1月 8th, 2011 Posted 12:00 AM
最大公約数
例えば、24・36・60という数列。
これを2で割り、次に3 で割ると、
2×2×2×3=24=(2×2×3)×2
2×2×3×3=36=(2×2×3)×3
2×2×3×5=60=(2×2×3)×5
したがって、因数分解的には2×2×3=12がこの数列で共有。
これが、24・36・60の「最大公約数」greatest common measure=12となります。
この場合の「最大」というのは公約数の素因数が最大を意味しています。
これは素因数から、24群・36群・60群のそれぞれの多様さから、
多数決的にこの群には、12という価値には賛同しているという例示です。
したがって、共有観のある12があれば、この三つの群は賛同するでしょう。
少なからず、24群・36群・60群という多様さに、
12という多数決の基本的な納得価値があることを示しています。
最小公倍数
次に、2×2×3=12という最大公約数に対して、
2と3と5が残りました。
そこで、2×2×3=12(GCM)2×3×5=360(LCM) 、
つまり、360が最小公倍数=Least common multipleになります。
これは、ユークリッドが書き残してくれた 「ストイケア」にこの計算方法がありました。
ユークリッド互除法=Euclideam algorithmと呼ばれていました。
最大公約数と最小公倍数を見比べると、
最大と最小という素因数に実は「多様さ」の度合いがあると考えます。
デザインで応用すると、
最大公約数的なデザインなら、12は、24群・36群・60群には不可欠なデザイン要素であり、
2×3×5をデザインが無視すれば、
それぞれの群がデザインでは実現してもらえなかった要因ということです。
デザインが市場要求性を満足させるには、最大公約数的なデザインをめざします。
デザインが最小公倍数的な要因は、少なからず無視するでしょう。
「多様」と「多数決」を見直す一つの方法だと考えます。
Tags: Euclideam algorithm, GCM, great common measure, LCM, ストイケア, ユークリッド, ユークリッド互除法, 公約数, 共有観, 因数分解的, 多数決的, 数列, 最大, 最大公約数, 最小公倍数, 素因数
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1月 7th, 2011 Posted 12:00 AM
多様な思考からの造形
デザイン造形、造形された「かたち」。
デザインは多様さを検討。
造形結果は「かたち」です。
かたち・形態というのは「多様体」です。
多様体造形
立体、球体などは、決定的な形態ですが、
数学的術語の中にもう一度引き戻して考えれば、
これは「多様体」の中での特徴と特質ある形態=かたちということが出来ます。
そこで、デザイン造形された「かたち」=形態は、
実は「多様体」造形だったと言い直すことが可能でしょう。
つまり、ユークリッド空間そのもの自身も多様体と考えることができます。
最小多様度の法則
したがって、デザイン造形された形態=多様体は、
思考に思考(=多様さ)された中から、最小要件・多様度で導き出された「かたち」です。
多様体という言葉を数学的な術語に残しておくより、
もう一度、多様さを多様度と言い直せば、
思考決定での最小限界まで、その法則性を見いだすことが可能です。
社会学的には、確かにこの法則があります。「最小多様度の法則」と呼ばれていることです。
いづれこの説明を数学用語「多様体」と結びつける必要があるでしょう。
結局、多様さ・多様度ということが、何と関わっているかを見直していくことになります。
私は、人々の価値観が多様というなら、その多様さ=多様度を深く洞察し直さなければ、
「多様」であることの全体像という「かたち」が見えてこないと考えているからです。
数学的な「多様体」という言葉の定義も、
実際的には「形態」すべての自由性での多様度の中から引き出された「かたち」です。
つまり、デザイン造形とは「多様度の最小原則性」で解釈が可能だということになります。
かなり複雑怪奇で難しい話ですが、まとめておくべきと考えています。
Tags: かたち, デザイン造形, ユークリッド空間, 価値観が多様, 全体像, 多様さ, 多様体, 多様度, 多様度の最小原則性, 数学的術語, 最小多様度の法則, 最小要件, 球体, 立体, 造形結果
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1月 6th, 2011 Posted 12:00 AM
多数決という脆弱な決定論理
「多数決」という決定制度。
この原則性には、決定論理への単純化。
すなわち、少なからずいくつかの結論が必要です。
もし、意見や主張が「多様」になれば、
もし、10人の意見が10通りあれば、「多数決」の原理にするためには、
少なくとも、2結果選択か、あるいは3結果程度準備する必要があります。
2結果選択が5人づつになれば、再度決選投票になります。
さらに、100人の投票多数決で、A=49:51=Bとなれば、
「多数決」にて、B意見が民主主義的裁断という原則です。
この原則で重大な決定は唯一、一人の意見で結果が分離したことです。
多数決論理が剥離
私のこの単純明快な見方は、民主主義の「正当性」が、
きわめて通俗的な意見収集方法であり、決定論的な曖昧性は残存しているということです。
「多様化」と民主主義との関係性の剥離に対して、
すでに私たちは再熟考が必然になってきているのでは、ということを指摘しておきたいと思います。
そしてこの指摘からは、民主主義への反証性が生まれてしまう危険性があります。
これをを読み解くことが必要であり、今世紀の大きな課題だと考えています。
それは、「多数決」という決定論的な制度を完全否定することです。
これが現在では対抗的に「独裁制」という決定論が生まれていることです。
多様の幾何学
結局、「多数決制」:対:「独裁制」というこの「直線上」には、
まったく論理的な中庸性などありようが無いという事実と現実です。
現代世界観には「多様性」はまったく「民主主義」とは相容れない事象が潜んでいると言うことす。
私は、「多数決」と「独裁」を「直線上」に位置づけました。
果たして、「多様性」に対して、数学的術語である「多様体」という「かたち」には、
この「直線性」の有無があります。
私の思考は、「多様性」から「多様体」までを形容する、
肝心な「多様」という言葉の再検討に再度立ち戻る必要性を感じ取っています。
私はこれを「多様」の幾何学とひとまずタイトル化しておきます。
Tags: 中庸性, 多数決, 多様体, 数学的術語, 数学的術語である「多様体」, 正当性, 決定制度, 決定論理, 決選投票, 独裁制, 直線上, 直線性, 関係性の剥離
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1月 5th, 2011 Posted 12:00 AM
民主主義の再熟考を
現代、普遍的正当性の言葉。
国際的な正義観のある言葉。
それは民主主義という行動原則性と理念です。
この民主主義には「多数決」という制度が確立しています。
しかし、私はこの言葉・原則・制度・国際的正義性に対して、
果たして「本当なのだろうか」という疑念懸念があります。
最大多数の最大幸福の下意識主義用語として、
私は再熟考すべきだろうと思いつつも、
これを超越する哲学理念が創れるわけでもありませんが、
とりあえず、この言葉に包括されている私自身の存在については
いくつかの懸念性は書きとどめたいと思っている次第です。
多数決と多様性
その一つに「多様」という言葉があります。
多様は、「多様性」と「多様体」という視界が映っています。
単純に言えば、
「多数決」とは、あくまでも「最大公約数的」な結論がベースとなった、決定論です。
しかし、「多様性」も「多様体」も、「最小公倍数」までを包括しています。
明らかに、「多様であること」は「多数決=民主主義」への再考性を投げかけています。
無論、
「多様性」、「多様体」という言葉=術語と主義主張への決定論用語には差違があるのですが、
少なからず、私は、「民主主義」と「多様性」から重ね合わせた思考の時代が、
今世紀の新たな「思考核心」の一つだと考えています。
Tags: 下意識主義用語, 哲学理念, 多数決, 多様, 多様体, 多様性, 普遍的正当性, 最大公約数的, 最大多数の最大幸福, 最小公倍数, 正義観, 決定論用語, 理念, 疑念懸念, 行動原則性, 術語, 言葉・原則・制度・国際的正義性
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1月 4th, 2011 Posted 12:00 AM
私の視座から
人生にとっての新年。
それぞれに新たな年を迎えること。
私はこの年、「兎」への思い出と知識の整理でスタート。
新年とは、人間それぞれにとっての期待と希望です。
私は新年を迎えるにあたって、いつも新年は信念の確認と思ってきました。
その癖がついたのは、交通被災・車椅子生活となってふるさとに帰省=Uターンをしてからでした。
それは「歩けなくなった川崎和男という生」が引き込んだものだったと思います。
「歩けない私」の視座は、私の眼差しを全く変えたと考えます。
この眼差しがひょっとすれば私である「歩けていたかっての川崎和男」という人間の質、
それは人格まで変えたのかもしれません。
多様性など無し
私の現在の眼差しは、「多様性を持ち得ない日本人」を見つめています。
これは私がデザイナーという職能性からの想いと経験だと判断します。
歳末、例年のごとくTVでは、「くる年への期待感」を押し殺すように、
去る年に失ってしまった無念さへの怒りや失望を整理しています。
これらはすべからく、多様性はなく単純明快な共同謀議を共有していました。
そして、「くる年」への期待感や希望には、
「多様性を尊重し合う」という知性が共有されていました。
世代間の差異性
しかし、私にはこの共有している謀議は幻想の確認に過ぎないものと思えました。
もし、多様性があったとするなら、それは世代間での思考差異性だったと見ています。
世代間での差異性の根本は、「情報」であり、「メディア」との経験の質でした。
そしてこれを「多様性」と呼ぶことは間違っています。
私が世代間の差異性を批評するなら、
メリットは、経験質が若い世代ほど高密度であり時代革新の先導力になるでしょう。
ところが、デメリットは、世代間の価値観の断絶です。
こうしたことが世代間のギャップとして、対立することなく新たな秩序づくりこそ、
新年への希望であってほしいことです。
私は新年の信念を、車椅子ゆえの視座からの姿勢を遵守します。
Tags: Uターン, くる年への期待感, メディア, 世代間での思考, 世代間の差異性, 交通被災, 価値観の断絶, 信念, 共同謀議, 共有している謀議, 多様性を尊重し合う, 多様性を持ち得ない日本人, 差異性, 希望, 帰省, 幻想の確認, 情報, 新たな秩序づくり, 新年, 時代革新の先導力, 期待, 歩けない私, 歩けなくなった川崎和男という生, 眼差, 視座, 車椅子ゆえの視座, 車椅子生活
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1月 3rd, 2011 Posted 12:00 AM
兎猟
兎にはいくつかの思い出があります。
母方の祖父は宮大工の大棟梁でした。
そして、小さな村を持っていました。
今も、Google-Mapではその場は「商店名」になっています。
私は最初の外孫で男の子でしたから、
祖父はじめ周囲の用人の人が、兎猟での仕掛けなどを見て育ちました。
だからどのような刃物、というより鎌に近い刀での解体などの場面と味も思い出すことがあります。
福井市から最も近い1053mの浄法寺山では、春には斑模様の山兎と出会うことがあります。
その出逢いの緊張感には、兎の生と死があり、
それがそのまま月という陰暦性の生と死が私の中では結びついている気がしてなりません。
とりわけ兎の糞についても独特の消化機能が働いた結果があり、
その臭いや固さなどが記憶には明確にあります。
そして、何よりも「うさぎ」の語源説では、
「月」と「うさぎ」のつながりがサンスクリット語にもあったはずです。
ひょっとすれば、私にとって今年が最終の卯年かもしれませんが、
もう一回12年後の卯年程度は迎えたいものだと願っています。
元旦
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1月 2nd, 2011 Posted 12:00 AM
楚辞
屈原という詩人のことを思い出します。
中国がわが国にもたらした文化、
それは日本の東洋的知性を相当に育みました。
ところが、今の中国にその知性は認められません。
これほど、一党独裁には、権力と集中的な富の偏在があり、
中国文化の知性はおかしな富奪取にまみれてしまいました。
おそらく中国には二つの大きな詩集があったことなどは破壊されていることでしょう。
その詩集は、詩経と楚辞であり、その楚辞の作者が屈原でした。
楚辞・天問篇に、月と兎が詠われています。
夜光何徳
死則又育
厥利維何
而顧菟在腹
「月は何の得があって、月は満ちたり欠けたりしているのに、ウサギを住まわせているのだろう」
という意味です。
月とウサギは、なぜ世界的にも象徴的な関係性があるのかは正直疑問です。
この年明けにいくつか探ってみたいと思います。
そして私にとっても、ウサギにはいろんな思い出があります。
幸いにして私は雪国生まれの雪国育ちでした。
ウサギの捕獲から解体、食仕方も知っています。
しかし、幼いときには、月にウサギが餅をついている話を信じていました。
あらためて、楚辞を読み直すとそこには屈原が森羅万象の自然を彷徨って、
大きな想像力が記録されています。
昨年から、わが国は中国に翻弄され続けています。
私は中国の多大な文化思想をもっと学びたいと思いますが、
現体制の中国を信用することは全く不可能だと告白しておきます。
いづれ中国の巨大な人口は、水不足という大変な事態になるでしょう。
そして確実にあの国の崩壊は起こるはずです。でなければ、帝国主義として破壊側になるでしょう。
その時、隣人として「大きく彼らを支える」そんな気概ある政治外交姿勢が欲しいものですが、
日本の現政権ではこれも全く不可能でしょう。
楚辞、屈原の想像力が森羅万象に向けられていたことを再読し,
あくまでも知性的な自分でありたいと思っています。
元旦
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1月 1st, 2011 Posted 12:00 AM
卯年
あけましておめでとうございます。
卯年ゆえ、ウサギをひとまず象徴。
世界的に「月」との関連性があります。
なぜこれほど見事な世界的にも民俗的なシンボルが「ウサギと月」なのでしょうか。
「月」を見つめる一年にしたいと思います。
ひとまず、この21世紀も11年目になりました。
果たして、この一年もこのブログを連日書き続けられるかどうかは不安です。
しかし、まっすぐに時代を見つめて本音をたとえ批判されようが編年体的な記述をめざします。
ともかく、体調大事に昨年同様に「行学」の精進と修練は果たしていく覚悟です。
なんとしてもやり遂げたい「かたち」に向かっていきたいと思います。
それが、私の「きもち」と「いのち」をつないでいるという信念があるからです。
おそらく、このブログでは変わらずの独り言を、
まずは「自分のため」を書かさせてください。
そして、読者諸兄の皆さんにも何らかの「日常的思考のヒント」と「かたちからデザイン」を
読み取っていただく動機になるよう心がけるつもりです。
なんとしても「幸運」な年にしたいと願っています。
きっと、「月」を見つめて信念の確認ができるのではと思う年にしたいと考えています。
合掌
元旦
Tags: いのち, ウサギ, かたち, かたちからデザイン, きもち, 卯年, 幸運, 日常的思考のヒント, 月, 民俗的, 行学
Posted in 062 「2011正月」, 資本主義から逃走せよ!
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12月 31st, 2010 Posted 12:00 AM
ご笑読に深謝します。
毎日のこのブログは私の行学記録です。
よって、私自身に向かってであり、
読者諸兄には難解や理解不能だったこと
くれぐれもご海容をまずお願いします。
そして、ともかくご笑読いただきましたこと、心から感謝します。
私は正直、二度の生涯を宿命づけられていると自覚しています。
「歩いていた川崎和男」と「歩けなくなった川崎和男」です。
また、3回、多分ですがあの世への道に佇んだ経験もあります。
こうした経験、さらに経験の質からの「ことば」を書き残すことを課しました。
このブログもひとつの行学、行学修練のメモであり、
デザイン活動を支える思考記録だと考えています。
毎日決して滞りなく書き残すことは正直厳しく辛いものです。
この「修練」は行学を決意した覚悟の具体化ゆえ、自分を裏切らない方法です。
私自身が私のために記録していることであり、
楽しみに読んでいただいてる方々もあれば、揶揄非難もあると聞きます。
この両極を受け入れられる自分になれたことは幸運だと感じます。
来年果たして毎日書き残すことができるかどうかはとても不安です。
ともかく、この一年私のある意味での独りよがり「独り言」に、
ご笑読すなわちご傾聴だと思いますが、心より深謝します。
ありがとうございました。
2011年、皆様にとりまして「良き年」であることを祈念します。
まもなく謹賀新年です。
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12月 30th, 2010 Posted 12:00 AM
民衆主義の中のデザイン
一所懸命に向かい合ったと思います。
しかし、自力では無理難題に包囲。
賢明さだけでは解決不能が多発しました。
ということは、あまり懸命さと賢明さが不十分。
この不十分さを自分に押しつけることは辞めました。
こうしたことはワイフからのアドバイスで助けられました。
それでも肝心の「造形」というデザイナーの解決成果だけは継続させられたと思います。
未だに現役でデザインテーマも自分で設定し、
地道・蓄積・修練・研磨だけひたすら続けられたことは「幸運」だったと思います。
しかしこの一年、日本全体の不景気感は、デザインへの巨大な重力になっています。
これはすべからかく、「政治」がまともでないこと、
そのような選択をしている根本的な民主主義が民衆主義に覆い尽くされていることです。
したがって、本来、人間社会、世界的賢明さの歴史観が築いてきた「民主主義」の誤り、
それは「情報」で歪められる脆弱さと「情報力の巨大さ」です。
民衆主義を民主主義と勘違いしている現代世界観を覆す必要性がある、ということです。
「政治」がなぜ駄目なのか、この根本についての討議は民衆主義の中で融解しているだけです。
民衆主義に融解していく民主主義をつきつめていくことが、
いわゆるグランドデザインだと考えます。
来年のテーマの一つです。
その解答も「解決というかたち」を造形したいと思っています。
今年の実例で考えると、「なんとかデザイン」、つまりデザインの形容、
すなわち、デザイン職能の専門性と詳細性を決定する「なんとかデザイン」、
そのものをデザイナー自らに曖昧性と混乱性が増えていることです。
これも民衆主義的な中でデザインが語られることが頻発しているからでしょう。
特に、産業とデザインの関係性が、文化とデザインの構造化になかなか進化していません。
これが最も明快になったことです、これを来年のテーマにします。
つまり、民衆主義と民主主義を分別することです。
それは民衆主義も民主主義も両軸がもはや不要であることを、
「デザインの本質」に持ち込みたいということに他なりません。
これは今、わが国の存在、わが国に「生きる日常」すべてを皮膜している現実問題だと考えます。
民主主義を離脱するために、民主主義からあらたな主義を創造すること。
その根本が民衆主義に委ねきっている私たちすべての意識改革だと確信します。
Tags: グランドデザイン, デザインの本質, 一所懸命, 不景気感, 地道・蓄積・修練・研磨, 巨大な重力, 情報力の巨大さ, 意識改革, 懸命さと賢明さ, 曖昧性, 民主主義, 民主主義を離脱, 民衆主義, 混乱性, 無理難題, 現代世界観, 解決不能, 賢明, 造形
Posted in 061「”行学”に向かって」, 資本主義から逃走せよ!
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