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Posts Tagged ‘第二次世界大戦後’


『資本主義からの逃走』
    「日本人の『人権』勘違い」


   


     12月 11th, 2010  Posted 12:00 AM

基本的人権
「基本的人権」、これが日本での呼称です。
「基本権」、「人権」、ともに日本で
これらが認識されて法的整備になっていったのは
第二次世界大戦後でした。
英国でのマグナカルタ以来、
特にキリスト教による自然権という考え方が最大の影響を与えた結果でした。
けれども、何世紀にもわたって、人間の必然的権利は議論を重ねられてきました。
わが国は、敗戦という結果がこの憲章を改めて社会的な慣習化に加えました。
したがって、「基本権」・「人権」という言葉まで創出しなければなりませんでした。
結果、日本国憲法第3章の第10条から13条にまとめられました。
私はこの第3章のタイトルに「人権」のコンセプトが包含されていると判断しています。
それは「国民の権利及び義務」です。
つまり、「人権」を主張することと保護されることの幅が収まっているとものと判断します。
「人権」という新しい言葉は、タイトル通り「権利と義務」のあり方だと私は思います。
ところが、敗戦のトラウマのまま、日本人は、「人権」をはき違えているようです。
敗戦トラウマとしての人権勘違い
個人的=私の権利だけを主張し、義務を棚上げにしていたり、
集団的=公の権利を権力と勘違いをし、義務は放棄ということです。
日本人は被害者の権利よりも加害者の権利を重要視しがちです。
加害者には義務をつくして後、権利の保全があるべきことが、
時に「人権弁護士」というのは、権利の主張のみを繰り返しています。
これは敗戦のトラウマだと私は思わざるをえません。
敗れし者には、義務は課せられますが、権利を認めない風潮に囚われています。
このトラウマをひきずっているのです。
「人権」とは、元来、「義務」を尽くしてのみ、
「権利」が社会権として成立することを忘れてしまっているようです。
「義務」を尽くさすずして「権利」はありえないことをもう一度確認するべきだと考える次第です。
日本人が「平和ぼけ」と自身が気づきながらも、
自虐性に沈殿しているのは、義務果たさずして、権利=「人権」はありえないのです。
この大きな勘違いを早く是正すべきだと私は思っています。


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『資本主義からの逃走』
     「人権と情報のアポリア」


   


     12月 9th, 2010  Posted 12:34 AM

基本的人権
1215年、マグナカルタ。
人間にはこの権利があるという憲章です。
英国で定められました。
日本にこの憲章を基本にするためには新しい言葉が必要でした。
「基本的人権」という言葉を創らなければならなかったのです。
「基本権」・「人権」は、自然権として人間には備わっているということを
日本が受け入れたのは第二次世界大戦後でした。
英国ではすでに「人権」は基本権と言われてから、
この権利は、時代と社会に対応して変遷することで、
「権利」という共同議決の内容は充実してきたことです。
これは人類の知恵の結晶だったと思います。
しかし、わが国では「人権」という言葉すら創りださなければなりませんでした。
そして、現代、「基本的人権」の形式・内容・その質はさらに進歩していますが、
「人権情報」となってきてからはアポリアになってきていると私は考え込んでしまいます。
人権の私的公的アポリア性
私は、憲章化するために日本ではあらためてこの言葉が必要だったというより、
すでに「私」と「公」という漢字に基本権という考え方は存在していたと判断していますが、
すでに国際的議決化が困難=アポリア化しているということです。
「人権」はわかりやすく言ってしまえば、
私事ではプライバシーであり、公的にはパブリックが私事をどう扱っていくかということです。
さすがにこの人間の「基本権」が英国で気づきそれ以後発展進歩してきたことで、
プライバシーという言葉の定義も随分と複雑になりました。以前、このことについてまとめました。
それは、人権を情報としてとらえ直さなければならない時代に
私たちは生きるようになったからです。
このアポリア性に踏み込んでいきたいと考えています。


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『資本主義からの逃走』
    「抑止力なんて!怒っている地球・原子力について」


   


     8月 8th, 2010  Posted 12:00 AM

わが国の抑止力は何?
軍事力は未だに人類と国家、その国際関係での「力学」になっています。
そして、その軍事力を最大に保証しているのが,
「原子爆弾」を保有しているかどうかという幼稚すぎる決め手です。
日本は甚大な被爆体験をさせられて敗戦国家となりました。
被爆国家としての怒りの主張もせず曖昧国家65年目を迎えました。
「持たず、作らず、持ち込まさず」という三原則を「原子力の軍事利用」を自己規定してきました。
そして、国家的な「抑止力」は、
米国との安全保障条約・在日米軍基地・自衛隊の専守防衛でさらに自己規制を守り抜いてきました。
島国であることも幸いしています。
しかし、第二次世界大戦後、地球上には「原爆保有」と「紛争」は連綿としています。
民族対決・宗教対立は歴然です。
テロリスト国家は「原爆保有」を今やことさらに公然としています。
日本という国家は、戦後の経済力によって、
自己規制で「原子力」との距離感を、
実際は国内に賛同と反対を抱きながらも決して明快にすることなく、
「原子力への曖昧さ」に委ねてきました。
すでに、国家経済は没落の道程にあります。
日本の何が「抑止力」なのでしょうか?。
そして国際関係での「軍事的力学性」に専守防衛の意義があるのでしょうか?。
先進的原子力技術
私は、「原子力技術の高密度な先進性」を「情報戦略化」するべきだと考えています。
何も、「原爆」で武装しようというのではありません。
もし、必要とあれば、
「日本の原子力技術の最先端性は原爆をすぐに準備できること」を誇示し訴求することです。
原子力反対派からは非難集中のことと推測します。
それでも、私は「原子力」利用は、発電・水源確保・CO2削減、環境の保全化をめざします。
その「原子力利用技術がナンバーワン国家」であることで、
古典的な「抑止力」を確保しておくことです。この幼稚さに呆れながらも・・・・。
治安も失われ、礼節も喪失し、倫理観も乱れ、
少子国家、高齢国家のわが国の「存続」、
その議論に「原子力技術」機軸にすることを、絶対に、タブーにすることは大きな間違いです。
怒りの地球
地球の全自然は怒っているのです。
それが昨今の天災だと素直に受け取るべきでしょう。
「抑止力」なんてことで対立している人類=人間そのものを
この地球に生かしておいてはくれなくなる日がきっと来ると思っています。


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