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Posts Tagged ‘大学院’


「KAIST・韓国科学技術院での講演」


   


     11月 18th, 2011  Posted 12:00 AM

KAISTで講演をしてきました。
これまで、特にデザイン系大学は色々見てきました。
が、環境・教授陣・学生達・各プロジェクトにおいては、
やはり評価どおり、最高の大学・大学院でした。
1971年開学・1985年にインダストリアルデザインが開設、
今では、韓国のデザイン系でリーダー達を一杯輩出。
今もLG社副社長が教授兼務であり韓国デザインを牽引し、
国際貢献プロジェクト「nanum」(以後に紹介予定)や
環境デザイン領域ゆえにロボティクスデザインを研究。
日本だと環境デザインは建築系や都市計画系ですが、
企業に直結した企業デザイン戦略立案実務などは、
まさにデザイン領域を拡大させている実例ぞろいでした。
私自身も紹介したのは「PKD=Peace-Keeping Design」、
そのワクチン開発・接種方法や遺伝子検査システムで、
これまではワクチンの経皮注射を経肺接種と、
遺伝子での結核種類選別のシステムから、
経肺接種での全く新しいシリンジを紹介講義しました。
KAISTのインダストリアルデザインには、
韓国のスーパーサイエンス高校から、
飛び級で高校2年生で入学可能だそうです。
そして教授陣も日欧米での留学経験者から選別されています。
もちろん、授業はすべてが英語であり、
国際的なデザイナー養成システムが完備していました。
日本ではデザイナー志望の学生から、
時折、こんな質問が出ます。
「デザインという職能は日本では大丈夫ですか?」と。
時に私も職能として、特に企業内デザイナー志望には、
返答に窮することがあります。
しかし、KAISTの学生たちは、
「デザインの未来にこそ、未来がある」、
そのことをしっかりと確信していました。
昨年、私の研究室から半年留学生を派遣しました。
来春には、KAISTから交換留学生を受け入れます。
KAISTが育成した頭脳とセンスが、
現代韓国の産業と文化をリードしています。
そして、韓国での次世代リーダー達を素晴らしい環境で
育成していることに驚愕し、感激し感動しました。
このようなチャンスがあったことに感謝しています。

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『資本主義からの逃走』
ブログ情報と『つぶやき』NetworkはMorphesかもしれない」


   


     6月 6th, 2010  Posted 12:01 AM

ブログと「つぶやき」の双方向性

私は、次の言葉を、現代問題のキーワードであるがゆえに、
「再検証」と「再定義」が不可欠になっていると考えてきました。
キーワードが日本語であれば、
その日本語元来の意味=原意は中国の古典書や漢字原意からの経緯があります。
しかし、言葉は「時代とともに」意味を変貌し、変質させてしまうものです。

情報
環境
福祉
病院

などのキーワードに焦点を当てて、ほとんどメモ的な記述をしておきました。
一つ一つを掘り下げていけば、
それは「論文」となるほどの熟考結果とラング転換の論理構成が必要だと思います。
さて、このブログタイトルは「資本主義」への考察を行っていますから、
多分、なぜ、言葉・キーワード・原意などに拘っているのだろうか、
そう思われている読者諸兄もいらっしゃるでしょう。
しかも、「難解だ」とか「一人よがりな文章」であることも自認しています。
この場はあくまでも、私のメモであり、
毎日、現代の基盤である「資本主義」とそのまた基本・基準、
「民主主義」への大変更を私は目指しています。

三人称つぶやきが二人称となる
毎日、ここに記述し書き残すこと=記録は、
「私の熟考」=一人称的な想いであり、思索です。
そして、二人称としては、まずワイフに今日はこんなことを書き残したとか、
私のスタッフや学生や友人・知人には、「あなた」に向けている、という思いがあります。
そしてこのブログは、
TwitterというSocial Networkでのいわゆる「つぶやき」に連動しているので、
ブログに対するコメントとはまったく異なる「つぶやき」批評が届きます。
これは、三人称からの返信ですが、
明らかに、私の二人称相手が増加しているのです。
私はコメント掲載は受け取ってもその掲載は控えてきました。
どこかで、ブログという情報発信に対するコメントという形式が
絶対に「変わる」という直感があったからです。
見事に、それは「つぶやき」という形式がブログにも差し向けられるようになりました。
「Social Network」の登場は、
ブログの形式も変えようとしているのだと確信するのです。

Network主義へ逃走する
結論を急げば、「資本」は、確実に「情報」になってきました。
無論、日本語「情報」は、私流には再検証と再定義しなければなりません。

Morphesがつぶやいている
だから、「Social Network」での、政治・経済・文化などの世界観、
すなわち「新しい主義」が生まれようとしているのでしょう。
とりあえず『「ネットワーク主義」へ逃走』という仮称」への近傍観、
つまり、トポロジー観が、私にはその香りが漂っている気がします。
これが幻視であると突き放しつつも、
改めて、この幻視=Morphesの白日夢に漂っていることは間違いありません。
Morphesって誰なのでしょうか?


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『資本主義からの逃走』
「病院という悲しみの日本語に『もてなし』という意味は無い」


   


     6月 5th, 2010  Posted 12:46 AM

重篤
重篤という言葉があります。
私は3度、重篤状態を通過しました。
周囲が、ドクターたちから重篤と告げられました。
周囲は充分にその状況を理解していましたが、
私自身が重篤状況だったということは全く知りません。
危篤と重篤、医学的には危篤という言い方ではなくて、
重篤の方が医学術語だとドクターたちに教わりました。
さて、私自身の肉体的問題は、きわめて日常的です。

デザイン医工学
そうしたことで、私は「デザイン+医学」領域に携わっています。
この領域を「デザイン医工学」と呼称づけています。
このデザイン医工学には、

反健康=健康では無い=病気・病
半健康=いわゆる一病息災という日常的な病を持っている
範健康=健康であるためにどれだけ体調管理・保健であるか

以上のようなことから、
それぞれに対する「デザイン」対象として健康を見詰めています。
そこで、「病院」という機関・組織・空間・サービス・制度を明確に定義するとき、
この日本語はやはり、歴史性としての意味が閉じ込められていると判断しています。
ずばり、「病院」とは「病を閉じ込めた空間」という意味です。

閉鎖空間
「院」という文字は、「完全な閉鎖空間」を意味しています。
大学院も完全な閉鎖空間です。
比して、学校も「校」は板塀で取り囲んだこれも閉鎖空間です。
ところが、幼稚園などや学園の「園」は、遊園地もあるように、
「開放空間」です。
こうしたことから考え直せば、
私は「病院」は「病園」、
いや「療養園」が正しいのではないだろうかと主張をしてきました。
病院や医療関係者の方々からは、
現代性と重ね合わせて多くの賛同を得てきました。
なぜなら、「病院=病の閉じ込められた館」、
閉鎖空間であってはいけないという発想が出てきたことです。
それは、「病院」=ホスピタルからホスピスという日本語は、
Hospital・Hospisという英語の原意からは、
「病院」=Hospitalでは無いということです。

もてなし空間
HotelやHospitalは「もてなし空間」を意味しています。
したがって、
病気療養は、医療従事者のもてなし=看護の十分さが問われているということです。
つまり、私たちは漢字観=古代中国の病院定義を引きずっています。
Hotel・Hospitalの意味には相当の距離観があるということです。
現代、すでに「病院」という言葉の変更は必至だと提案します。
病院とホテルは「もてなし空間」として同格ある必要があるわけです。
そうなれば、「ホスピス」は終末医療の「園」であって、
「病院」の延長線上にあるわけではないことは自明です。


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