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Posts Tagged ‘差’


「資本主義からの逃走」
  「別々の詳細から同一性を判断評価」


   


     2月 23rd, 2011  Posted 12:00 AM

「別」とは関節を切り分けること
「同一性」・対・「差異性」の見方です。
私はこの判断には三つの見方を提示しています。
 ● 差別
 ● 区別
 ● 分別
この三つには、「別」というのが共通語です。
「別」を確認しておきます。
この文字は骨+刃物を組み合わせた形象になっています。
「関節を切り分ける」という原意は、
つなぎ合っている箇所に刃物を入れて切り分けることを意味しています。

■「差」
この文字は、稲穂なりの長さなどがばらばらのことです。
よって、長短やその違いを判断することになりますから、
「差別」というのは、明らかに優位性や差違性の判断であり、
その判断行為そのままの表出が「差別する」という行動になってしまうことです。

■「区」
本来の文字は「區」であり、配置されているものの差違と差異を
判断して識別することです。
したがって、違いを判断する以前の行為として、
この区分ということが識別の前提になっています。区分する識別力です。

■「分」
これにも刀があります。行為は切り分けた結果のことになりますが、
二択選別ということを最もこの文字は表しています。

分別が解答を導く
「分解して判断」ということは、
明らかに「解答」を求めていく判断が要請されているということです。
さて、この三つに「差」・「区」・「分」+「別」ということで、
それぞれの識別結果から「同一性」の再確認行為が導き出されることが明らかになります。
すなわち、差別は違いをただ明確にして、その違いをさらに批評的な攻撃にしかねません。
これは暴力につながります。
区別は配置して見比べる手がかりにすぎません。ただし、区別する前提の知識が必要です。
しかし、分別は切り分けて分解したことから判断としての解答を見つけ出すことになるわけです。
よって、「同一性」の判断評価は「分別」によってこそ、
評価による確認の可能性、つまり、何が同一性かという解答にたどりつくことになります。


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『資本主義からの逃走』
 「資本、無なり。  されど無料にて主義の正しさあり」


   


     1月 31st, 2010  Posted 6:00 AM

「ことば」ありきの資本

資本は、土地であり、商品であり、
そしてそのメディアとしての貨幣であったり、
(メディアとして、というのは現代語だからですが)
極端には、命も資本というシステム=保険まで、
人間、資本主義は創生させてきました。
土地・商品・貨幣・・・命はまず「ことば」でした。
やはり、資本のはじめに「ことば」ありきでした。
なぜなら、
「資本論」も「ことば」ゆえに、
「ことば」資本を差異化、差別化の「差」に、
価値を乗せることや、価値を生じさせる、
そんなことができたものと考えています。
これはすべてATOMの存在=有理性の世界でした。
たとえ土地を最大にしようが、
商品販売での利潤を得ようが、
人間の存在は、絶対的に「無」となります。
もっと単純明快に断言すれば、「財成した人」も、
無=死
死を迎えます。
死は、いのちを無とします。
命が無となることは、避けられないわけです。
「去らぬ別れ」、結局、死して後、
資本は残ります。
資本の、その運用が入れ替わるだけです。
そこで、「資本は無に帰す」と考えることは、
決して「無理」ではありません。
「無理」という「有理性」から利益獲得すら、
「無」とすることへの抵抗感が消滅します。
消滅というより、利益や利潤から解放されます。
自由=無料

無料=自由を直視

自由=freeになったのです。
その経験が、資本主義社会で蓄積されました。
free=無料は、「正しさ」という力を持ちました。
人間は、自由でありそれが「正しい」こととして、
社会の基盤、意志の基盤、認識の基盤ということを
無理することなく、有理であると確信できれば、
人間は、そんな社会や時代に、
「死=無」となることを納得して「生きる」でしょう。
「無料」の尊大さを直視する時代になってきました。


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