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Posts Tagged ‘苦痛’


『大阪における緊急事態宣言とコロナウイルス原因』


   


     5月 25th, 2020  Posted 3:42 PM

ようやく「新型コロナウイルス」での緊急事態宣言が解除。
私はほとんど自宅にいますが、
時折、ワイフが食料を買い求めに出掛けます。
その時には、スーパーマーケットから
カメラ中継をしてくれて好きな物を選んだりしています。
そして、自宅から見える通天閣とアベノハルカス両方が点灯されました。
確かに大阪では、人混みがそれほどうるさくは無いようです。
そして、コロナウイルスについて段々と詳細が解ってきました。
肺炎よりも「血栓」であること、そして「D-ダイマーの機能」までが、
溶解されてきたようです。
私の専門が「血液」の基礎医学でしたから、
血液凝固の過程での「血栓」には、多少理解があります。
そして「D-ダイマーの機能」がくせ者です。
ともかく、症状である胸痛は、
「死」の瞬間まで「とても苦痛」だったろうと思います。


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『これは最適ではない・誤った車椅子対応車輌デザイン』


   


     1月 17th, 2014  Posted 12:00 AM

この車輌を準備していただく方々には大変申し訳ないのですが、
車椅子対応車輌として、このデザインは大間違いです。
かねて、グッドデザインの審査員・審査委員長時代に、
私はこのデザインは、認知症の車椅子使用の方々には必要なデザイン、
ということで認めてきましたが、
車輌メーカーデザインの車椅子認識大間違いだと主張してきました。
まず、30分程度の移動なら、車椅子で車輌に乗っていることができます。
しかし、車椅子で車輌内で固定されて乗っているのは苦痛です。
おそらくこうした発言を私はする義務があると思っていますから、
あえて「間違いのデザイン」と言っておきます。
最近は、車輌のシートがそのまま電動車椅子になっているのが、
わが国の進化した車椅子使用者の車輌デザインだと認めます。
先般もベンチャー企業で「車椅子開発」を見ましたが、
これも大間違いのデザインを進めていました。
健常者の人が車椅子に座って移動するのは「腰」を使うことができます。
ところが、車椅子使用者は腰では車椅子移動は不可能です。
明確なデザイン使用者に対応したデザイン設計無くして開発は不可能です。
車椅子にて移動をする障がい者と、
健常者使用車椅子へのデザインは区分・分別されることが肝要です。
また、腰椎・胸椎・頸椎での障害程度によって車椅子デザインは、
それぞれが全く異なることを述べておきたいと考えます。
正直私は1989年から自分のデザインした車椅子(MoMAコレクション)
使ってきていますが、加齢とともに、細部の変更をしてきています。
そしてもはや手動は諦める年齢になってきました。
今、メーカーと「電動車椅子の設計」に苦しんでいます。
なぜなら、私が納得できる電動車椅子が皆無だからです。
したがって、せめて車輌の車椅子対応デザインは熟考と実現を望みます。
また、車椅子使用の運転者のための車輌変更部品設計も、
「国際化」が望まれます。
その詳細については、わが国の制度設計へのデザイン提案が必要です。
高齢社会のわが国はもはやその制度設計が必要になってきたようです。


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「資本主義からの逃走」
 「喜怒哀楽すべてに『痛み』あり、母の形見」
  


   


     2月 28th, 2011  Posted 12:00 AM

喜怒哀楽の痛み
私はある日突然、障がい者になりました。
交通被災直後、手術麻酔覚醒直後はじめ、
ともかく病院で、命を限界で支えているときの
身体的・生体的な痛み=苦痛は耐え難きものです。
痛い経験なんて生まれてから数え切れないほど体験するはずです。
にもかかわらず、損傷した部位の痛みは天候季節、
さらに精神的に自分を確認しなければならないとき、
その『痛み』は激痛を超えるほどのものです。
しかし、生体的な痛み以上のものが、
喜怒哀楽すべてに潜んでいます。
どんなに考え込んでも、最も哀しいことは死別です。
痛みを識るという母の形見
私は、被災後、自分が激痛のときになんとしても置き換えてイメージしていたのは、
癌で苦しんでいた母のことでした。
47歳で逝ってしまった母は、
当時、腸捻転で腹膜炎の疑い程度ということで手術を受けました。
そして開腹したらすでに消化器系すべてに癌はひろがっていました。
手術室に呼ばれた父が卒倒し、今度はすぐに私が呼ばれて、
ドクターは胃から小腸までを両腕で抱き上げて、
「手遅れだから、このままで縫合する」と告げられました。
この時の場面を思い出せば、
『痛み』は二重になりつつもかき消されたかのようになります。
喜怒哀楽の痛みから確認すること
人は、喜怒哀楽が生涯に連山のごとく高低ある振幅に乗せられ揺すぶられ、
時には、喜びにも楽しみにも『痛み』は潜んでいます。
当然、怒りと哀しみの『痛み』は、自死を決意しようというほどのことも起こります。
そして、この喜怒哀楽は、各自だけの同一性、その確認に密着しています。
つまり、『痛み』は自己の存在性、その確認に直結しているということです。
障がい者になって、たった47 年間の生涯、
その21年間を私に与えてくれた『痛み』から学んだ「母からの形見」です。
私は、同一性の確認とは、
喜怒哀楽すべてにある痛みを識ることに尽きると確信しています。


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