kazuo kawasaki's official blog

Posts Tagged ‘代替エネルギー’


「自然エネルギーという幻想」


   


     7月 5th, 2011  Posted 12:00 AM

ドイツ、イタリアは原発撤退。
代替エネルギーは自然界エネルギーへ。
おかしいと思う。
基本的エネルギーである原発電力は、
フランスから買うらしい。
フランスは大丈夫なのだろうか。
私は大規模な原子力発電所に問題があると考えています。
したがって、反原発ではありますが、
原子力発電の技術をさらに詳細に進化させること。
脱原発は相当に困難であり、
ほとんど不可能ではとさえ考えています。
太陽パネルにしろ、風力にしろ、
いわゆる自然エネルギーというのも、
原子力技術を一つの大きな手かがりにするべきと思います。
太陽光発電の電力会社買い取り制度など、
結局は補助金無しでは成立しません。
風力発電の現実はあまり知らされていないことも事実です。
無論その他の方法もあります。
単純に考えれば、水力発電で高低差100mで、
距離約1Kmで小規模発電は可能です。
エネルギーは、日常的な家庭用と工場産業用、
さらに公共機関用の三つが絶対に必要です。
「自然エネルギー」という言葉のあたかも正当性には、
エネルギー政策の現実的問題解決は成立しないのです。
太陽光も風力も、海洋の波や海流も、地熱発電も、
すべからく私は運用すべきだと考えます。
しかし、自然を利用する技術力がもっともっと必要です。
今、政府がもっともらしい「自然エネルギー転換」などは、
決して信用すべきものではありません。
平然と原子力汚染水を太平洋に放流する政治指導者を疑います。
原発推進派だった学者が世論で、原発批判派転向も疑います。
さらに原子力専門家ゆえに反対を貫くために大学人を疑います。
専門家なら、なぜ、「安全で安心」のシステム創出に背を向け、
大学という温室から、反対派の扇動者で生きてきたのか超疑問。
20ミリシーベルトなど許すべきでないと、
泣いて訴えるだけの専門、なぜ毅然と闘わないのでしょうか。
原子力専門家というのは、最も危険で最先端だからこそ、
「命がけ」の職業のはずです。まるでF1レーサーなのです。
それならどうするべきなのでしょうか、
今、私なりに、私自身にとっても、
緊急に結論づけるべき大問題です。悩んでいます。
ふるさと福井の原発地帯を補助金欲しさと罵る輩は許せません。

目次を見る

「神話・寓話・童話にエネルギーは無い」


   


     6月 8th, 2011  Posted 12:00 AM

もっと真実を。
権力の構造が最大恐怖です。
その権力の機能性も性能性も壊滅です。
それにも関わらず効能性を、
権力は維持存続させる権力が残存しています。
だから、もっと真実を、
かってロシアンアバンギャルド時代に、
マヤコフスキーは、「もっと形態を」と言って、
自死を選びました。
ロシア革命先導者たちの権力への抵抗でした。
「もっと新しい形態を、号泣が聞こえてくる」、
これが彼の辞世の言葉です。
さて、ドイツ・イタリアが脱原発を宣言しました。
いづれも敗戦国家です。
この国際的裏側の真実に真っ直ぐなまなざしが必要です。
「安全神話」で原発は推進しました。
結果、安全神話で原子力技術を台無しにしました。
私は、次ぎには、
「安全寓話」にソーラー発電があり、
「安全童話」に風力発電があると結論づけています。
代替エネルギーに、太陽と風があるという物語、
太陽には、日食と月食があり、
風には、暴風雨が待ち受けています。
「風景」の根幹に位置する太陽と風との調和、
そのような調和など幻想だと思います。
ソーラー発電にも風力発電にも、
原子力技術の応用が絶対に必要です。
なぜなら、人類の科学と技術に潜んでいる真実の知恵、
やっとたどり着いたかも知れない本当のエネルギーに、
真実近づくには科学からの知恵だと私は確信しています。
神話・寓話・童話の中に、
エネルギー手法はありえない、と思っています。
「もっと真実を」、
効能だけを温存している権力からはぎ取るべきでしょう。
3ミリシーベルト内でも次世代を置き去りは駄目です。
20ミリシーベルトOKという権力は打倒すべきでしょう。

目次を見る

「タブーにしたのは原子力技術の無知能さ」


   


     5月 22nd, 2011  Posted 12:00 AM

今、原子力テーマはタブーです。
私は、自然エネルギーを代替エネルギーにするために、
原子力技術はその根本にするべきだと考えています。
ただし、この根本は現在までの原子力系譜そのものを、
断絶させた発想へ転換するべきだと断言しておきます。
したがって、以下の思考を引用し比喩し、
そして言い換えてデザイン思考の下敷きにしてきました。
私はロボット評論をヒントにしています。
それを引用し比喩し言い換えます。
その評論は、J.ボードリアール著作、
「物の体系」です。
次のように引用します。

 ■「もしも原子力が、
その原材であるウランあるいはプルトニウムが、
全く密閉され放射能発生を制御自在なシステムであり、
どのような攻撃からも防御でき、
被曝不能状態であるなら、
そのシステムのエネルギー供給は完全に確約される」。

これは形態論=実装構造論的な言い換えです。
さらに、身体論=機能効用論的には、

 ■「もしも原子力が、
その人工的なシステムとして自然との関係を、
何世代にわたっても安心できる実働システムなら、
私たちは無自覚に信頼をすることになるだろう」。

おそらく、原子力学者はもちろんのこと、
ロボット学者もこの著作は知らないのでしょう。
だからロボット開発にも、原子力開発においても、
まったく無知、強調すれば無知能だったのです。
ナガサキ・ヒロシマを原子力へのトラウマだった私たち、
だから虚偽をつくして「安全神話」化し、
フクシマで決定的に信頼感を失わせた原子力関係者に、
ロボットと人間の共生を熟慮した思考無知さが、
原子力と人間との共生をも打ち壊すような
原子力をタブー化させたものと私は結論づけています。


目次を見る

「資本主義からの逃走」
  「反原発ヒステリーは、人類の義務放棄」


   


     3月 27th, 2011  Posted 12:00 AM

ヒステリックな対立
「Glass Gallery 291」で講演。
銀座で一泊。
いつもなら週末ゆえに、もう一泊です。
ところが、東京のあの活気が沈み込んでいます。
羽田空港も節電ゆえ、空港ロビーは暗過ぎる。
機上すると、大阪出張も激減とCAの人たちからの話。
新聞紙面では、大きな記事。
「原発か、反原発か」、これから私たち日本人、同胞は二分されそうです。
あらためて、東京の事態でこの国難をつきつけられました。
この対立が日本を沈没へと導いているのだとするなら、もっと悲惨です。
私たちは、私の世代が知らなかった敗戦直後に立ち戻されてしまったようです。
前夜、「朝生TV」の討論を見続けました。
それぞれの意見の対立や激論をただ傍観するばかりですが、
これをすべてが国難と受け止めていながら、やはり、アポリアで立ち尽くしていました。
私の意見、主張は、原発推進と受け取られそうですが、
「原子力技術進化」を「義務」とするべき立場です。
原子力発電所は常に、
バージョンアップとフェールセーフの徹底した維持管理であるべきでした。
おそらく、歴史的に何度も津波災害に立ち向かってきた、
東北三陸海岸の子供たちは、どれほど、避難訓練をしてきたことでしょうか。
ひきかえ、それだけの心構えと安全管理を電力会社は徹底してきたのでしょうか。
電気機器がもし火を噴いたとき海水をかければ、
さらに故障、それどころか爆発するかもしれないというのは万人の常識。
40年前の欠陥品は、放置されたまま首都圏のエネルギーを供給してきました。
無論、このあきらかに原電事故は人災だから、
現在稼働中の原子力発電所の総点検はやってしかるべきことでした。
けれども、国内全ての原電を停止というのはヒステリーです。
代替エネルギーのアイディアもなく、原子力は全廃!は「反核ヒステリー」です。
この原電事故は、日本の事故ではなくて、人類の事故という認識が必要でしょう。
被爆と被曝の表記間違いにこれまで私自身気づきもしませんでした。
えらそう過ぎるでしょう。
日本は、戦災で原爆被災をした人類で唯一の民族です。
だからこそ、原子力技術には大きな義務があると私は考えてきました。
これが、原爆被災した霊魂への真摯な人智的、倫理的な態度だと思います。
「建設」してきた原子力発電所の存在には大反対です。
だから既存の発想転換が私の,デザイン職能としての主張です。
「建設」ではなく「生産」、「ダウンサイジング」・「分散化」、
そしてスマートグリッド技術をよりフェールセーフすること。
これが私の主張です。
講演会は、テーマを変更して、この主張に徹しました。


目次を見る