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Posts Tagged ‘変’


『手にぴったりの60−30の三角定規だけです』


   


     7月 8th, 2019  Posted 12:00 AM

三角定規は、45−45、60−30、が組になっています。
私は、スケッチにこの60−30の三角定規だけを
唯一の定規としてこれまでも使ってきています。
この定規は、私の掌にぴったりであり、これを回すことが出来ます。
三角定規もいろいろ使ってきましたが、回せるのは、これだけです。
だから、私の愛用ツールになっています。
これだと、60−30でスケッチが描けますから、
私の「直線的造形」を支える一本のツールです。
最近では、スケッチも車椅子ゆえ、タブレットを利用することが多く
あまり使ってはいませんが、45度に傾けて使えるのです。
そして、清潔に管理するのにトルエンが今では手に入りませんから、
除光液を使っているのです。
現在、秋に発表するスケッチでは大活躍です。
時にはペン回しのように、この60−30を回します。
寸法に関して、このところコンピュータ上だけで設計管理していると、
100分の一の寸法がとても「変」なのです。
たとえば、図面で書けないはずの82.25などといった寸法になっています。
82、82.5、80にならないのかとか、あるいは83の検討をすべきです。
造形デザインでは、10分の一なのです。
発想を生み出すスケッチ、寸法を管理する手描き、
そしてこの三角定規なら、スッケチも図面でも使えます。


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『バブル経済は私たちも破壊したのでしょう』


   


     1月 29th, 2017  Posted 12:00 AM

明治のチョコレートは、私自身がその味を知ったモノでした。
しかも初期のパッケージのロゴタイプは、
デザイナーなら絶対に知っているグラフィックデザイン。
大御所であった故・亀倉雄策氏のレタリングでした。
ところが、グラフィックデザインの切なさというべきか、
全てが小文字表現になってしまいました。
多分、企業には逡巡性があったのではないでしょうか、
もし、時代風潮からの変更であったとしたなら無念だと私は思います。
したがって、このロゴタイプになってからは、私は明治チョコレートを
もう絶対に買わないでおこうとさえ思ったものです。
ちょうどこの時期になると、バレンタインという行事の準備が始まります。
デパートから、バレンタイン商戦始まりとかの小冊子を見て世の中は大変、
正直、呆れながらも、どこがこの商戦にどのような戦術になるのかという
興味がとても私にはあります。若い頃には大手デパートで、
自分自らが「ラブチェアー」という企画展をしたことがあります。
「ラブチェアー」って和製英語ゆえ、「ラブシート」、と、
米国の親友にアドバイスをもらったこともあります。
さて、チョコレートでもバレンタインでもなく、
日本の企業が壊れ出したのは、あのバブル時期からだった気がします。
バブルでの経済の崩壊は、企業にガバナンスとか、
企業は株主のための存在とか、しかもインターネットでの
情報時代=意識革命は、SNSとかのネガティブさが企業存在まで、
とても怪しくして、モンスターなる消費者とか、
サイレントユーザーという、文句は言わないが、
その企業の商品消費は辞めてしまうなど、
性悪説の社会構造が出来上がってきている気がしてなりません。
それこそ、「イジメ社会」も激しくなったようです。
ケータイやスマホがこの社会成立をバックアップしています。
企業の義も善も否定が扇動して、
美は「かわいい」ということに置換されたのでしょうか。
チョコレートの名作だったデザインの変更は、
まさしく小文字だからこそ「かわいい書体」へということは、
私には悲しみでしかありません。
バブル時には私は米国での仕事だけをしていました。
東京が「何か変」だったのです。
バブルは私たち日本人を壊したのかもしれません。

* 「チョコレートの決定打は決まっている」
* 「2/14のチョコレートは天然とヒーリング」
* 『漫画・アニメーションにみる日本独自のロボット観』
* 「泡・バブルって、やっぱり凄いんだって思います」
* 「キティちゃんにて確認できる『安全と安心』」


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『米国は壊れてしまっているその追随国家観を捨てよ』


   


     1月 20th, 2017  Posted 12:00 AM

日本人には米国への大きな誤解を捨てられずにいます。
私はApple社でコンサルタントをしていて以来、
周囲からは「右翼」と呼ばれます。
全くの間違いです。少なからず「左翼」ではありませんが、
右翼ではないのです。
それは米国相手に仕事をしてみれば一辺にわかることです。
現在の民主主義なる多数決などは絶対に信用しないこと。
白人主義、キリスト教教義への大疑問、
しかもポピュリズムでの勘違いから、
米国後追いには大きな疑念を持つことが絶対に必要です。
今回、米国の大統領選挙には、ヒラリーにせよ、トランプにせよ、
米国全体の文明度が後退してきたことゆえに、私は選挙戦最初から、
共和党・トランプになることは当然のこと予想していました。
それは何と言っても「変」なのです。何がか?と言えば、
黒人を解放したのは共和党のリンカーンであり、北軍が勝ったのです。
にもかかわらず、民主党のオバマ大統領が選ばれ、
私のメガネはペイリン副大統領候補に選ばれるとともに、
ふるさと福井県小浜市はオバマ礼賛を行うというポピュリズムでしかなく、
米国では民主義よりもポピュリズムでの世界観の大破壊が進行したのです。
明らかに民主主義は破壊されてヒラリーであろうがトランプであろうが、
「白人主義」がトランプを選び出し、
その背後でのとんでもない世界征服観念が
米国の底辺集団の人気だけを押し出してしまっているのです。
米国の正当な知性は失われました。
世界がとんでもなく壊れていくようです。
米国内の混乱から遠ざかるべきでしょうがそれさえ不可能でしょう。
英国はEUを離れ、ロシアの強権発動、中国の一党独裁、
さらに北朝鮮の狂気、韓国の大混乱、それを相手に大丈夫でしょうか?
なんとか、わが国の義と善と美という神道的発想だけが頼りです。
私は右翼ではありません。ただし、左翼の能無しではありません。

* 「商品が記号となった実例・私の体験と確認」
* 『ロシアでの冬期オリンピックに象徴されていたこと』
* 『中国の模倣づくりは市場経済論と一党独裁で破綻する!』
* 「拉致問題解決が先決、現代問題解決は不可能を表徴」
* 「軍需こそデザインによる革新の真の目的」


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『デザインのようなデザインという大誤解の現実がある』


   


     5月 27th, 2016  Posted 12:00 AM

「デザイン」への大勘違いが格段と増殖しています。
正直、この紹介は「怖いこと」であり、
みんなが「沈黙して決して語らない」という風潮が蔓延しています。
しかし、現状の一般認識が「これがデザイン」ということはプロとして、
見過ごすことが出来ません。
「サイレントユーザー」として生きようという決心がすでに「変」です。
無論、それぞれの出来映えにはいわゆる「努力の足跡」があります。
その否定ではありません。
こうしたデザインされたかのような「デザインのような」性質、性能
それを社会制度が黙秘していることに、機能も効能もガラパゴス化して
「日本の危機」が明確だということです。
社会制度は「たかがデザイン」という扱いが明白ゆえに、
敢えて訴求します。
「これらはデザインのようなモノ」に過ぎず、
「デザインでは無い」という再宣言なのです。
しかも、これらはすべて実現していて規制事実なのです。
デザイナーとして、大学人として、懸命かつ賢明に生きてきた者として、
「悲しくて哀しみ」に突き落とされています。
「それならお前のデザインは」、というブーメラン効果が来るでしょう。
向かい合って、決闘する覚悟もし、決意もしています。
まず、「コンセプト」だ、「イノベーション」だ、「デザイン思考」だ、
という発想から解放されるべきです。

「デザインとは何か」が終焉してきたことを主張してきました。
「コンシリエンスデザイン」で三つの定義をしました。
 ● 「問題解決の『応答・回答・解答』があるだろうか。」
 ● 「価値の創出が実現しているだろうか。」
 ● 「未来の創成に連動していくだろうか。」
2020年のすぐ後には日本は国際的な立場を失うでしょう。
わが国の「正しい美しさ」は、デザイン職能が主体的に、
性能・効能・機能で「これがデザイン」を主張し、
共有・共時の価値=好ましさと望ましさを創出創成することです。

*『コンセプトから「ライン発想」の三つの思考空間』
*『デザインは問題解決!・この本質の再整理』
*『愛着と愛用がデザインの全体価値である』
*『鏡映は冥府に降りていることゆえに「何がデザイン?」
*『陽子加速器での核変換デザインによる復興』


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『資本主義からの逃走』
    「変革は『正道』を逃走することなり!」


   


     8月 4th, 2010  Posted 12:00 AM

変革の正道
私は改革は望みません。
改革をアジテートなどしたいとも思っていません。
「変えたい」という意欲と意志があるだけです。
改革を推進するようなタイプではないと思って生きてきました。
それは自分でも「変」な人間だからです。
「変」=異常さに在るからこそ、現状を異常化させて本道にしたいのです。
だから「変える」対象=デザイン対象に恋い焦がれるのです。
恋い焦がれて、必ずモノにしたい。
本道に置かれるモノにしたい。
その本道とは「正道」です。
私はこの根幹に「」と「公」を対照化して見詰めることにしてきました。
私が「正しい」ことを公的にも「正しい」ことです。
まず、正しいことが無ければ、「美しさ」が付いて来てくれません。
私はこの「正道」を残された時間に、
デザインで語る=モノのデザインにしていくことだと決めています。
すなわち、「八正道」を語り尽くす「変革物語」を残したいと考えています。
今、資本主義、それはキリスト教義に強く裏付けられた思想の具体化であったことこは明白です。
敗戦後の日本は、仏教よりは、キリスト教的な裏付けで経済的な発展をしてきました。
しかし、その限界にきてしまった原因に立ち戻ることさえ忘れてしまったようです。
日本人にとっての、「資本主義」に「変革」すること。
それは現状の資本主義から、私は「正道」を通って逃走することだと私は考えています。


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『資本主義からの逃走』
   「『変』って恋?、という私的解釈・私見です」


   


     8月 2nd, 2010  Posted 12:00 AM

述語世界観
天候が「変」だ、と毎年感じています。
日常的には「変」なコトが多発しています。
私は、変化・変貌・変容・変態などの言葉を多用します。
それは「変えたい」と思っているからでしょう。
そして「変える」実務的な手法として、
有効だと確信しているのはデザインだと主張するわけです。
職能的な身びいきをすることは、それぞれプロを自称するなら当然のことです。
ただし、「世界をデザインが変える」とまでは断言を控えます。
述語世界観にデザインを配置することには異議を申し立てています。
「デザインが世界を変える」とアジテートしています。
同じコトを言っているかもしれません。
しかし、私はプロとしてのこだわりがあります。この差異性には、
デザインという職能は、
世界を変える程までの役割ではないから、目的語を冠言葉にまではできないのです。
むしろ、デザインの役割の何が「世界」を変えられるのだろうかという熟考のために、
デザインを主語として述語表現においているのです。
これは「述語世界観」という考え方です。
言い換えると、「デザインが世界を変えることができる」だろうか?、ということです。
變と戀
それなら、
「変える」の源・「変」を、私見的な解釈として言葉の確認メモをしておきます。
古語に戻ると「變」=変という言葉にもどります。
恋=戀という文字と同様な「?」が意味の大枠を決めているというように
私は解釈しています。
恋いするという経験が感覚的に「戀」、その意味にある納得ができそうです。
つまり、「?」は文字の組み合わせから、
「言」=ことばが「糸」で挟んでいます。語源辞典で確かめることができます。
まさしく、戀は言葉が糸に絡まっているようにもつれていて。
本来は「言」という明快さになる心が何かに絡まって不安定になっている印象です。
同様な意味の印象が「變」=変にも重なっています。
不安定な状態が元通りになるわけではなくて変則化=変ずれば則(すなわち)化すとか、
天変地異=自然界の異常な出来事などのように、
平常性という安定を異常な状況への不安定さに?(もつれ)させる意味があります。
そして、その結果が、変化・変貌・変容・変態などになることです。
整理すると、
変、という一語は、不安定極まりないないから感覚的にまず感じ取ってしまう状態です。
そして、変=不安定でもつれている状況の異常性を起こす必要性を納得することだというのが、
私なりの考え方です。
したがって、私自身は「変」と思われることも納得しつつ、
さらに、私はもう「変わる」ということはないでしょう。
変と恋は似ています。
つまり、若いときには変であってもいいのです。
当然、恋もするでしょう。
「変えよう」という意志や意欲は「恋する」という意識に近いと思います。
「変える」ことに「恋」をしなければいけないとすら思います。
私はもう変であっても、私自身は変わることなく、
多分、恋についても云々・・・ですが。
デザインで「変えたい」コトやモノはいっぱいあります。


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