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「病院という制度の中の患者心理・私の場合」


   


     10月 26th, 2012  Posted 12:57 AM

病院とは、医療を受ける空間です。
しかし、病院が街にひとつ出来れば、いわゆる病人=患者、
その数は必ず増加すると言われています。
それは端的に言ってしまうと、現代社会の中では、
病院は、制度の空間だと言い切ってしまうことが出来ます。
したがって、病人という患者は、
その制度に呪縛された空間要因だとも考えることが可能です。
そこで、私は一ヶ月に必ず一回は患者として、
その制度空間に身体をすり寄せているわけです。
そして、この定期検診という日時は取り決められています。
しかし、患者は時に、いやしばしば、
この空間に通うことが身体的に苦痛なことがあります。
私は、その時、なぜ苦痛があるのに、
その約束を果たさなければならないのだろうと考え込みます。
というより、常に、
制度に身を任せなければならないことを真剣に対峙します。
それは、
毎月一回の検診が死ぬまで連続することの意味を再確認するわけです。
時折、「病苦に悩んで自殺」という事件を目にします。
私は、この心理を心底理解できます。
それは、身体的苦痛が激しいからこそ、
定期検診という制約に立たされるとき、
<もう、面倒だ、死んだ方がどれだけ楽だろう>と、
瞬間思ってしまいますから、
この心理=心情は深く理解出来ます。
けれども、死にたくないからこそ、制度・定期検診に通いながら、
この心理に突き落とされているとき、
実際は次のようなことが「見えていない」のです。
人類が、「生」を存続させるために創り出した「病院」、
ひいては「制度」が患者への大きな矛盾をつきつけているのです。
したがって、今更ながら「生」に固執するためにこそ、
人間は存在せざるをえない生き物だということです。
「制度」は行列を創らせ、
「制度」は、ゆえに呪縛されていることを再確認させ、
「制度」はしっかりと資本主義体制に根をはっていることを
証明しているのです。
ならば「尊厳死」なるものも、結局は、「生」への固執であり、
それを積極果敢に
開放させたかのような幻想にすぎないということになります。
かつて父が「尊厳死協会に入ったから」と一報をくれたときに、
私は彼の覚悟を誇らしく思ったものでした。
しかし、それはやはり矛盾の中の「生と死」の問題に過ぎません。
おそらく、
私は死ぬまでこの「制度」に身を寄せているだろうと自覚しています。
それが、患者という心理、心理という患者だと納得しています。


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