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Posts Tagged ‘優美なる慈愛’


『資本主義からの逃走』
   「慈愛資本とは、優美の隠匿資本でなければならない」


   


     7月 3rd, 2010  Posted 12:00 AM

つつましさ
「慈愛」は「優美」でなければならないと述べてきました。
「優美」であることが「慈愛」の基本だとも。
「優しい」というのは、決して目立たないつつましさ、
日本的な謙譲心に満ちあふれていることです。
「つつましい」という言葉があります。
この言葉の意味も大きな勘違いが現代起こっています。
それは、「つまらない物ですが」という会話言葉です。
「つまらない物」などを人に贈与すべきではない、という批判です。
しかし、この「つまらない」とは「つつましい」ということが原意です。
「つつむ=包む」という動詞系からの形容詞と考えます。
「つつましくて、身も細るほど恥じらう物ですが」という意味であり、
ここに日本人の目立たずの奥ゆかしさがあります。

これを、谷崎潤一郎が定義した「品」・「品性」・「品格」にあります。
欧米からの「自己主張の優先」ということが「積極性」と同義となって以来、
日本人の奥ゆかしさ=優美さ=目立たせないこと、
こうしたことは否定的な傾向に押し込められたものと判断します。
比して、私なども、「目立たす=顕示性」があることは否めません。
したがって、「優美さ」という言葉には、この顕示性をはぎ取る力が、
日本の伝統的美学であることを私自身思い起こす必要があります。
日本の「優美」と「慈愛」には、
顕示性を否定するベクトル、その質を再検討しなければなりません。
それは、日本の戦略、日本の資源、すなわち「資本」化すべきだと考えます。
ヒントは、「つつましさ」です。
包む
「包む」という系譜から、
日本は「包む文化」です。風呂敷の文化と言い切ってもいいでしょう。
対して、欧米の「詰め込む文化」は、缶詰や腸詰めなどを思い起こせば、
「詰め込み型」の短所は明白になります。
あらためて、「包む」・「包み込む」、
その慈愛の優美さを「資本戦略」が求められていると判断します。
結局、「優美さ」を隠匿できる「資本」を発見しなければならないということです。


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『資本主義からの逃走』
   「慈愛が生み出すこれからの資本」


   


     7月 1st, 2010  Posted 12:00 AM

支配層は1億人
世界人口は加速度的に、70億人に向かっています。
現代明らかになっていることは、たった1億人だけが、
この地球上で、文明的かつ文化的な生活を送っているだけです。
もっとも、この1億人が「幸福」かどうかは不明です。
なぜなら、自殺率から考えれば、この先進的国家は「幸運」なだけでしょう。
そして、「資本主義」が結果的に「幸運さ」を支援しているのも、たった1億人です。
もし、「慈愛」があたえられるべきは、全人口65%約45億人(年収3万円から7万円)と、
23億人(年収20万円から200万円)の人たちに向けて、もっとも「慈愛」が必要です。
優しさと易しさ
根底的、根本的には、最も発露すべき「感性」の健全さとは、
「慈愛」という優しさです。易しさではありません。
「やさしさ」と書き直した曖昧さを打ち切って、
「優しさ」は「慈愛心」という感性です。感情の不純さではありません。
日本語の美しさそのままに、「優美なる慈愛」こそ、
日本の伝統的な文化資本です。
さて、私が「資本論」を肯定的に評価するならば、
「労働者」=被支配者を「慈愛的」な守護主張だったかもしれません。
しかし、「資本論」には優美さは皆無です。
論理で攻勢する主張に最も欠落するのは「優美さ」です。
「資本主義」の合理性がはぎ取ってきたのも「優美さ」です。
それなら、「優美さ」と「慈愛」が創出する「資本」、
何が「優美で、慈愛ある」ことが「資本」になるのかを突き詰める時代を、
人類70億人に問われているのでしょう。
優美な慈愛
そして、その先陣を担うのは、
わが国なればこそ「モノづくり」に込める「優美な慈愛」です。
無論、その主役は日本のデザインが創出します。


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