kazuo kawasaki's official blog

Posts Tagged ‘宇奈月’


『「キスリング」で夢中の頃から登山用品が進化している』


   


     8月 12th, 2018  Posted 12:00 AM

今ではリュックサックと言えば「縦長」であってその形式に私は驚いています。
高校時代には山岳部にいました。
高校ではまず福井県内の石川県と岐阜県の境の山々はすべて踏破しました。
大学に入ると空手部に入りましたが助手の先生が藝大の山岳部だったので、
ともかく、空手部では退部試合に出て、それは全員から殴られました。
が、それがあるから今でも空手部時代の先輩には、信用があります。
大学ではロッククライミングや縦走が主でしたし、
当時は入山手帳に記入をするなんていうのは臆病者でした。
かっては「岳人」という雑誌が最高でした。
ところが今ではそんな雑誌などはワンダーフォーゲルという連中だけです。
そして、決まって「キスリング」というリュックサックでした。
私は、まず、これには段ボールで形を整えて、
両方には、水とガソリンとお餅を入れていきました。
さらにアルミの背負子はとても良かったと思っています。
大学では、常に剣岳の長二郎谷雪渓と源治郎谷雪渓で、
金沢美大、京都芸大、東京藝大と一緒に4年間は40日余り、
最後には個人個人で縦走でした。私は40日の針ノ木岳から直降すれば、
大町からの鉄道で戻ってきました。
なんといっても、この「キスリング」は非常に危険でした。
それこそ、私も白馬岳から不帰岳では、
リュックに重さをとられて、落ちそうになりました。
しかし宇奈月から早月連峰を4日で剣岳のベースに着くには便利でした。
今や車倚子になっても、
登山ツールやホェブス(知らないでしょう)の進化、
テントやツェルトなど、新しいモノが次々と開発されています。
なんといっても、登山靴などの進化は、
これで夏山はいいかも知れないが冬山では絶対に無理だろうと思います。
それくらい、登山用具の進化は進んでいます。


目次を見る

『青春時代の「熊の岩」、もう一度行きたい』


   


     6月 18th, 2017  Posted 11:50 PM

車椅子生活も40年になります。
最近は、山岳系や登山系の雑誌・マガジンをかなり詳細に覧て読みます。
それこそ車椅子生活になって以来は、
絶対に覧ないことにしてきたのですが、
やはり青春時代に最も熱中していた登山・スキー・ロッククライミングは、
本当に驚いてアルピニズムを読んでいると言って良いでしょう。
ともかくこうしたスポーツの用具が全く変わってきました。
ザイル、リュック、ピッケル、登山靴などは、
(そうだよ、これが正しいはずであり、なぜ、あの頃は・・・)という、
この思いがとても強くなってきています。
キスリング=横幅があり、両サイドには400ccの水とガソリン。
これはどう考えても危険極まり無かったと思います。
不帰の岳などは今ではチェーンが急斜面に取り付けられていますが、
私の頃は、ザックの片面が岩肌にひっかかり落下する寸前もありました。
登山靴も現代のは軽量で柔らかく、ピッケルなどはとても短くて、
あれなら確実に雪面でも停止が出来るはず。
私にとっては長治郎雪渓にある熊の岩です。
おそらく今はあの場所や、剣岳真下の剣コルなどではテントなどの設営は
絶対に出来ないことでしょう。
長治郎雪渓のもう少しで剣岳には、テントを張っていて、
源治郎尾根と八峰尾根のクレオパトラノーズなどでは、
源治郎尾根に登ってアップザイレンや、その尾根からのピッケル操作訓練、
八峰尾根ではロッククライミングで6級の岩面で恐怖だらけだったことは、
熊の岩があればこそできたことです。
長治郎雪渓は剣連峰でも最も大きな雪渓ゆえに、
夏スキーも朝方にはミラーフェイスと言われるほどの氷面を滑走できました。
どうして当時は、早月尾根を3泊四日も宇奈月から登山列車、
そして徒歩で何度か嘔吐するほどのリュック7〜8Kg リュク、
そしてメタルスキーを背負い剣岳連峰に入っていたのだろうと思います。
この嘔吐しながら徒歩登山の度に、もう登山は絶対に辞めようと思いつつ、
熊の岩でのテント設営が楽しくて、食料が無くなると、
立山から剣岳の入り口で観光登山客が残していく食料を
金沢美大・東京藝大・京都市芸大で当番で恵んでもらいに行きました。
熊の岩で母の夢を見て、翌日のトレーニングは体調も悪く参加不可能でした。
そうしたら八峰尾根では大落石事故があり、私が参加していれば、
確実に私が遭難だったと言われました。
熊の岩にヘリコプターで行きたいのです。

* 『歩けた頃=スキーに夢中だった時の写真が届いた』
* 『「岳人」が教科書だった時代を思い出す』
* 「トランスジャパンアルプスレース・過酷さの美学」
* 「やっぱり、なぜこれほど落ち着くのだろう」
* 「冒険、してはいけないことになるかも」


目次を見る

『「岳人」が教科書だった時代を思い出す』


   


     7月 25th, 2016  Posted 12:00 AM

封印してきたことがあります。
封印せざるをえない身体的な条件が加わったことでもあります。
それは「登山・ロッククライミング」です。
「登山」は高校時代に山岳部入部から始まりました。
高校時代はほとんど県内の山々、夏は白馬から鉢ヶ岳、後立山縦走を経験。
大学時代は最初は空手部でしたが退部試合に出てボコボコにやられて、
それでも山岳部を創部し、
藝大出身の当時助手の先生からロッククライミングを教わりました。
この「岳人」は高校時代は教科書以上に読んでいました。
だから当然アルピニズムといえばという大学医学部を目指していましたが、
ビンソンマシフ山初登頂を深夜ラジオで聞きがっかりしたものです。
「岳人」今月号に久しぶりに手をのばすと、
なんと白山・別山の高山植物の花特集。
思わず、ワイフに見せて、「これこそ極楽なんだ」と言いました。
夏山の高山植物はこの世の物とは思えないほどの花畑、
そこにモンシロチョウと赤とんぼが飛び交っていました。
白山と経ヶ岳山頂には祖父寄贈の祠がありました。
今はもうわかりません。
高校時代、最も美しい花畑は大長山でした。
ここに伝わる千畳敷を探していたものでした。
大学時代4年間毎夏は剣岳でほぼ一ヶ月暮らし、
最終は後立山縦走し鉢ヶ岳から直下して大町駅から帰宅しました。
大学時代は冬もメチャクチャな登山経験がありましたが、
大学卒業時にきっぱりと登山は封印しました。
以来、この雑誌も見かけても読みませんでしたが、
現在、大学でも山岳部は無くなって、この専門誌も厚さは半分以下、
内容も専門性が無くなっていました。
剣岳へは宇奈月から登山鉄道、そして早月尾根を3日間で着くのです。
メタルスキーで雪渓を滑り、ピッケルワークで滑落停止の練習、
クレオパトラノーズの6級の壁が懐かしい限りです。
もう一度、今度はヘリコプターで行ってみたいとしきりに思います。

* 「やっぱり、なぜこれほど落ち着くのだろう」
* 『歩けた頃=スキーに夢中だった時の写真が届いた』
* 「冒険、してはいけないことになるかも」
* 「トランスジャパンアルプスレース・過酷さの美学」
* 「易しそうなテーマだが難しそうなデザイン解」


目次を見る