kazuo kawasaki's official blog

Posts Tagged ‘知覚’


『資本主義からの逃走』
   「やはり「かたち」に、これがデザインの鉄則」


   


     11月 30th, 2010  Posted 12:00 AM

「デザイン=かたち」
私はデザイナー、死ぬまで言い続けるでしょう。
そしてデザインしたモノに「かたち」を与えます。
必ずや、「デザイン=かたち」の世界観に自分の存在があります。
しかも「かたち」という「カタチ」はありえないことが肝要です。
知覚から認識
「かたち」はまずは視覚化が大前提です。
次に「触覚化」できれば、見て触って確実に知覚できます。
知覚によってこそ、認識できるわけです。
私は、「聴覚のためのモノづくり=機器デザイン」から、
デザイナーという職能家になりました。
若いときには、「聴く・聞くカタチ」があってほしい。
それは音楽というかたちでは無いモノを追いかけてきました。
そのおかげで、「きく・かたち」=聴覚という知覚を体験する幸運に恵まれ、
今なお、いわゆるHi-Fi機器で日常生活を包み込んでいます。
だから、Hi-Fi機器には、ほとんど他人には分かってもらえない領域や機器世界観があります。
この世界観と生きてきたことも最高の幸せに恵まれていると思っています。
したがって、見る・触る・聴くカタチが「かたち」には在ると確信しています。
知覚・認識という実感は
ということで、突然、電話、それもケータイデンワのかたちを取り出すことを思いつきました。
その知覚性が認識に至ることは、現在の大きな「かたち」認識のことにつながっています。
ともかく、このことを厳密に熟考すれば、
大変に重大なことを知覚・認識、すなわち「人間として生きている実感」、
その世界観に至るだろうと予想するのです。
結論を急ぎたいのですが、
とても大変に大きな誤解を文意に書き残しそうなので、ここまでとしておきます。
結局は、「デザインするかたち」と「かたちとしてデザイン」されたこと、
どっちが先かということでもあるのですが・・・。


目次を見る

『資本主義からの逃走』
   「幻想には理想主義がかすかに動いている」


   


     6月 9th, 2010  Posted 12:34 AM

幻想
幻想の中に埋没していたいと思います。
いや、幻想の中で生きられるならとさえ願うほどです。
しかし、幻想と妄想は、まったく別次元だということは、
完全に理解しておかなければなりません。
ただ、日常会話的な場面で、
「これは妄想にすぎないけれど」と言うのは、
ほとんど冗談的な意味合いであることは断っておかなければなりません。
なぜなら、厳密に妄想というのは「病的」、いや精神病に他なりません。
幻想交響曲
「幻想交響曲」「というのがあります。
ベルリオーズの作曲であり、彼の代表作というよりも、
この曲によって、彼の存在が歴史的になったと思っています。
この交響曲の第一楽章が、「夢・希望」だったはずです。
私は、デザイン、あるいはデザイン的発想、デザイン効果は、
「夢」と「希望」をめざしていることをまったく疑うことなく、
強い確信の元に、デザイナーという職能であったことに満足しています。
妄想としての資本論
さて、幻想か妄想かの議論が「資本論」から「資本主義」に向けられてきたことは、
資本論に対する批判から肯定の間にありました。
少なからず、私には「資本論」から導出された発想にには妄想があったものと考える側の人間です。
しかし、「資本主義」の全面的賛同、疑念無き肯定は、
デザイナーという職能と経験から、
どこかで「幻想」としていたのかもしれません。
この賛同や肯定も、実は、か細くて揺れ動いたからだと、
つくづく思うようになってきました。
たとえば、「妄想」を精神病的に分類する方法で、
「幻想知覚」
「幻想着想」
「幻想気分」
知覚としての幻想・着想としての幻想・気分としての幻想と考えてみれば、
明らかに、デザインには気分性、着想性、そして知覚性があります。
しかし、この性情には決して「病的な確信」に寄りすがって、
「訂正不能」は起こらないということです。
「訂正不能」
幻想ということだから、気分も、着想も、知覚も、
常に訂正することに呪縛されてはいないということになります。
私が、デザインに幻想が不可欠というのは、
デザインは妄想に陥っては成立はしないという確信を携えてきたからです。
しかし、「資本論」が危ういのは、資本主義への否定論には、
知覚的にも、着想的にも、気分的にも、
「訂正不能性」がこれまで数多く存在していたことです。
けれども、今、私はここで、
「資本主義」への訂正を逃走という言葉にすることが可能です。


目次を見る