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「災難犠牲=幸不幸の原則なり」


   


     7月 30th, 2011  Posted 12:00 AM

災難がふりかかれば、
多大な犠牲を余儀なくされます。
天災さらに人災、
いずれも不幸極まりないことです。
この不幸は幸運と幸福の反極にあります。
東洋思想では「幸不幸」が古代すでに設定と認識されていました。
私たちが生きていることの証として求めるのは、幸運と幸福です。

しかし、「幸」という文字漢字には、
人間の不自由さがすでに象形化されていました。
この漢字は、「両手を縛られた形象」になっていることです。
人間は生まれながらにして「幸」の状況であることを知る存在です。
まさに、この不自由さとは「死」は平等であり、
ここから人間は逃れることは全く不可能だということです。
したがって「幸不幸」の状況が区分されます。
それは崖から誰か、おそらく神という存在があれば、
神は突き落とします。
結果、生きながらえればこれを「幸」と呼び、
突き落とされて死を迎えれば「不幸」ということは定義されていました。
「幸不幸」を決定づけている存在を私たちは知ることができません。
したがって、生きながらえれれば「幸運」だったということです。
しかし、死を迎える不幸さとは背中合わせだということになります。
現在、大震災という天災は「幸不幸」を明確に区分しました。
ところが原発事故はまだ連続しなおかつ放射能の影響は、
日毎にその拡大と不幸状況を増大し続けています。
この事態にあって不幸になる予測はさらに想像力の中で、
常に最悪不幸を予測しておかなければなりません。
しかし、予知可能な最悪状況=両手をさらに縛り上げられていること、
この状況から脱出する知恵をめぐらし、
「幸不幸」に決着をつけることが人間には可能なはずです。
特に放射能のそれこそ想定外の被災影響の拡大から、
どのように私たちは不幸を幸に変換できるのかが突きつけられています。
毎日、牛肉はすでに食べることかなわずになりつつあります。
ホットスポットの拡大は想像力を超えています。
立ち上げること不可能かもしれないほど、
多大な犠牲=不幸の中に閉じ込められました。
歴史はすべからく不幸状況の連鎖煉獄にあったと言えるでしょう。
しかし、私たちは多大な犠牲への鎮魂を勇気に変えて、
こうした事態を乗り越えてきたから幸運と幸福を一時でも、
手に入れることができたのです。
原発事故の反省から、さらにこの事故原因を辿ることで、
新たな幸運と幸福の手立てを見い出す存在が「生ある人間」です。
「幸不幸」の狭間で何を学び取るかということになります。

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