「沢山咸」として六十四卦の一つとして、
「自分も相手も真心を持てば、それを互いに感じあうさま」
を表しているという解釈もあります。

私は、おそらく、「口の中が一杯になっている」という咸に、
心がついているというのは、
心の中も一杯一杯になってくること、
心に何かが封じ込められているほどいっぱいのことだろうと解釈しています。
最も、「心」というのは、心臓を表していますが、
感じるということは、認識、それも私は「反射的な認識」だと考えてきました。

だから、「驚く」ということから、「察する」ということにも繋がりがあります。
洞察、考察、観察などを構成しています。
多分私たちが、「認識」するというのは、
脳内反応だけでは言い切れないことがそれこそ一杯あるのでしょう。

まず、私たちは「感激」できる自分なのか?ということを自問しておく必要があるでしょう。
そして、「何に」感激するのだろうか、
「どうして」感激するのだろうか、
最近の自分は「感激」をしているのだろうか、
こうしたことを「察する」必要があるでしょう。
私は、「感激」は一瞬、あるいは瞬間的に心の中が何かで満たされるのです。
それから、「感動」というゆるやかな心の運動が持続してくるように感じます。
だから、「感激」し、「感動」する自分に出逢う必要があるのです。
私が、初めてモンドリアンの原画をニューヨーク近代美術館MoMAで出会ったとき、
それは「感激」がゆっくり心の中に広がってくる経験をしました。
まず、本物が見られた!、という感動は、
私は絵画によって心の中にしみじみと流れ込んでくる実感がありました。
翌日は、MoMAのその部屋にひたすら2時間居ても、
その感動は心の中を一杯にしてくれました。
以来、「感」とは心の中が、瞬間的に一杯になるのが「感激」であり、
それがじっくりと一杯になっていくように感じることが「感動」だと思うようになりました。
だから、心が空白、あるいは空虚になることには、
やはり耐えきれないことも事実です。


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