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「私的宗教感としてのダンディズム原点」


   


     6月 25th, 2011  Posted 12:00 AM

見るより視ること。
聞くより聴くこと。
この二つが私のいわゆる視聴覚の感覚。
美大で、見ることから視るということ、
オーディオ機器で聞くから聴くこと、
これらが私個人の視聴覚への感覚検証です。
しかもオーディオ機器に携わって社会人デザイナー、
無論卒業制作は3Dオーディオシステム実働機器でした。
絵や彫刻を見るというより視るという感覚が、
自然と身についてきた感覚があります。
オーディオはすっかり趣味ですから、
自宅の音響システムは、
ワイフを懸命説得で日常的な満足を目指しています。
なにしろ、「これがなぜこんなに!」って言われます。
視る、という感覚は、メガネとモニター設計に直結。
だから、デザインと技術の関係を突き詰める、
そんな幸運で幸福を味わい続けてきた気がします。
そして、私の生涯で大きな変革がありました。
いわゆる視聴覚機器の技術革新、でした。
したがって、デザイン設計もその結果の自分確認も、
有意義な経験を持つことができたと思っています。
それは、「アナログ」と「デジタル」という技術変遷です。
だから、「アナログからデジタルの狭間で」という論考を、
そのままオーディオ専門誌で連載したこともあります。
しかし編集部との考え方違いでこれは数回で喧嘩終了。
それでもいまなお、この「狭間」に私の感覚があります。
幸運なことは、
視覚対象のハードウエアも、聴覚対象のハードウエアも、
私なりには、「男の子」としては、まあ満足幸運してます。
よく、学生やスタッフには、
「男の子」としてだったら、
要はダンディズム対象があるという話をすぐにします。
ファッションからはじまって、
カー・カメラ・オートバイ・自転車などなど玩物嗜好、
これこそダンディズムであり、男の子感覚の極致とすら、
私は思って信じているいわば私の視聴覚宗教感でしょう。
ついつい話がはずれましたが、
この話が一番、自分も元気で希望・企望の原点です。

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「百聞と一見、百見と一聞」


   


     6月 24th, 2011  Posted 1:04 AM

「百聞は一見にしかず」。
古来、日本の警句です。
それなら、この真逆はどうでしょう。
色々聞き回るよりも、
一瞥で分かってしまうこと。
色んな所を駆け回るより、
一言聞けばそれで十分に理解可能になることの有無です。
無論、理解対象の区別は先立ちますが、
私は、これは双方とも同じ事だと結論づけています。
しかしむしろ、盲目の人は、聞くだけで十分であり、
全てを見つめて知り尽くしているはずのことが、
健常者の人が見えていない=認識不可能に陥っている方が多いです。
かって、「まちづくりのための歩いて観察」など、
そんなイベントでは、
白杖の人が、あそこの細道は救急車が入れないとか、
あの道路の側溝には落ち葉が溜まるとかを発見。
だから、私はこんなイベントには必ず、
盲目の人が絶対に不可欠という発言をしてきました。
私は、車椅子ですから、
視界が「座った位置で視線高」が一定です。
むしろ、地面や床の方がよく見えてしまいます。
だから常に空を仰ぎ見ることを習慣にしています。
おそらく、座っている位置と立っている位置では、
空気の流れすら感じ取る大きな違いがあるはずです。
今やTVで見聞することで情報要素は膨大です。
しかし、TVよりもラジオを聴くことの方が
かえって情報要素に対して、
詳細な認識感覚が研鑽されることが多い、
と私は確信しています。
結局人間の感性の振幅巾は個性差や経験差はありますが、
「見る」こと・「聞く」こと=see・hear
「観る」こと・「聴く」こと=watch・listen
この同価値性にする感覚は鍛錬が必要だと思います。
座禅とか瞑想とかメディテーションは、
その手法の一つであることは確かです。
私は、適うことなら、五感を超越し、
決して迷信でもなく占いや予知能力でもない、
いわゆる第六感の世界にすぐにワープしたい限りです。
今、私の方法にはラジオに対して、聞くというより、
聴くということの大切さを強く感じている次第です。
早い話が、TVやwebsiteで「視る」ことを、
「聴く・聞く」という翻訳によって精査している最中です。

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「見ること聴くこと・支えてくれる物質」


   


     6月 23rd, 2011  Posted 12:00 AM

ロドプシン。
専門的な呼称は色々あります。
大学時代に「葉緑素のような物」、
それが最も印象に残っています。
視覚物質と一応呼ぶことにしています。
一般的には、自動車免許の試験問題に、
暗所視反応とか明所視反応とかで、必ず問題になっています。
トンネルに入る、明るいところから暗いところに入る、
そうすると目がその明暗に反応するという、
明暗を視覚細胞がコントロールされている物質です。
これは視覚細胞にどう働いているかということですが、
このロドプシンは、視覚だけではなくて、
聴覚にも影響を及ぼしているのかもしれないと思います。
あくまでも私流の推測ですが、
たとえば、目を閉じてオーディオで音楽を聴くのと、
目を開けたまま、
音を聴くのとでは違いが絶対にあると思っています。
それは、音をさらに精微に聴くというのは、
まさに「音色」という言葉を日本人は持っています。
音が見える、という感覚は、
闇という文字にも表象されているように、
暗いところで、視覚物質の働きは、
音が闇の中で、色付いて「見える」という感覚です。
音が見えるというのは、
ロドプシンが視覚から聴覚にも認識性を与えている、
そんな気がしてなりません。
したがって、明暗のコントロールが、
音色を感じ取る感覚に通底しているのでしょう。
音が「見える」ということには、
視覚物質であるロドプシンが、
聴覚細胞にも繋がっているという私なりの想像力です。

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「見ること・見えることで分かること」


   


     6月 22nd, 2011  Posted 2:00 AM

見るためのモノ。
私のデザイン対象アイテムです。
これまで様々なモノを製品化、
そして商品として市場に出し、
消費生活の一端を担う仕事・職能を選んできました。
メガネはずばり視覚補正支援機器であり、
モニターやTVは、視覚での情報収集機器です。
また、デザイナー次世代には、
デザイン教育として、色彩論を教えてきました。
さらに色彩論から色彩学には、
「実習・演習」で、身体的に、自分の視覚的な認識と、
色彩表現となる知識の獲得と研鑽を教示してきました。
だから、「見る」ということ、
さらに「見えること」には差異があることなど、
自分自身、ほとんど日常的な経験の中で醸成されている、
そんな自負心とともに、反照としては、
「見えているのだろう」と自問自答の毎日です。
したがって、メガネは必ず自分のデザイン設計したモノ、
メガネフレームはほとんど持っているというより、
これは良いデザインというモノも収集しています。
モニター・TVは、どこがポイントなのかは、
結構知り尽くしていると思います。
そして「見る」ことを支えている生理的な視覚物質には、
その物質の科学性が専門家によって、
どこまで現代知られるようになっているかについては、
とても興味があります。
おそらく、視覚物質については未知のことがありますが、
多分、「見る=see・voir」から、
「分かる=see・savoir」には、この物質が、
とんでもなく関与しているのだろうと予測しています。
認識することへ視覚が及ぼすことを、
デザイナーという立場で知り尽くしたいと思います。

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「見えないということの連鎖」


   


     6月 21st, 2011  Posted 12:00 AM

最近、放射能の見える眼鏡があれば、
こんなことが冗談、真剣な会話になります。
「コンピューターが消える日」、
MicrosoftのWinsows7発表時に、
このタイトルで基調講演をしました。
タイトルが過激と言われ一波乱ありました。
しかし、今や「クラウド」などが一般化してきて、
コンピューター、つまりサーバーが見えません。
見えないこと、インタンジブル=触れないこと、
これが幾重にも重なった時代になってきたのでしょう。
現実、原発も日常生活からは見えない場所にありました。
核廃棄物は地中深く埋めてしまいます。
そして、情報社会のあらゆる面を「見えなく」する文明、
この大きなパラダイムシフトが生活を包囲しています。
どうやら、情報社会は「見えなくする」こと、
インタンジブル文明へと技術方向を変えてきたのです。
「死」も見えません。見せない方向にあります。
ところが「生」の確実性は見えることと触れることです。
結局、今、私たちが直面しているパラダイムシフトは、
 見えること:見えないこと
 触ること :触れないこと
このコンフリクトの連鎖環に佇まされていると考えます。
電子出版は、まだゆったりとしていますが、
書店が街から消えていくのも、このコンフリクトです。
おそらく、東日本の復旧は「見えていてほしい」のです。
しかし、復興した街と町には「見えない」システムが、
必ず包囲することになるでしょう。
ただし、人間は、人類は、見えて触れることが肝要。
タンジブル性に最も信頼感があるということです。

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「レントゲン検診から放射能を・・・」


   


     6月 20th, 2011  Posted 12:00 AM

私は定期検診では、
常に、X線検査を受けます。
28歳、交通被災後からです。
したがって、レントゲン検査では、
必ず徐々に被曝してきているのでしょう。
30年以上もこうした検査をしてきたので、
やがては・・・という思いがありました。
今年に入って、まだ明確ではありませんが、
「甲状腺に異変があるやも」という診断がありました。
ちょうど震災とフクシマ原発問題の前でした。
X線は、キューリー夫人物語という偉人伝で知ります。
おそらく小学校時代に知るでしょう。
しかし、名前は知っていても、
その詳細からレントゲンがX線での医療画像情報を撮る、
ここまでの歴史は、もう一度確かめてみると、
ベクレルなど単位になっている人物が、
放射能の周りの科学者としていっぱい出てきます。
放射能と対峙してきた科学者たちの研究という闘争、
これこそ、原爆から原発そして医療技術まで、
フクシマ原発の解決を人智的にしなければ、
そうした科学者の恩恵が台無しになるかも知れません。
もっとも、もう私の年代になれば、
「甲状腺異常」もやむなしですが、
次世代に放射能影響を考えると、
甲状腺からDNAへの影響などはすでに想定内です。
放射能のメリットと放射能のデメリットは、
あらためて原子力技術が人類にとっては大きな課題です。
原子力技術による発電があれば、
一方では、健康診断としてのレントゲン検診があります。
さらに、今、最も期待されている、
「重粒子治療」は癌疾病での治療方法として、
大きな期待がある分野です。
国内にこの「重粒子治療」病院がいくつかできれば、
保健料内治療が可能になります。
フクシマ原発の収束の中で私たちが熟考する問題です。

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「器械から機械そして機器へ」


   


     6月 19th, 2011  Posted 12:00 AM

器械は活力を増大させる。
これはダ・ヴィンチの発想。
そして彼の発想器械には、
「計算機」と誤解釈されてきたモノ、
それは「速度を増幅させる研究」という
デッサンがあります。
すでに使われなくなった言葉である「輪軸」から、
12個ペアになった歯車がならんでいます。
そして、ダ・ヴィンチはこれを使えば、
速度は10の23乗になるという予測値があります。
現在の研究では、彼の計算間違いが指摘されています。
しかし、私はこの発想に目を向けると、
現代に到る、科学から技術の歴史変遷から
重大なことが見えてくると判断しています。
器械という言葉が機械となり、
今では機器という名辞になっているにも関わらず、
機械と機器を技術領域が曖昧にしてきたことです。
器械は力をつくらないはずが、
発電機器なるモノが可能なのかどうかということです。
電子機器、情報機器、音響機器という表現は正当です。
ということは、エネルギーを発生させる機械、
そのようなモノは成立するのだろうかということです。
私は、音響機器のデザインからデザイナーになりました。
機器が稼働するのは、
すべからく「エネルギーあってのこと」です。
文明はエネルギーの発展史でした。
そして、機器となって文明は文化創出になります。
私の関心はエネルギーと機器に焦点が集中しています。

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「エネルギーはレトリックにならず」


   


     6月 18th, 2011  Posted 3:43 AM

エネルギーという概念は、
すでに、ヘロンの時代から。
ダ・ヴィンチもすでに、
器械は小さな力で大きな仕事量、
この考え方をベースにしていたのでしょう。
結果、彼は、
器械はまず力を使うことがあっても、
器械から力は絶対に発生しないと語っていました。
当時は「活力」ということばであり、
T.ヤングが1807年にギリシア語から、
エネルギーということばを創ったのです。
したがって、
「あの人はエネルギッシュだ」という表現は、
まさに当初の力=活力そのままを表しています。
energeia→en(内部)+ergon(仕事)という原意は、
「活力」という表現をさらに強化したことばであって、
修辞学的=レトリックにはならない直喩的なことばです。
今、私たちは「節電」という社会環境構造を、
絶対に受け入れなければなりません。
私は、原子力でまかなってきた電力は、
社会全体の「活力」そのままであって、
その本当は叡智であってほしかったはずの原子力技術を
蔑ろにしてしまったことに苛立ちと哀しみを感じます。
なぜなら、
「活力」=エネルギーは、
人々の活性化であり、社会の活性度であり、
「生きていく・生きながらえる」源泉を、
原子力技術を取り囲んでいた人達自らが破壊したのです。
「節電」とは「活力」を奪うことを直喩しています。
エネルギーということばが直喩にはなっても、
決してレトリック用語にはならない、
そのことをを噛みしめるべきです。

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「ダ・ヴィンチというエネルギー」


   


     6月 17th, 2011  Posted 12:00 AM

レオナルド・ダ・ヴィンチ、
最も会ってみたい人です。
学生たちには、友人をつくること、
この大切さを自分の経験から話します。
そして、今は亡き友人は自分で決めることができます。
そういう意味では、
ダ・ヴィンチは私の友人の一人です。
頭を空っぽにして、彼のスケッチを読みます。
彼の手稿は、正直、不分明なことが多いですが、
「ことば」を仕入れることが可能です。
彼の寓話論は一つの大きな視点です。
また、アトランティコ手稿というのがあります。
これは、ダ・ヴィンチのスケッチである紙のサイズ、
アトラスサイズに描かれたいわばデザインです。
いわば、「五大器械」その組み合わせの発想は膨大です。
そして、思うのは、
ダ・ヴィンチだったらエネルギーを、
どのように考えついていただろうということです。
ダ・ヴィンチ「エネルギーコード」という考え方です。
水・火・人力、そして器械的な構造で発生するような
仕事量=エネルギーは読み取ることができます。
「マッツォッキオ」という形態のスケッチがあります。
これはまぎれない「トーラス」形態です。
これは、私にとって最も刺激を受けた形態です。
この形態を作成する部品点数などを描き込む、
ダ・ヴィンチという「人物のエネルギー」に、
まず心惹かれます。
つまり、人力の詳細さに宿るエネルギーも、
大きなエネルギー問題です。
そして、それを補強してくれたり増強する友人は、
大きなエネルギー源だと思います。
「エネルギー」、
このことばの意味には深度があり過ぎます。

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「たかがデザインだから見えていること」


   


     6月 16th, 2011  Posted 12:00 AM

デザイン程度が原子力に何が可能。
こういう思惑に囲まれながらも、
私は「建設」から「生産」をと発言し、
デザインモデルを提示。
東京電力ショールームで展示会をした経験があります。
ただし、開催直前に原発事故があり、
原子力関連のデザインモデル展示は見送られました。
この時かなり激しく私は抵抗したことを思い出します。
なぜなら、「安全」で原子力=放射能を語るのではなく、
「安心」という思考を原子力技術に提案すべきだという
デザインの本質的な発想が根本にあったからです。
フランスでの講演・ワークショップ後、
ある市長が来日してまで、原子力バッテリーは
フランスでやらないかという誘いもありました。
やるなら絶対に日本という信念で断ったこともあります。
多分次のようなコンセプトを聞きつけてのことでしょう。

 ● タービンレス設計への移行
 ● イオン化傾向の差分からの電圧利用
 ● 冷却システムの革新的進化
 ● 炉心設計に偏重して周辺統合技術の欠落補完
 ● 新規バックアップ電源への発電補完システム設計
 ● 内外被曝対策・汚染対策のためのデザイン
 ● ヘルス・フィジックスへの学際性デザイン
 ● 日本の放射線管理という統合曖昧性での欠落性
 ● 放射能影響の医学対応性
 ● 保健的核物理への技術投機
 ● 放射能生物学からの技術構築案
 ● 発電所事故の国際的学習効果の共有
 ● 原発建設設計の新システムデザイン導入、等です。

こうした詳細無しが「安全神話」でくるまれていました。
今回、フクシマ原発の収束から終息のために、
現地でのエンジニアの皆さんは「命がけ」であり、
おそらく、それこそ「想定外」が突発回避は困難。
長期にわたる被曝集積の影響が必ずあるでしょう。
それでも、人類はこの厄介極まる「原子力」「放射能」に、
果敢に向かうことでこそ、
本当の「脱原発」の詳細要素と要因が見つかるはず、
私はそう考えて現実・現状を見ています。
すでに本来の御用学者の原子力専門家、
代議士たちは世論を怖れて逃げだそうとしています。
デザインとは「社会に対する姿勢保持」が基本です。


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