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『ザハ・ハディド建築案の反故は日本が壊れ始めた象徴』


   


     11月 25th, 2017  Posted 12:00 AM

日本は敗戦後、懸命にこの国家をひたすら進歩させてきました。
しかし、現状、この国家はいつから国難状況になってしまったのかを
猛省して回復を成し遂げるべきです。
まず、政権交代があまりに風評で行われてしまったかを私は指摘します。
そこに襲いかかった3.11に天災と人災。
未だ国籍不明の議員による能無しの「仕分け」は、
私自身被害者として「やり直し」を申し立てます。
3.11復興と南海トラフリスク対策を防災大臣にも懸命に図りました。が、
前政権は全く戦略も戦術も無かったと判断しています。
決定的なことは、国立競技場の建設に群がり、予算問題から結局、
建設やり直しが、この国家観を破壊したシンボルでしょう。
私自身、香港の理工科大学に初めて行ったとき、
タクシーから降りた瞬間、この建築の巨大さに
「建築が人間に与える感覚を初めて受けました」。
それが、ザハ・ハディドの設計でした。
そういえば、国立競技場も当時は彼女の建築案が採用されたのでした。
親友である建築家内藤廣氏が
やっと多大な図面制作をする場所を確保したと聞いていました。
ところが、建設費の膨大さにザハ・ハディドの設計案は反故されたのです。
おそらく、ザハ・ハディドの建築案であったなら、
わが国の新しい景観設計は進化を遂げていたことでしょう。
彼女の設計案が取り下げられた直後に逝去されてしまったのです。
最近、彼女のデザインが実現されています。
これは彼女のハイヒールデザインですが、
工業デザイナーとして、自分自身も取り組んだだけに、
このデザインを私は評価しています。
自分デザインのハイヒールは結局実現されませんでしたが、実現されたこと、
その最終形態言語=デザイン意味されている内容あるかたちに、
私はプロとして評価を与えたいと思っています。
最近もある研究所で福島復興の基盤アイディアと実際の現地実験を見せて、
「これでも研究所なのか」と、怒り心頭になりました。
壊れゆく日本という国家は、少子化・高齢化・格差社会だけではなくて、
いつ来ても想定内の天災と、取り戻せない拉致被害者、
日本人が狂い始めた象徴かザハ・ハディドのあの建築案を捨てた時が
極めて象徴的だったと思っています。

* 「仕分けされたプロジェクトの重要性から現政権を否定」
* 「自然との喧嘩・調和などありえない」
* 『「ふくしま」だから未来と絆で、夢のプロジェクトとは?!』
* 「この日からの再出発、再認識」
* 『権威権力者を「演じる覚悟」を見せた建築家』


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『こうした連続事件には共通性の闇がある』


   


     3月 3rd, 2015  Posted 2:11 AM

まだ幼い小中学生が殺されたり、
大学生が「人を殺めたい」と事件を起こします。
そして、この報道はひとつひとつが話題になります。
決まって、事件をマスコミは「消費」だけしてマスコミ批判。
それぞれの事件性にはたとえない悲しみを国民全てが抱きます。
しかし、次々と起こる事件は、消費されて忘れられてしまいます。
私は、殺された被害者側の視線がマスコミの消費だけで終わること、
これが日本のマスコミ批判そのものも同罪だと言わざるをえません。
「人を殺める」こと、その加害者への厳罰は当然だと思います。
加害者は「想像力を大欠落した」社会存在性を放棄した
社会性から隔絶されるべき人間、まして彼らも若人ゆえに、
もっと大きな悲しみと哀しみに苛立ちます。
もし、この人を殺めれば、周囲がどれほど悲しむかという
この想像力があれば、こうした罪を犯すはずがないはずです。
だから、社会的な想像力が環境あるいは生得した能力の問題は
厳罰であり、死刑はさすがに認めがたくそれなら人体実験の刑です。
手術や治験の刑がふさわしいと思っているくらいです。
もし、この刑で死に至れば、それは英雄の死とすることであり、
もし、助かれば恩赦でもいいのではと思ってしまいます。
ともかく、社会的な想像力を無くして、人を死に追いやることは
決して社会は許してはならないものと考えています。
なぜ、死刑と無期懲役、ひょっとすれば直ぐに解放されることは
認めることはできません。
特に10代の子が殺められることは少年法や精神異常でOKはダメです。
加害者の両親が弁護士で護ることは、分からないではありませんが、
そのような小賢しさこそ、「想像力を奪った環境」も厳罰でしょう。
悲しくて哀しい事件があまりにも連続しています。
この連鎖性を断絶させる「厳罰の刑」を再熟考すべきだと思います。

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