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『私のJBL4343はフリーになってからの私を見てきた』


   


     1月 14th, 2015  Posted 12:00 AM

車イス生活となって、まだ東芝に籍を置きながら、
私は赤坂でフリーランスデザイナーにならざるを得ませんでした。
しかし、フリーになっても、オーディオ機器のデザインは、
契約上出来ないことになっていましたが、
何としても手に入れたかったのはJBL4343でした。
ユニットのコイルの巻き方は圧倒的に美しいからこその音なのです。
通常の4343は前面バッフルがブルーでしたが、
私はあえてブラック仕様を探し求めました。そして、筐体には、
私自身が開発していたコンクリート表皮ギミックの素材を貼りました。
それはオーディオ用に私が開発したシートでした。
スピーカーユニットはどうしてもエッジ部位がゴム製のために、
これまで4回リペアをし、それからスピーカー内部や配線も
メインテナンスをして、名古屋時代はあまり使用しませんでした。
ところが、オーディオ評論家でオーディオの師匠S氏が、
「レコード演奏家」シリーズの取材で私の音を聴きたいと言われ、
私はとてもビビりました。
なぜなら、部屋の定在波すら見えてしまう先生ですから、
メインテナンスしたいわばまっさらなスピーカーに、
ホワイトノイズ、ピンクノイズ、低音、ピアノ音、ヴァイオリン音を
1ヶ月かけて鳴らし運転をしながら、部屋のドアから、
壁面までをリニュアルしたほどでした。
取材の日には、サン=サーンスやボロディンを聴いてもらいました。
取材前夜は、まだ駄目かなと思っていましたが、取材当日は、
見事な音を鳴らしてくれたのを覚えています。
先生が帰られてから、私は4343にお礼を言ったぐらいでした。
スピーカーシステムには大事な扱いが通じるものです。
私は優れた機器は裏切らないと信じています。
おそらく、またすべてのメインテナンスは私の人生最期になります。
私がフリーになって以来このスピーカーは私を見てきてくれました。
名機をデザインすれば、決してそうしたモノたちは裏切りません。
だから、私はモノのデザインを確信しているのです。
ただし、それらは名機になる必要があると思っています。


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「物には人間の『きもち』が反映」


   


     8月 18th, 2011  Posted 12:00 AM

オーディオにはかなり必死です。
名古屋では、評論家のS先生が来訪。
オーディオ専門誌上での先生連載の取材。
その話をもらったときに、
丁度リペア4.5回目のJBL4343が戻ってきてました。
それから大慌てでエイジングしました。
エイジングの手続きとしては、
最初のホワイトノイズをかけっぱなしで、
次には私なりの方法がありますが、期限切れでした。
取材前日にJBL4343に話しかけました。
「明日は頼む」と。
もちろん、その時の部屋もリフォームしました。
気になっていたドアを剛性と密封性あるモノに変更と、
壁の共振、パワーアンプの設置などでした。
取材前夜の試聴ではまぁまぁかと思っていましたが、
当日は、まるで、自己主張しているかのようで、
私自身が大変に驚きました。
先生が帰られたあとにJBL4343を誉めました。
「お前はすごいわ・・・よくやった」と。
私は職業柄でしょうが「モノには想いが伝わる」、
このことを信じています。
それこそ愛車にも、カメラにも、万年筆など愛用品には
絶対にユーザーの「きもち」が伝わると思っています。
万年筆はしばらく使わないとヤキモチが残っています。
車などは明快です。
ある歌手の人が、やっと手にしたポルシェを、
ポルシェの新車にしようと思った時から故障する、
こんな話を冗談交じりでTVで語っていました。
私は絶対にこれはオカルト的でもなく当然だと思います。
モノ=私は工業製品・人工物をこのように呼ぶのですが、
大きなシステムも全く同じだと考えています。
日本の新幹線は開設以来、
本当に「安全」が徹底しています。
今回の震災でも、中越地震の教訓が生かされていました。
私は、原子力発電所の管理に最も欠落していたことは、
大規模なシステムであるだけに「大切に大事に」という
愛用しているという組織の「きもち」が有無です。
無論、原子力発電所を愛用しようと言い出しているのではありません。
いわば、猛獣を飼い慣らす基本は「動物への愛情」です。
そして、自然はどれだけ愛でようが、時に、
私たちにはそれこそ「想定外」の破壊を仕掛けてきます。
自然は決して美しくはないのです。
でも美しくあるべきというきもちが自然保全に繋がっているのでしょう。
原子力も猛獣だとするなら、
愛情を持って愛用という話で終わるわけにはいきません。
ほとんど制御するということは適わないことになりますから。
自然物と人工物との間に人がいます。
人間という存在のきもちが、
どうこの二つに介在していくべきかを
私たちは生涯かけて対峙していく課題なのかもしれません。

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