「デザインは語れるか・デザイン評論の有無」
7月 10th, 2011 Posted 12:00 AM
たかがデザイン。
私はデザイナーとして、
これまで受けてきたある種の侮蔑。
しかし、されどデザインの力。
私の自負心とこの職能ゆえの幸運さです。
デザイナーという職能にも色々あります。
そして、デザイン=外観造形という印象は今なお存続。
したがって、デザイン評論がありうるかということです。
私は、一人のデザイナー・倉俣史朗氏を7年間、
詳細に分析したことがあります。
デザイナーですら、デザインは解釈するものではない、
堂々と言い放つ人がいますが、
そうしたデザイナーの作品は必ず消滅していきます。
私はデザインしたモノには、
やはり、意味することと意味されることがある、
これは記号論的な言い方を借用していますが、
7年間、一人の作品を分析してわかったことは、
本人がそこまで熟慮はしていなかったかも知れないこと、
それが作品の「永続的な存在性」を担保化しています。
したがって、私自身、自分のデザインするモノ、
そのモノが現代性と歴史性を必ず纏わないモノは、
この消費社会では消費どころか、
消滅・消尽すると結論づけています。
たとえば、幸いにも私はオーディオ商品に関わりました。
この世界は、ある意味ではマニアックな世界観や、
製品の存在性が仔細に問われます。
だから、30年前のデザインしたモノが今も残っています。
明らかにそうしたモノは背景となるモノ語りがあります。
モノ語り=物語は、アフォーダンスの持続性、
そう断言してもいいでしょう。
「倉俣史朗デザイン・夢の形見に」を出版しましたから、
私自身が、この著作から三作品を選んで、
プレゼンテーション手法も新たに評論をするつもりです。
私はデザイナーとして、
これまで受けてきたある種の侮蔑。
しかし、されどデザインの力。
私の自負心とこの職能ゆえの幸運さです。
デザイナーという職能にも色々あります。
そして、デザイン=外観造形という印象は今なお存続。
したがって、デザイン評論がありうるかということです。
私は、一人のデザイナー・倉俣史朗氏を7年間、
詳細に分析したことがあります。
デザイナーですら、デザインは解釈するものではない、
堂々と言い放つ人がいますが、
そうしたデザイナーの作品は必ず消滅していきます。
私はデザインしたモノには、
やはり、意味することと意味されることがある、
これは記号論的な言い方を借用していますが、
7年間、一人の作品を分析してわかったことは、
本人がそこまで熟慮はしていなかったかも知れないこと、
それが作品の「永続的な存在性」を担保化しています。
したがって、私自身、自分のデザインするモノ、
そのモノが現代性と歴史性を必ず纏わないモノは、
この消費社会では消費どころか、
消滅・消尽すると結論づけています。
たとえば、幸いにも私はオーディオ商品に関わりました。
この世界は、ある意味ではマニアックな世界観や、
製品の存在性が仔細に問われます。
だから、30年前のデザインしたモノが今も残っています。
明らかにそうしたモノは背景となるモノ語りがあります。
モノ語り=物語は、アフォーダンスの持続性、
そう断言してもいいでしょう。
「倉俣史朗デザイン・夢の形見に」を出版しましたから、
私自身が、この著作から三作品を選んで、
プレゼンテーション手法も新たに評論をするつもりです。
Tags: 「倉俣史朗デザイン・夢の形見に」, アフォーダンスの持続性, デザイナー・倉俣史朗氏, デザインの力, デザイン評論, モノ語り, 外観造形, 意味されること, 意味すること, 永続的な存在性, 消費社会, 物語, 記号論
Posted in 祈望から企望へ
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