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Posts Tagged ‘家康’


『京都に隠れ家あり』


   


     10月 24th, 2017  Posted 12:00 AM

京都は私にとってはやはり日本の代表都市だと思います。
東京は私には首都と言っても時代流行の軽薄な都会でしかありません。
日本の文化を支えてきたのは、越前=福井県と美濃=岐阜県であり、
これが文明を伝統化して文化を支援したというのが私の信念です。
なぜなら、京都も奈良も、根本的な文化を支えてきた労働の里=鄙は、
福井県と岐阜県であることは間違いありません。
なぜなら、刀剣、和紙、漆器、陶器は、この二つがあればこそです。
私の母方は、宮大工でありそれは紀州から京都に住み、
関ヶ原にて秀吉と家康に分断され、負けた一族は逃げて越前のもっと鄙に
隠れ住むことでした。
奈良には「お水おくり」があり、京都には「鯖街道」があるがごとく、
都文化を支えていたと言い切れます。
そして私自身、ワイフは京都生まれ京都育ち。
よって、毎月、映画を観ることにして京都には滞在します。
私は身しょう者対応が出来ているのは、日本では京都と金沢であり、
それがなんとも文化を最もシンボル化していると判断しているのです。
そして、これは京都の隠れ家でもあり、スタッフに先般、初めて見せました。
正直、私は家という住処意識は全くありませんから、
これは私の一応隠れ家ですが、ほとんどがいずれはワイフの住処でしょう。
この家の設計は友人の作品でもありますが、
手づくり感を大事にする友人建築家と工業製品感が当然という私、
この対立は、設計から施工にあたって大変な論議をしたものです。
この家が建つ前には、ほとんどが空き地でしたが、
今ではすっかりと住宅地になっていますが、
造形的には平屋建てのたたずまいは美しいと思います。
私は建築デザインよりも工業デザインがどれほど繊細で難しいかを存分熟知。
日本の住宅建築は、工業デザインが主体であるべきと思っています。
だから日本の住宅建築で最も軽視されてきたのは、
耐震性や土砂災害であり、それ以上に、
すべての住宅にはシェルターが必須だったことです。
「家」のパターン・ランゲージで言えば、
日本の住宅には絶対にあらゆる自然災害と防衛としてのシェルターは、
本当に大切だったと今は特にそう思います。

* 「スイス政府防災マニュアルは憲法の具体解説」
* 「青い空は動くのです、しかも晩夏の空にアラート不要」
* 『観光都市はエスノセントリズムから解放されること』
* 「車とエレベーター」
* 『「森羅万象悉く紙なり」とは神と死に直結している』


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「金平糖なればこその品格に・・・」


   


     9月 21st, 2012  Posted 12:00 AM

日本のお菓子で私はもっとも品格がある存在、
それは「金平糖」だと思っています。
これは、カステラともどもポルトガルから入ってきたお菓子です。
当時、この「甘さ」を知った日本人は相当にビックリしたと想像します。
私にとっても、飴やキャンディどころではなく、
大きさといい、甘さといい、これほど品ある物はありません。
この金平糖を見る度に思い起こすのは、織田信長と寺田寅彦です。
なんといっても、織田信長系の物語りで金平糖の記述が無かったら
信用しないことにしています。
私が最も尊敬と敬愛する橋本左内も大好きだったと伝えられています。
この物語りが私の嗜好性を決定しているのでしょう。
特に織田信長は、
きっとガラス容器に収めていたに違いないとさえ思っているほどです。
「鳴かぬなら殺してしまえ、時鳥」が、私の性格そのものです。
しかし、秀吉や家康の、鳴かせてみせようとか鳴くまで待とうは、
したたかでねちっこくていやらしいとさえ私は思っています。
このところ、竹島と韓国、尖閣諸島と中国、
この領土問題が大事件の様相になってきました。
いづれ私なりの意見も明確にまとめておきたいと思っています。
だから、最近は、次の中国の代表「習近平」とは、
ちょっと語呂が似ているから金平糖を身近に感じているのですが、
これはほとんど親父ギャグでしかありません・・・。
さて、私自身はほとんど間食をしません。
一人っ子ゆえに、間食は禁じられていましたから
そんなふうに育ってしまったのでしょう。
金平糖は京都へ行けば必ず買い求め、
チュッパチャップスとチョコレートだけは常備お菓子です。
ともかく、ワイフには私の仏前には
必ず金平糖は必需品だと言い残しています。


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「長谷川等伯と狩野派の対決から」


   


     11月 1st, 2011  Posted 12:00 AM

長谷川等伯には心をひかれています。

だからこれまで美術専門誌で彼への想いを依頼されて、
何度か書いてきたことがあります。
狩野派=安土桃山時代に、
権勢をふるっていた中央画壇とその体制に、
果敢に挑戦して画法革新を具現化していた田舎絵師等伯は
ここ数年ブームになっています。
出光美術館では、ずばり、等伯と狩野派を対比させる
展覧会を開催しています。
なんとしてもこれは絶対にと思いじっくり鑑賞しました。
これほど多くの観客が訪れながらも静かな展覧会でした。
皆さんが解説をじっくりと読み、
400年前の二つの対決、それなのにお互いの影響ぶりを
堪能されているとても素晴らしい雰囲気の展覧会でした。
長谷川等伯は能登(石川県)七尾から京にて、
大権勢と政治力のある画壇に、静謐な画風で、
狩野派に嫉妬と嫌悪され、
次々と様々な策謀に巻き込まれた画家でした。
画法ひとつでそのような政治力や権謀術策に立ち向かったこと。
私にとってはたまらない魅力があります。
無論、等伯の中国ではほとんど見向かれなかった画法、
「骨法用筆」=輪郭線表現をしないで、
光と大気に対象物を描き出す手法を完成させた画家でした。
狩野派は彼の存在を歴史から抹消させようとするほど彼を敵視しました。
織田信長、秀吉、そして家康という時代は、
画家だけで無く、宮大工や刀鍛冶までも、
パトロンである時の権力者に愚弄させられます。
それでも、「作品」は権力を超越した価値観を、
現代にまで伝えています。
あらためて、等伯・長谷川派と狩野派を見比べられました。
やはり等伯の「骨法用筆」には、権力との闘いなど皆無の静謐さ、
交響曲のアダージョが聴こえてくる印象がありました。
ホテルにもどってからも、展覧会のカタログに読みふけりました。
特に「竹林図」を観ると現代日本からすっかり竹林は消滅しています。
地震国日本に竹林は不可欠でした。
なぜなら、竹林は根が複雑に張り巡らされていて、
地盤を強固にしていたといわれています。
あらためて、水墨画から「やまと絵」までを存分に
楽しむことができました。


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