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『建築家の主張を、反撃反論にすべきを望む』


   


     2月 3rd, 2014  Posted 12:00 AM

久しぶりに建築家・内藤廣に会いました。
彼も松岡正剛の誕生会発起人の一人でした。
出逢い時に、「あの主張で友人を失ったよ」と言いました。
私はこのところ日本の建築界が、「新国立競技場建築コンペ」で、
大騒動をしているのを傍観していました。
建築コンペ最優秀選択への審査訂正論文は読み応えがありました。
その論文を今更というのは、これまでの建築コンペ審査反対では、
いくら提示しようが、ある意味は残っても、それだけです。
まして審査に関わった審査委員非難はほとんど無意味です。
案の上、盟友・内藤廣は正面からその反対運動そのものへ、
彼の主張を提示していました。
私は、あの建築家の提案を認めていますから、
彼が提示したことに大納得していました。
21世紀になってすぐに私はGマーク賞の審査委員長でした。
私は、「Gマーク審査委員」という表記が名刺にある人を、
「来年消去」を要求し、
消去無し友人を審査委員からことごとく外しました。
「川崎は友情と国家、どちらを選ぶのか」と罵倒されました。
即、「君への友情は無くなった」と告げました。
私は根っからが過激ですが、内藤廣はとても温厚な人間です。
その彼への敬意無き人は、元から友情など無いのです。
彼は、Gマークの審査委員長を引き継いでくれました。
彼も相当にGマーク賞の改善を試みてくれた人物です。
彼は最も「国家的な正当性」を語り切れる建築家であり、
私のデザイン活動を厳しく批評してくれます。
私は、いまなおこのコンペ非難で「署名運動」に関わる人は、
もう一度、わが国の制度となっている日本の建築コンペを
歴史的に検証し直してほしいと思います。
最優秀案となった彼女の「建築意味」を
これまでの彼女の作品で読み直してほしいと思います。
私は内藤廣の主張を「反論反撃」にすべきだと支援します!


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『この男に惹かれる・舞踊と舞踏がテーマになってきた』


   


     2月 2nd, 2014  Posted 12:00 AM

かつて土方巽の存在を美術手帳やいわゆる前衛アートで知り、
暗黒舞踏を教育TVで見て、現代舞踏も芸術かと驚愕しました。
ところが米国のクランブルック美術大学院で講義のときに、
そこには「パフォーマンス」が重大主要科目でした。
舞踊家は故・西川千麗女史と「十牛図」を一晩語り、
その後対談講演を京都で行い、突然、彼女の逝去を知りました。
私のロボットは「ロボットデザイン基礎学」をいくつかの大学、
その基本シラバスを恩師が主要大学に分配してもらいました。
私のロボットは「舞」「踊」があります。
だからこれからさらに舞踏と舞踊を追いかけなければなりません。
かつて、Apple本社で提案したキーボードは「プリエ方式」にて、
この時はバレー演者の足の動きを取り入れました。
盟友・松岡正剛は時に私に不可欠な人間関係を与えてくれます。
今般、彼の誕生日に私は田中泯と石原淋氏を知りました。
まだ存分に話をしたことがありませんが、久々の「男」でした。
彼から、彼(一人の農民ですと私に言いました)から、
彼の育てた「フクヒカリ」のお酒が届きました。
「御日待家(おひまちや)吟醸生酒」です。
私は60から大好きだった酒を飲むようになっています。
ちびちびと、石原淋氏からワイフのごとく注意を受け、
そして、松岡正剛との対談本を読み嫉妬しました。
彼の随筆「僕はずっと裸だった」を読んでいます。
一番読みたかったのは土方巽と警察官の息子だったことです。
両方ともすこぶる納得でした。
特に土方巽を知らない世代は、「本当にかわいそう」ですね。
警察官の息子としては私も本来は見てはいけない死体写真、
彼も見ていたらしいのです。私は彼より見ているでしょう。
海外の殺人写真集もありました。
暴力での死体・銃殺の死体・絞め殺された死体などです。
検死から帰ってきてからの父は元来は無口なのに、
その殺され方の推察を交えて聞かされました。
彼には、今夜手紙を書くつもりです。
田中泯の舞踏アンドロイド創りをロボット学者に伝えました。

関連過去ブログ記事
『人生70暴走古来稀・松岡正剛氏』
『男に嫉妬あり、田中泯と松岡正剛の間に割り込む』


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『Saint-Etienneの美しいカードそのデザイン』


   


     2月 1st, 2014  Posted 6:55 PM

自宅の改装がようやく落ち着きました。
この改装時にフランスから親友のディレクターが、
私の自宅隣のホテルに宿泊してもらいました。
改装があって、一日は自宅で昼食ができましたが、
翌日はスタッフとドクターに阪大、特に病院視察をお願いし、
夕食は私たちが気に入っているレストラン。
しかし、翌日からはすれ違いにも関わらず、帰仏前に、
一枚のカードをホテルフロントに残してもらいました。
先般、キーノートスピーチしたSaint-Etienne市のカードでした。
フランスを代表するデザイン都市のカードは見事なデザインです。
都市のランドマークには、それぞれの歴史性が表現。
赤い円形の中にある三つの建築は、
都市を象徴するタワー・美術大学分校・デザインセンターであり、
フランス革命時には鉄鋼産業の街であり、中世の建物から、
現代都市のランドマークで表現されているカードでした。
このデザイン都市で、フランスの土産物そのデザイン審査があり、
デザインを基軸にした土産物選びから、
今では医療産業へデザインを差し向けているだけに、
「アルツハイマー対策のデザイン」をすでにコンペにしています。
しかも人口はたった18万人の小さな街です。
私が1997年「フランスにおける日本年」で「経済と文化」を担当、
フランス・パリからの偉いさんに喧嘩をしたことがあります。
「デザインとアートは違う、デザインを見くびっては困る、
だからフランスは遅れている」と言ったことが昨日のことです。
今の日本では、「前例が無い」と断られることしばしばです。
しかし、フランスしかり、もっと中国しかり、
「これは世界で最初ですか?、それならOK特に即実現を!」。
このカードの美しさを今の日本は生み出すことができません。


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『水というエネルギーの国際化』


   


     1月 31st, 2014  Posted 12:00 AM

私は、エネルギーを電力だけとは思っていません。
水・食糧・電力がエネルギーだと断言しています。
水については、国内の名水というのをかなり確かめてきました。
そして、日本は水道水が飲める国です。それも美味しい水です。
水道水が飲める国は13カ国しかありません。
そのうちに水道水は日本以外は飲めなくなると予測しています。
私は国内のいわゆる水ペットボトルも飲み比べてきました。
そして、最も重要なことに気づいています。
世界中の料理人が認めていた水がありますが、
今、日本には輸入されていません。というよりもその国家が、
その水の輸出を禁止しているようです。
私が気づいたのは、人間の体の70%は水です。
したがって重要なのはペットボトル水も常に一定にするべきです。
というのは、私たちは水といっても、様々な水を飲めば、
体の水は一定ではなくなるということです。
例えば、癌患者の人には、まず一定の水にすべきだと伝えます。
そんなことで、私は海外のどこに行っても必ず同じ銘柄の水、
この水ならば、体調が安定すると考えてきました。
したがって日本の風土にある水こそ輸出筆頭の銘柄にすべきです。
水は、国家の安全保障を決定づけるものです。
したがって、わが国の水、その風土、土地柄の水は、
酒・醤油・味噌にはそれぞれの水を適用させて味を決定します。
しかし、日本のペットボトル水は世界制覇できうるモノが必要。
水こそ、重大な資源=エネルギーなのです。
日本の料理=和食が国際的に認められました。
その根本は鰹もしくは昆布での出汁でした。
これはオリジナリティを保全し、水は国際化するべきでしょう。


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『男に嫉妬あり、田中泯と松岡正剛の間に割り込む』


   


     1月 30th, 2014  Posted 12:00 AM

大体、男世界でのライバル心とジェラシー心について、
私にはとてもつまらないことです。
だから、私が相手にもしない男輩には、
ほとんどがジェラシーしかないものだと断言してきています。
大学空間、デザイナー空間も、つまらん輩のジェラシー一杯です。
久々にライバル心を確認することは幸運さだとさえ考えています。
そしてつまらん輩にはなるべく会いたくもありません。
先般、盟友・松岡正剛の「暴走古来稀」の集まりでは、
いつも少数ながら話し込む人物に出逢えます。
いとうせいこう、ワダエミ、真行寺君枝、井上鑑、そして内藤廣。
無論松岡正剛を支えるスタッフは長年変わらずの懸命な賢明さに、
いつも大きな敬意があります。
今回、田中泯そして石原淋と出逢いました。
田中泯、この舞踏家は久々に出逢った「男」でした。
そうしたら、「意身伝心」という対談著作が出てました。
早速注文して、会議中も読んでいました。
正直、松岡正剛と田中泯のやりとりに「嫉妬」しています。
まだ、読書途中ながら書き留めようと思いました。
なぜなら私と田中泯との出逢いと突発的な緊迫時がありました。
そうして、次にいつ逢えるかと私は思い続けていて、
そうだ、ともかくこの本ともう一冊、彼の本を読みます。
知ったこと、彼も私も警察官の息子でした。
父親が警官であることは、
ある種の生真面目な礼節で社会に向かう性癖は残るようです。
しかし、その環境が育成してくれたことの差異はあるでしょう。
ともかく、私がなぜ、田中泯にこれほどの親密感を覚え、
なぜ、松岡正剛との対談に嫉妬しているのか、
もはや、この男の嫉妬は無論ジェラシーごときではなく、
されどライバル心ではありません。
もう一度、今度は三人で逢ってみたいのです。
というより、田中泯と松岡正剛の間に割り込んでやるのです。


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『ネットワークの保全として「暗号」の再デザインを』


   


     1月 29th, 2014  Posted 12:00 AM

子供の頃第二次世界大戦の物語りを面白く読んだことがあります。
父は7.5年も従軍していましたから、その物語りを
ただ面白がっていた私、このことをどう考えたのだろうと、
そんなことを最近はよく考えます。
中でも、「暗号合戦」の話でした。
「紫暗号」という日本ならではのこれは武器でした。
そして日独海軍共用の「エニグマ暗号」がありました。
この暗号を解読した数学者の思考が現代につながっています。
暗号と現代は、そのままインターネット回線での秘匿信号です。
「デジタル」をその原意から再検分すると、
「指折り数える」という行為であり、その進化拡張なのです。
とりわけ、最強の暗号といわれた紫暗号の解読手法、
あのエニグマ暗号の解読がチューリング博士であったことは、
1980年代に入って見事に、三人のコンピュータ科学者に連続。
リヴェスト、シャミア、アドルマンであり、
彼らのイニシャルを使った「RSA暗号」こそ、
現代のネットワーク回線での二つの手法になっていることです。
簡単にいえば、「開閉の閉記号」は誰もが使え、
「開閉の開記号」を管理という二方法がインターネット方式。
しかし、私はこの領域であっても数学的思考だけの脆弱性があり、
この方式にこそ、デザイナーの関与がこれからは必然でしょう。
解説をしていくには、多分、私のデザイン経験から、
詳細にまとめ直す必要があるとつくづく考えるようになりました。
それは、パスワードを使おうが、
どのような個人的なデータ秘匿の管理方法でも必ず解かれます。
「デザイン数理学」と言い出していることには、
まだまだ時間的な進化要素を整理しなければなりませんが、
私は「プライバシーと情報」をデジタル発想でまとめ直すとき、
ともかく、新「暗号」の改革にはデザイナー発想が必要だと、
主張と強調をしておきます。


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『「百貨店の終焉」が始まっていると見ている』


   


     1月 28th, 2014  Posted 12:00 AM

私が社会人としてスタートしたのは銀座でした。
有楽町の阪急ビル7階の東京芝浦電気の意匠部からでした。
だから、銀座7丁目に東芝のショールームデザインも担当でした。
それだけに銀座の変容ぶりは見逃すことができません。
当時の銀座ではほとんど入ったことのない百貨店・松坂屋。
その松坂屋は名古屋時代にその歴史を追いかけたことがあります。
デパートメントストアが欧州でスタート以前に、
呉服屋松坂屋は存在していました。
エレベーターガールやお子様ランチも松坂屋だったと思います。
一度は、Forever21か何かになってワイフと入った程度ですが、
今、2017年開業予定ながらまだ明確な目標の無い建築中が存在。
私は、日本の百貨店がスーパーマーケット、大型店舗、さらには
チェーンストアからコンビニという店舗形式は、
おそらくショッピングがクラウド化とともに、
購買形式の大変革で、現在、大阪に乱立するデパート・大型店舗は
間違い無く、倒産するか購買販売形式の大変動になるでしょう。
ベンチャー企業、飲食店が10年継続不可能なように、
街の景観とともに、この中途半端な建築中かもしれない姿すら
大変革していくものと考えています。
銀座が東京、日本の消費文化の見本だと考えると、
まだ目標も目的も不透明なビル解体と店舗ビルの建築には、
この建設中らしき景観には「何かが欠落していく」情景を見ます。
今やクラウドのネットワークに入り込んでショッピングすることは
大阪が相当に遅れて大店舗がそろいながら、
百貨店販売の失敗事例が、この建設中らしき包装店舗に、
私は、街・シンボルである銀座の一画はとても奇妙な風景です。
つまり、情景には人間がいますが、
風景には想像外の日食・月食・天災がつつまれているのです。


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『1984年からMacintoshとの付き合いが私の重大経験』


   


     1月 27th, 2014  Posted 12:00 AM

私は車椅子生活になってふるさと福井に帰ることになりました。
ふるさとには高校時代の友人達がすでにそれぞれ分野のリーダーでした。
中でも、親友・玉木(現福井キヤノン事務機会長)は、
すぐにデザイン活動で苦心している私を物心両面で支援してくれました。
彼の会社のショールームにMacintosh128kがありました。
私は「とても高額なおもちゃのコンピュータ」を借りました。
彼に、「このコンピュータがきっと世界を変える」と話しました。
彼は私の予言を素直に聞き入れてくれてセールス戦略にとりあげ、
Mac512kは自らが講習会を受け、16台即持ち帰ってきました。
私はApple?もLisaもじっくりと知り尽くそうとしていただけに、
Macintosh128kの商品発表は鮮烈でした。
その頃、VENUS-P(通信衛星)で米国のDIALOGにアクセスするという話が、
もっともらしく当時の雑誌紹介はすべてが嘘でした。
なぜなら、Mac512kとMacTerminal、電話カプラー300bpsで、
私はDIALOGに福井は40円/分、東京は80円/分、名古屋は60円/分でした。
このようなことを書き始めていたこともあって、その後からすっかり、
Macの世界に入っていきました。
1991年から2年半は、とうとう福井で7つのコードネームで新製品開発、
Apple社からは弁護士や開発チームがやってくるほどでした。
私はジョンスカーリーの直属のデザインコンサルタントを務めました。
クパチーノApple本社でのプレゼンテーションでは、
黄色人種としての立場までいっぱい体験しました。
日本・東京はバブル経済であり、私は「何かが変だ」と思っていました。
さらに大電産業グループが私にeX-DESIGN(株)を全面支援してくれました。
福井で車椅子の私に1億4000万円のEMSを与えたのは、
その頃の福井県青年会議所の主要メンバーや地元の金融機関でした。
MS-DOSはじめSmallTalk、いくつかのプログラム言語を独学しました。
心臓障害になり、デザインも諦めていた私は、
気づけば、名古屋市立大学に光造形システムとその環境が与えられました。
先般、日本のグラフィック界の二人の代表人物に、
ジョッブスが最後に置き土産にしたと思える書体の話もしたところです。
私の30代からこの35年をMac文明とMac文化があったことは確かです。


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『忘れた頃にを想定内に!』


   


     1月 26th, 2014  Posted 12:00 AM

大学人になって18年になりますが、
私が講演では常に「自然と人間の関係」をこの白熊画像を使ってきました。
白熊が最も獰猛でありながら健康体な哺乳動物でした。
この画像を使っている最初の頃には、
「この流氷が地球で白熊が人間」と比喩し、まさか、日本列島と日本人、
この関係になることはイメージであって3.11で現実になるということは、
正直想定外だったのかもしれませんが、
結局、白熊は生命を失う結果を招いてしまいました。
寺田寅彦が「天災は忘れた頃に・・・」と言い残していました。
March 11. 2011を常に私たちは的確な意識にしておくべきです。
これだけではありません。
地球上に人間は丁度今時間現在、71億6136万8151人です。
一日で20万人が増えていくといわれています。
日本は人口減少していますが地球上の人口を減らそうという自然摂理として
「ノロウィルス」や「アレルギー疾患」「花粉症」が日本に蔓延です。
私たちはこの事実から、地球人口が100億人になってくることを
「想定内」にすべきです。
水・食糧・電力、これらすべてがエネルギーだと考えます。
つまり、私たちの想像力には決して「想定外」をつくらないことです。
ちなみに、私はエネルギー=電力とはとらえません。
水と食糧もエネルギー、
さらには減災・救済の実務方法論と物質を準備するべきです。
ちなみに、「日本という方法」・「方法という日本」を発言したのは、
松岡正剛氏でした。
私は「危機管理工学プロダクトデザイン寄附講座」を
1年やってきましたが。
今、結論は「危機管理学」ではなくて、
「危機解決という方法がデザイン」だと認識している次第です。
この4月からは、危機管理学はあり得ず、「危機解決学」を
私は追い求めていきたいと考えています。


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『人生70暴走古来稀・松岡正剛氏』


   


     1月 25th, 2014  Posted 10:36 AM

松岡正剛氏を知の巨人だと人は呼びます。
彼の存在を知り出逢い、すでに彼は70歳になりました。
もし、彼の執筆活動すら知らないとするなら、「知」無き人でしょう。
彼の誕生日の会、その発起人をしました。
私は「幸運と幸福」をといつも考えますが、
彼のその集まりでひとしきり彼に宿っている幸運と幸福を見ました。
そうそうたるメンバー定員100名のはずが、200余名集まり、
「誕生日」という制度を全否定直言しつつも「祝う」ことに、
私は日本の知性の深度を確かめた想いでした。
本来は「幸不幸」から生まれた「幸運と幸福」には「幸」が基底です。
「幸」とは、両手に手かせで行動を遮断された意味があります。
この話をして、ある著名な舞踏家にたしなめられましたが、
それさえ私の幸運さがあり、その集まりの雰囲気でした。
これほど私たちの国が、確実な天災を予知しながら、
見失っているもどかしさを抱きつつ、
まだ幸運で幸福でありたいとだけを願う哀しさがあります。
いつの日か、書き留めなければならないことが一杯あるのです。
とりわけ、私にとっての松岡正剛なる人物の「あっぱれ」さです。
しかし彼の論理には、「あわれ」と「あっぱれ」は、
同値とする断言力に彼を敬意し、
この力がなぜ備わっているのかが、実は「知」の正体かもしれません。
ちょうど彼と出逢ったのは私が40でした。今私は間もなく65です。
だから5歳年上の彼の「知あればの幸運と幸福さ」を見届けました。
これから、この日のことも時にふれて書き残すことがあるでしょう。
知力が磁力だと証明できうる唯一の人が松岡正剛でしょう。
贈答された「暴走族ユニフォーム」もあっぱれでした。
ここに集まりし人たちの集合知をもっても「現代日本」を変革できません。
それこそ、私たちが「失っていく課程」の瞬間に生涯がある悲哀です。
だからこそ、「祈る」ために「祝う」幸運さが幸福を招くこと、
私は松岡正剛という人物の70年目にそれを見届けた一夜でした。
そして、私は感謝の行為をその舞踏家から教わりました。


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