kazuo kawasaki's official blog

Posts Tagged ‘雲雀’


『熊本県シンボルをレジリエンスデザインが表現する』


   


     6月 30th, 2016  Posted 12:00 AM

九州は今、また豪雨がやってきます。
熊本は地球環境の温暖化どころか、
日本列島の天災を集中的に受けています。
「レジリエンスデザインチーム」で、デザインの役割を実務化。
調査も地道にしながら
建築基準法や気象情報などを根本的に変えるべきでしょう。
これまで「強靱化プラン」は
机上の論理という自分の指摘は間違っていませんでした。
デザイン実務は熊本震災での支援を、たかだかマークとかワッペンですが
これが大きな力を持っているとデザイナーは確信しているはずです。
とりわけ「レジリエンスデザイン」は、
万一、天災あるいは人災があってもそのプレッシャーやストレスには
決して屈しない、負けない、心理的な精神面を支えます。
「レジリエンス」という言葉を知ることによって、
人間一人一人が精神的に強く、それこそ強靱になるのです。
人間が強靱になるには
国土としての土木面を強靱化することも大事ですが、
最も大事なことは「シンボル」を持つことです。
熊本にはいわゆる「ゆるキャラ」と言われるくまモンはありますが、
お役所仕事としての認可など待ってはいられないのです。
その変わりとしての熊本県シンボル=楠・竜胆・雲雀がありました。
コピーは「負けるな・泣くな・生きるんだ」に、
このシンボルを合わせて利用することで、熊本での体験こそ、
わが国にとって、さらに先進国家として、
地球環境上での「生きのびること・最悪な事態」に
自分自身のレジリエンスを
強靱化していくことができるはずです。
私たちは熊本での被災への哀しみを日本全体の経験として、
それを国際的に訴えていくのです。
楠・竜胆・雲雀それぞれの熊本シンボルはまさに一つのシンボルです。
レジリエンスデザインはたかがワッペンですが大きな力を持っています。

*『レジリエンスデザインを熊本に差し出す』
*『東日本大震災のNHKジャーナリスト講演から』
*『権威権力者を「演じる覚悟」を見せた建築家』
*『泣くということ・喜怒哀楽の基礎感性行動』
*『稲穂と麦穂、どちらを選ぶか』


目次を見る

『熊本の草木鳥がレジリエンスのシンボルになる』


   


     6月 16th, 2016  Posted 12:00 AM

きわめて自分は焦っていました。
熊本地震の現地から、最も気にしていたのは身障者、車イスの人たちです。
やはり避難所には行きづらいという連絡がありました。
現地では終息しない2000回を超える地震。
崇城大学と九州大学に「レジリエンスデザインチーム」を
39大学が後方支援。
しかし、自殺者まで出ると「レジリエンス」そのものが崩れてくるのです。
そこで「負けるな!・泣くな!・生きるんだ!」という標語を思いつき、
早速、シンブルなキャラクターはすんなりと「くまモン」としました。
ところが認可は一ヶ月も先とのことです。皆が頼っているのです。
ならば、熊本のシンボル=楠・竜胆・雲雀に決定をし、
ビジュアル表現に入りました。
ところが若いデザイナーには、草木鳥の基本知識が大欠落。
美大同輩からは欅(自分は思い込んでいた)じゃない楠という指摘。
そういえば、欅と楠では木質も枝振りも全く異なります。
まして竜胆(スズラン)ともなると、
これは高山植物にまで登場する様々な種別があります。
竜胆を家紋にすれば歴史的な象徴の何を重要視しているかが明確です。
そして雲雀(ヒバリ)となればこの鳥は真っ直ぐと上昇して飛び立ちます。
この飛び方には飛翔前の小走り方と、天高くから垂直に降りますが、
実は地上に降りると、
下降地点からすぐに数十メートルを小走りしてしまいます。
美大時代に木質と木立はいっぱい写生をしてきました。
花にいたっては何種類の花を花弁や苞葉をデッサンしてきたでしょうか。
雲雀か雀か鶯かも最近では定かで無い装飾が氾濫しています。
これをデザインと言われるのは真っ平です。
少なからず、草木鳥にレジリエンスはありえません。
よって、熊本の元気のシンボルは、楠・竜胆・雲雀に、
ビジュアルデザインの基本を求めています。
熊本の現地で、負けそうになったなら、
このワッペン、あるいはビジュアルシンボルを
叩いてもらい自分を奮起してもらいたいのです。
これはレジリエンスデザインが果たせる役割だと考えています。

*『レジリエンスデザインは真正面で自殺と向き合う』
*『非常事態の準備は再考しなければならない』
*『勘違いディフォルメ写生は伝統では無い』
*『自然から学んだはずだった・・・のだが?』
*『扇子の季節、伝統センスが壊れ始めている』


目次を見る

「自然から学んだはずだった・・・のだが?」


   


     6月 24th, 2013  Posted 12:00 AM

以前から気になって仕方がないことがありました。
美大に入って、どれほど自分がデッサン出来なかったかを知り、
プロになるために相当のトレーニングをしました。
しかし、交通被災でまた振り出しになり、
車倚子でのデッサンを再度やり直しました。
だから、気になるのは、特に伝統工芸品のデッサンです。
陶磁器、扇、染め物に描かれた自然描写です。
金沢や京都で、そのデッサンが狂いだしているのを発見すると、
ついつい言い出してしまいます。
実例にあげると、「鶯」なのか「雀」なのかがまったく不明。
「葉脈のデッサン」が狂っていても、それが伝統工芸品、
これは大きな間違いです。
そうです。たかが写実主義風の(日本に写実主義は無かった)、
自然描写の正確さこそ、本来、日本人の眼差しと表現能力です。
この能力をもってこそ、日本美の根底が担保されるべきです。
ある産地で、
「これは雀ですか?」
「いえ、鶯です!」
「えぇ・・・・!?」、ということです。
雀の嘴、鳥類の足、尾翼の特徴、この三つで形態は判断可能です。
まして、「雲雀」とか言われると嘘でしょうと嘴ってしまいます。
私はデザインのためのトレーニングでは、
特訓・特訓を受けてきました。
だから、デザイン独学には必ず限界があると思っています。
私はあくまでも「手」での表現力が基準だと確信しています。
デッサンは基準だからこそ、基本として身体化されるべきです。
最近は、パソコンがあり、しかも3D-Printingの真偽が曖昧ゆえ、
私はこのことにには、教育者としても拘ります。
「モノづくり」の基本と基準は、
たとえ人工的であっても、
日本人は「自然から学ぶ」という姿勢は遵守すべきことです。
それがなければ「美」に到達することはアポリアになります。


目次を見る