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Posts Tagged ‘美・義・善’


『藝と醫を略字化したことは本質を見間違える!』


   


     6月 17th, 2015  Posted 12:00 AM

藝と醫、この二つの漢字が芸と医という略字になってから、
工藝をさらに読み解いた民藝と醫学は変質しました。
私は工芸と医学それぞれに本質を軽んじる傾向があると思ってきました。
醫には明らかに薬の瓶が含まれ、
藝には草冠と執行するという深度がありました。
したがって、私は芸と医の両方の世界にあって、
藝と醫であった本質論を必ず、
職能観と工芸と医学が喪失したことに言及することを護り抜くこと、
こうしたことには命がけの姿勢が必要だと考えてきました。
運良く、私は柳宗理から薫陶を受け、柳宗玄から西洋美術史、
特に、「美・義・善」を徹底的に叩きこまれました。
正直今頃になってあの時もっとあれを聞いておけばと思い出しています。
そして、先般私は「柳宗理生誕100年記念」の講演という大役を、
先輩と同輩から命ぜられて、
私なりに、先生との思い出は学生時代だけではなく、
東芝新人時代を語りました。
さらに車椅子になって非常勤で母校・金沢美大時代との思い出から、
もう一度、先生の作品から学んできたことを整理できました。
また、何よりも、先生のご子息氏とすっかり意気投合して、
学生運動の頃の金沢美大での先生のことから、
私が相当先生には鬱陶しい存在の学生であったかを話し合いました。
彼から、本当に懐かしき現代の「民藝」という雑誌をいただきました。
そして、私は大きな危機感を持ってしまいました。
現代、民藝を語るにあたってこのような評論や言説が行われていては、
あの「民藝論」の本質は確実に抹消されてしまいます。
それこそ、 
NHK番組で「見立て」の軽薄過ぎる低能力性と余りにも同一だと
私は指摘しておきます。
柳宗悦の「民藝論」を
確実に読み取った評論言説が無残に排除されています。
私はまず、デザイナーとして、
また柳宗理の直系の弟子として見逃すことはできません。
私は勿論、柳宗悦の「民藝」全てを理解しているわけではありませんが、
柳宗悦を父としてモダンデザインの先駆者だった柳先生が
きっと当時は押しつぶされまいとされたデザイン姿勢を思い出します。
少なからず、民藝を愛くるしいと言い切ること(その軽さ)も、
私には許しがたき言説です。軽薄であっても重力感が必要です。
まして「かわいい民藝」などは、「民藝」ではありえないのです。
世界中馬鹿騒ぎで「kawaiiが売れる」ならそうすればいいでしょう。
kawaiiという軽やかさも現代は必要かも知れません。
でも柳宗理先生はカンカンに怒っているでしょう。
しかし、その国際性には重力感は残存させるべきことです。
もっと知るべきは「かわいい」と「美しい」という形容詞には、
「きれい」という形容動詞が介在しているのです。
柳宗悦が形容詞の扱いにどれほど慎重であり、
それだけに、柳宗玄先生は「美と義と善」を語り、
柳宗理先生がどこまで徹底して、民藝とデザインを対決させ、
学生だった私には「用と美」へ、私は引き受けた5つの言葉があります。
自分のデザインを決定されていたかを私は語り次ぎます。
それは、現代の「民藝」は、「民芸」=土産物ではなくて、
日本美学の先陣で、デザインから語らなければならないからです。
5つの言葉で、デザインが用と美を民藝に差し向けた詳説を
私は講義していくつもりです。


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6月8日川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     6月 8th, 2015  Posted 12:00 AM

6月8日 先勝(乙卯)

私にとって喧嘩は、
私の信念、その正当性を確認、
その行為である。

行為であるからこそ、
美しさが必要である。
なぜなら、美・義・善は全て
基本が美しさである。

川崎和男「喧嘩道」


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『資本主義からの逃走』
   「ビジネスモデルをデザインモデルにするために」


   


     11月 22nd, 2010  Posted 12:00 AM

創る・探る=モデル
モデルには二つあります。
「創るモデル」と「探るモデル」です。
デザイン手法は、創って探る、探って創るために、
その両方を往復思量する模型・モックアップモデルで検討をします。
そして、そのモデルで確認するのは、
 ● 性能が果たせるだろうか、
 ● 効能の効き目はあるだろうか、
 ● この二つがあるから機能が生まれているだろうか、
ともかく、この三つが確約されるかどうかを検証するわけです。
性能・効能・機能の「美しさ」
最終的には、性能・効能・機能が「美しさ」でまとめられて、
その綺麗事が日常生活の暮らしで、現実的な問題解決をしているかどうかです。
それはまさに健康的な社会づくりに向かっているかという綺麗事です。
私はそれが最も重要だと思っています。
さて、ビジネスモデルは経営仮説と収益構造ですから、
効能があるかどうか、効能があるという仮説です。
そして性能として数値的な確実さが回収できる経営の確約がビジネスモデルです。
したがって、そのモデルが「美しい」とか
「社会的に義であり善である」ということは、経営手法からははずされています。
ビジネスモデルに経営哲学は無い
ビジネスモデルの経営哲学に欠落しているのは、
美しさ=美学と正しさ=倫理性だったと思います。
もし、経営哲学があったなら、納税すら無視するということはありえないのです。
しかし、現代の景気=不況を言い訳にして、
「納税義務放棄」する企業論理は犯罪ですらあるわけです。
もし、納税できない、収益構造でのprofitは自分たち企業内で独占して、
企業が社会的に存在していくための義務放棄はあってはならないのです。
不況ゆえに企業倒産するというのは、経営哲学の根本を見直すべきでしょう。
ビジネスデザインモデルの綺麗事
経営仮説と収益構造は、
本来は「美・義・善」ある存在性のある企業かどうかが基盤であったのです。
ビジネスモデルにデザインという視座と、
デザインの視界にそのモデルがあるかどうかが現代、試されているのです。
当然、ビジネスモデルで産出と算出される「商品」には、
「美しさ」と「正しさ」を、私は綺麗事として求めています。
そんな綺麗事を企業家に主張していきます。
そんな単純明快なことすら理解も行動もできない企業家に、
デザインは理解不能だということをいやというほど体験してきました。


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『資本主義からの逃走』
   「ビジネスモデルの再検証にデザインを」


   


     11月 21st, 2010  Posted 12:00 AM

経営仮説+収益構造
「ビジネスモデル」、簡潔には二つの要素です。
ビジネスモデル=経営仮説+収益構造。
そして、「モデル」という言葉があるのならば、
一般的なモデルの意味には、「創るモデル」と「探るモデル」があるということです。
「創るモデル」というのは、造形的「模型」や美術表現の「対象」になります。
「探るモデル」というのは、科学的な「対象」や仮説性を含んだ理論ということです。
デザインでのモデルは「モックアップモデル」という「模型」です。
したがって、モデルに対するビジネス対象は経営仮説=収益の可能性+経済的効果となる、
投資効果の模型を、次のように考えることだと述べました。
モデルの分類

   ■ 単純化モデル=対象が複雑なときに、単純化を探ること
   ■ 構成化モデル=成り立ちや構造を想像力を駆使すること
   ■ 近似化モデル=単純化してその構成が対象との近似性の有無
   ■ 同型化モデル=物理的・数学的あるいは文学的な同等性の有無
   ■ 相似化モデル=一目で分かりやすいように巨大化or縮小化

以上が、モデル=対象を把握する手かがりとしての論理化や視覚化ということになります。
そうして、あくまでもビジネス=経営という立場で、
投資する対象に対する収益可能性の仮説化という論理と具体性がビジネスモデルという呼称です。
「倫理性」・「美学性」
ところが、この呼称ゆえに派生してくる問題がいとも簡単に忘れられる傾向があります。
特にビジネスという要因性・変動性では起こりがちであるということです。
とりわけ、ビジネスは景気循環によって、大きな変位や変動があります。
この変動性ゆえに、好景気や不景気・不況は、収益仮説などを一辺に破壊することがあります。
この破壊を遮断できる人間性、人為的な正義は「倫理性」と「美学性」です。
デザインにとって不可欠なことは「倫理性」+「美学性」だと私は考えてきました。
倫理性+美学性=美・義・善の社会的な価値、つまり「恩恵」あるいは「利得」=benefitです。
ビジネスデザインモデル
デザインが究極目指しているのは、「美しい」という綺麗事であり、
ウソ・ホントや損・得や好き・嫌いではありません。社会的な善悪判断の価値観です。
それを社会的な「効能」、すなわち恩恵=benefitに他なりません。
したがって、私はデザイナーが関与することで、
ビジネスモデルをビジネスデザインモデルにしていく必然性を主張しています。
「美しい」というだけの価値は、profitもbenefitも超越しているものと確信しています。
この確信やデザインへの信頼が、
「何がモデル=模型であり、対象なのか」をあらためて再検証する動機になるものと考えています。


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