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Posts Tagged ‘瞑想’


「百聞と一見、百見と一聞」


   


     6月 24th, 2011  Posted 1:04 AM

「百聞は一見にしかず」。
古来、日本の警句です。
それなら、この真逆はどうでしょう。
色々聞き回るよりも、
一瞥で分かってしまうこと。
色んな所を駆け回るより、
一言聞けばそれで十分に理解可能になることの有無です。
無論、理解対象の区別は先立ちますが、
私は、これは双方とも同じ事だと結論づけています。
しかしむしろ、盲目の人は、聞くだけで十分であり、
全てを見つめて知り尽くしているはずのことが、
健常者の人が見えていない=認識不可能に陥っている方が多いです。
かって、「まちづくりのための歩いて観察」など、
そんなイベントでは、
白杖の人が、あそこの細道は救急車が入れないとか、
あの道路の側溝には落ち葉が溜まるとかを発見。
だから、私はこんなイベントには必ず、
盲目の人が絶対に不可欠という発言をしてきました。
私は、車椅子ですから、
視界が「座った位置で視線高」が一定です。
むしろ、地面や床の方がよく見えてしまいます。
だから常に空を仰ぎ見ることを習慣にしています。
おそらく、座っている位置と立っている位置では、
空気の流れすら感じ取る大きな違いがあるはずです。
今やTVで見聞することで情報要素は膨大です。
しかし、TVよりもラジオを聴くことの方が
かえって情報要素に対して、
詳細な認識感覚が研鑽されることが多い、
と私は確信しています。
結局人間の感性の振幅巾は個性差や経験差はありますが、
「見る」こと・「聞く」こと=see・hear
「観る」こと・「聴く」こと=watch・listen
この同価値性にする感覚は鍛錬が必要だと思います。
座禅とか瞑想とかメディテーションは、
その手法の一つであることは確かです。
私は、適うことなら、五感を超越し、
決して迷信でもなく占いや予知能力でもない、
いわゆる第六感の世界にすぐにワープしたい限りです。
今、私の方法にはラジオに対して、聞くというより、
聴くということの大切さを強く感じている次第です。
早い話が、TVやwebsiteで「視る」ことを、
「聴く・聞く」という翻訳によって精査している最中です。

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『資本主義からの逃走』
   「デザイン手法の直観はつつましさを知ること」


   


     7月 5th, 2010  Posted 12:00 AM

コンセプト不要
「空」・「無」というのは、
正直、日本の「知らなければならない」仏教的素養。
となれば、私は、教条的で、観自在性すら剥奪されそうだと思っています。
しかし、これまで「デザイン手法」あるいは「デザイン手続き」と言えば、
「コンセプトづくり」は手法中の決定打です。
私は、「コンセプト不要」と断言しました。
即、直観が造形を招き寄せることは、
デザイナーになって以来、幾たびも私にある種の「啓示」を与えてくれました。
「啓示」のごとく、ひらめいてくれたのです。
饒舌にならず
「コンセプト不要」と主張することは、「つつましさ」も無いと評価されるでしょう。
しかし、「コンセプト」は、言葉に、それも饒舌に語り伝えなければなりません。
「つつましく、饒舌にならず」ということを、
欧米的態度として私たちもその態度にならなければいけない、
そのことこそ教条的に受け入れてきたのかもしれません。
私は、「コンセプト不要」を断言するために、その準備はしてきたつもりです。
「言語道断」
「言語道断」という言葉でした。
「言葉、謂わず謂わず(言葉、道断道断)」道元です。
つまり、「言葉にはもうならない」、
「言葉ではとても表現できない」ということを喝破した観念=想いの長けです。
コンセプト即・概念では表現できないこと。
中核に言葉=周縁で取り囲んだコンセプトは虚しいだけです。
中核にコンセプト=周縁は言葉で納得しようというのは虚無です。
「言語道断」ゆえにぎりぎり「かたち」で表す。
当然、そのかたちが生み出し、表現する性能と存在の効能、
これらが統合化されて機能をデザインする。
こういうことから再考しようというスローガンが「言語道断」でした。
さて、ここからは、読者諸兄の「つつましさ」に預けなければなりません。
これまで、ほとんどデザイン手法の核心だったコンセプトから、
コンセプト無くして、デザイン無しとする慣習から決別できないならば、
「勝手に、コンセプト云々を!」です。
つつましさの使い勝手
私は、提案します。主張します。
「コンセプトから離脱を」
「コンセプトづくりと決別を」と!
あなたが「コンセプトを投げ出すだけの直観、その勝手さ」に委ねます。
私が啓示されているのは、「つつましさ」に使い勝手があるということです。
「使い勝手のあるつつましさ」に、
今、日本人デザイナーは、瞑想してでもそこからの「直観」を求めるべきではないでしょうか。
「コンセプト」から「デザイン」する手法では、
つつましさには近づけないことを妄信していいかもしれません。


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『資本主義からの逃走』
 「幻想には常に憑依してくる妄想は整理するべし」


   


     6月 10th, 2010  Posted 12:50 AM

幻想に憑依する妄想
幻想である夢や希望は、少なからず、理想主義です。
だから、デザインに幻想は不可欠だと主張しています。
しかし、幻想の理想主義は「とてもか細い=幻という意味」のごとくです。
したがって、このか細さは憑依されるのです。
まさしく幻想が妄想となる傾向が張り付いています。
妄想の分類
妄想をいくつかに分類すると、
自分では幻想と思い込んでいるけれども、
本当は妄想だったという「客観的な認識」よって、
訂正を柔軟に可能にしておくことが肝要かつ寛容だと考えてきました。
● 関係妄想
● 被害妄想
■ 被毒妄想
■ 追跡妄想
■ 注査妄想
■ 嫉妬妄想
● 誇大妄想
■ 血統妄想
■ 発明妄想
■ 心気妄想
■ 罪業妄想
■ 微少妄想
● 憑依妄想
このように妄想は整理することができます。
この整理感覚を客観性にしておくことで、幻想と妄想の線引きをすることが、
「訂正の可能性」を確認できる「自分」、
その自己認識で解放することができるのだと私は思ってきました。
「瞑想」
この自己認識を図る手法に「瞑想」=座禅などが知恵だったのだと納得しています。
幻想と瞑想で、妄想かどうかを確かめることこそ、
資本論への肯定が資本主義の否定という妄想ではなく、
さらにそれなら、
資本主義から逃走あるいは解放されるという幻想に、
実は分類されている妄想に入り込んでいること、
そのことを最も重要に客観視しておくべきだと考えています。


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