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Posts Tagged ‘国家資格’


『デザインは全てに入り込むこと、だから知識知恵を』


   


     3月 2nd, 2019  Posted 12:00 AM

これは「言語聴覚士」のテキストです。
リハビリは主には「理学療法士」「作業療法士」「言語聴覚士」などの
専門職によって施術支援されています。
この言語聴覚士は、米国ではオーディオロジスト(聴覚療法士)と
スピーチランゲージパソロジスト(言語療法士)に分かれていて、
修士や博士課程を経なければならない専門家です。
この分野こそ、デザインが加わるべきです。
私は、いくつもの既往歴と障がいがあり、
また デザイナーでもあるけれど、医学博士だから、
嫌な存在でしょうね。
ともかく、このマンガは、「ハリガネ絵」であり、
ハリガネ絵は精神的に悪いのです。
もはや見かけない家具調テレビや黒電話の絵で、
その名称がみんなわかる?と思います。
絵やカードを使って、「読む」「話す」「聞く」「書く」を学び、
その状態をチェックしながら訓練していきます。
その他のサンプルも一つのアッタシュケースにおさめ、とても高額です。
改訂され、図版の更新、データ化と、
このリハビリそのものが情報化されるべきです。
情報化されれば遠隔でもっとも対応可能なリハビリです。
私なら例えば、言語聴覚士に、
「薔薇」と「絢爛豪華」を書いてみて、と意地悪を言うところです。
そんな漢字も書けないなら言語は指導出来ないよと。
医師の国家資格は、「身体に刃物をいれてもいい唯一の職能家」です。
「毒とも薬ともなる調剤資格を持つ」のが薬剤師です。
看護師は「医師の判断と指示がない」と医療行為はできません。
そうなると、デザイナーとしての職能は?
デザイン教育で「生理学」程度は修めておくべきでしょう。
これからのデザイナーが実務、実践で手掛ける範疇として
昨晩に書いたブログ「海洋にデザインを」を
一読していただければ「海洋気象学」をやるべきです。


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「メガネフレームはまず自助具でありき」


   


     11月 8th, 2011  Posted 12:00 AM

メガネフレームのデザイン、
懸命に取り組んでもう25年以上になります。
インダストリアルデザインでの設計が、
産地に受け入れられてもらえたのは、
メガネフレームメーカー・増永眼鏡の指導と支援、
これがあったからだと思っています。
増永眼鏡は、フレームメーカーとして100年以上の歴史、
日本での眼鏡枠製造老舗、海外にはKOKIブランドとして、
最も信頼のある企業であり、技術力ではトップメーカーです。
メガネフレームは、ファッションであり流行に左右されます。
しかし、ファッション=自分演出のおしゃれ道具ですが、
根本的には視力支援器具、
いわば医療器具であることは免れません。
したがって、3プライスと言われるビジネスモデルでの
低価格商品は常にファッションというより、
「流行」だけをテコにした市場でありますが、
これは日本独特の市場展開なのです。
なぜなら、海外では度数の無いサングラスは、
どこでも買い求めることができますが、
医療器具としては、眼科医の処方箋が必要です。
眼科医というよりは、
「オプトメトリスト」=6年の大学専門教育と国家資格と、
「オプティシャン」というフレームとレンズの加工技師資格、
この二つの資格がなければ眼鏡ショップは経営できません。
日本だけがこうした資格無しでメガネが販売されているのです。
単なる広告宣伝でファッション性だけで語られる眼鏡は未完成です。
メガネフレームそのものがレンズが無ければ、
それはキーホルダーのようなモノにすぎません。
最近は、素材・重量(レンズ無し10g)・形態、
この形態がデザインだと受け取られていますが、
顔の形、耳、鼻などとのフィッティング=かけごこちは、
「性能デザイン」になっていなければなりません。
安易なデザイナーブランドや建築家が片手間デザインは、
「遊びのデザイン」として楽しめますが、
これをファッションとしてのメガネフレームだというのは、
生理的、倫理的、美学的には、私は認められません。
私は、いわゆるブランドフレームでも、いい加減なモノは、
それを着用しているユーザーの社会的存在性を自らが貶めています。
フレームの形態は、造形性能と造形機能が、
ある意味での「形態言語」になっていなければなりません。
私の提示した「アンチテンションスタイル」=レンズに応力無しは、
すでに「不易流行」のフレームデザインの一つの様式になりました。
メガネを着用している人、コンタクトレンズの人、
レーシックをしてしまった人、その手術を考えている人、
あらためて「視力」と「メガネ」、
この「造形言語」を読み直してください。
メガネフレームは「自助具としての性能・機能」が、
「効能」として、視力を支援し目を保護するモノです。

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「代議士達の資格と能力は別物」


   


     7月 3rd, 2011  Posted 12:00 AM

高校時代の親友の一人はもういません。
しかし、娘さんがいます。
ピアニストに成長しました。
ちょうど北京出張と重なり、
彼女がデビューするコンサートに出られませんでした。
幸いに最初のコンサートは福井からでした。
高校時代の同級生で福井在住のみんなは結束が堅くて、
彼女のデビューをみんなが支えてくれたようです。
大成功のまま、次回は東京になります。
その親友はキャリアでしたが50代で逝きました。
彼女がピアニストを希望していることで、
私は彼から相談を受けました。
私は大賛成をしました。そのことを彼女は知りませんでした。
もう一人の親友がいますが、その娘さんもピアニスト。
彼は、「娘だけはピアニストにするもんじゃない」と、
嬉しそうに中心になってコンサートを仕切りました。
今、彼の娘さんは海外に留学しています。
ピアニストという職能は才能=能力がピアニストという資格を決定します。
私も教育者ゆえに、
才能の有無が資格と能力の関係をずーっと見つめてきました。
それは私自身についても、
特にデザイナーという職業に就けたことは幸運でした。
そしてデザインの世界は、
とりわけ才能がデザイナーという資格に直結しています。
しかも、その資格は常に能力が問われています。
いわゆる、国家資格という職能ではないだけに、
資格=才能=能力は日常的に試行され続けています。
さて、政治家の資格は短絡的に言ってしまえば、
民主主義という多数決で決定されて与えられる職能です。
いわば、議員バッジが胸にあれば、
才能というのは、選挙で選ばれるという能力です。
それ以後は、その資格の能力は、
彼らの「仲間主義」だけの中で温存しているだけです。
仲間主義=民主主義だと断言することは憚りますが、
ややもすれば、仲間だけの欲得=欲望が、
今この日本のリーダーに蔓延しているかも知れません。
悲劇です。
あらためて資格と能力というあり方を
民主主義に照合してみなければならないと思います。
なぜなら、リーダーとして資格を与えた私たちにも
重大な責任があるということです。
代議士という資格は、無能にも関わらず、
「圧政」での国難解決に向かおうとしています。
絶対に不可能です。
いわゆる代議士たちの資格と能力は別物だと確信します。

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