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Posts Tagged ‘スキャンダル’


『エッ! 延期!・・・やっぱりナ〜・・・』


   


     3月 2nd, 2015  Posted 12:30 AM

私の自宅は大阪市中央区谷町4丁目です。
いわゆるあのタニマチ=力士のパトロンが住んでいたという、
大阪城や、大阪市の官庁街も控えている中心街です。
3年前から地下鉄駅の改装、エレベーター設置工事が始まりました。
夜間工事も何度か見かけましたが、地表から切堀工事。
工事ぶりを幾度か眺めていました。
行政の工事というのは、かくもダラダラと不効率な仕事ぶりでした。
私が監督なら、とても許しがたい工事です。
工事をする人たちに若者はまったくいませんから、ベテラン?
絶対にプロの動きではない!怒鳴ったら、とかを何度か考えました。
大阪に来て、大阪市、大阪府、市役所も府庁も職員の人たちで
熱心な人たちとは正直、一人も出会ったことがありません。
こんなことでは、大阪は最悪になっていく!
ともかく、この国は東京一極集中の激烈さは地方都市も全て
その文化性まで破滅させてきたと言っていいでしょう。
18歳の時、一年間私は大阪市内阿倍野筋で浪人をしました。
当時、大阪は人情の街であり、確実に笑いの街だったと思います。
まさか、私が2006年・57歳になってこの街の住人になるとは、
しかも、浪人時代最後に地下鉄谷町線が出来た思い出があります。
だから、エレベータで地下鉄の駅づくりに期待をしていました。
平成27年3月完成だったのです。アレ〜、看板には紙が貼られて、
7月完成予定になっているのです。
おそらく、この完成予定延期は見逃されていると思います。
あのような工事作業で延期するのは当たり前でしょう。
突貫工事がいいとは決して思っていませんが、まさしく、
あのダラダラした作業ぶりは、この7月完成は予定にすぎません。
大阪市は都構想などで、市長や府長の政治指導力が、
スキャンダルになるほどですから、7月完成を待ってみましょう。

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『鉛筆削りナイフ・伝統技の記号づくりと情報づくり』


   


     3月 7th, 2014  Posted 12:00 AM

私がデザイン導入を越前打刃物産地に導入して30年になります。
社会的な提案で「スコラ=学校という意味のラテン語」という、
鉛筆削りを商品化しました。MoMA=New York近代美術館に、
永久収蔵され、美術教科書にもデザインとして紹介されています。
当初はすべて金属製で砥石や皮ケースもつけましたが、
プラスチック化して廉価にしました。
そしてデザインは全く変えていなくてもロングライフ商品です。
今や、鉛筆は消滅しかかっています。
ある大学で、鉛筆は数人しか使っていなくて、
ほとんどがシャープペンシルだったという調査があるくらいです。
結局、包丁が使えない、リンゴの皮がむけない、という風潮で、
私は鉛筆削りによって刃物に親しんでほしいという商品でした。
いつの日か、この商品も無くなるのかもしれませんが、
刃物は人類にとって最高の道具です。
なぜなら、刃物があれば、それで次の道具が創れるからです。
そういう意味では、鉛筆+刃物=ナイフ使い勝手の基本です。
これは鉛筆削りというナイフの記号そのものです。
記号としてのナイフだから、表現しているのは安全な使い勝手と、
意味していることは、「切る」「削る」という行為の内容です。
とても簡単な「かたち」にすぎませんが、
現在の家電での道具足る表現とその意味とその内容は、
格段に使い勝手の安全性や記号性を失っていると思うのです。
そういう意味では、私は伝統工芸産地でこの商品づくり、
すなわち「記号づくり」は正直で素直であったと自負しています。
私は、すでに製品でも
商品でもなくて、
今後は「記号づくり」が重要になってきていると主張しています。
しかもさらに需要なのは「記号」と「情報」の創造創作です。
「記号づくり」+「情報づくり」、この一元化だと確信します。

「750年をタケフナイフビレッジで革新して30年」
『タケフナイフビレッジにはもっと要求する』
「タケフナイフビレッジ第二世代へ理念を伝える」
「タケフナイフビレッジの次世代へ」


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「消費されてしまう人気・資本主義の社会心理」


   


     11月 22nd, 2011  Posted 12:00 AM

バスキアの映画を久しぶりにTVで観ました。
ジャン=ミッシェル・バスキアは、
グラフティ・アートのスーパースターでした。
しかし、その才能は最後には認められること無く、
最後は薬、そして夭逝してしまいます。
彼とマイケル・ジャクソンが重なりました。
マイケルも薬、それは人気絶頂から、
様々なスキャンダルやゴシップで、
彼も世間から見捨てられました。
ところが、彼ら二人の夭逝によって再び世間、
アメリカ社会は、もう一度スーパースターにしました。
二人とも人種差別を乗り越えて作品に命をかけていた若者です。
アートとミュージック、それぞれの作品は勿論のこと、
彼らの生きた証全てが「商品化」され、今後も価値づけられます。
私は、このアート商品群が資本主義での「消費」、
その非情さが21世紀もまだ引きずっていることを指摘しておきます。
しかも、その資本主義での「商品化」はそのまま「情報化」です。
情報という商品、情報化されるアーティスト存在の価値観です。
情報社会は「スーパースター」をマスコミが作り上げ、
そうしてやがては「潰しにかかる=嫉妬」を有します。
この「嫉妬」こそ、資本主義社会も社会主義社会も、
人間の業、集団社会の社会心理だと考えられます。
ところが、こうした「スーパースター」夭逝は、
社会心理を今度は大きな「同情」に転換します。
これも人間の業の現れ=社会心理なのでしょう。
人間の業が極端に現れるのは、資本主義先進国家です。
今年、わが国は大変な試練と直面させられてしまいました。
それも「消費構造」・「消費空間」にあるわが国の再生です。
破壊されてしまったわが国のあらゆるシステムも、
未だに20世紀の資本主義に引っ張られた中にあります。
無論、私は社会主義はもっと認められる思想ではありません。
それなら資本主義を超える経済主義や政治思想の根幹を変革。
そのようなことまでデザイナーという職能が可能ではないでしょう。
この変更困難な理由に私は楯突いてみたいと考えます。
だとするなら、この国難を直視出来る今、
私は人生最終の「行学」の対象にしていきたいのです。
バスキアとマイケル・ジャクソンへの社会心理、
この実態から多くのことが学べそうです。

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『資本主義からの逃走』
「Appropriationー”知財権制度”・反抗させない本質的デザイン3」


   


     4月 13th, 2010  Posted 12:01 AM

異議申し立て
Appropriationが、デザイン発想の斬新さという流行
私は、Appropriationをしているという無自覚なデザインに、
大いに異議申し立てをしておくべきだと考えてきました。
しかし、引用・借用・盗用かどうかという線引き、
その困難さゆえに、この兆しが見え始めた20世紀末から
どうやって、
デザイナー職能に対しての批評発言をためらってきました。
デザインが「欲望の刺激装置」と言い放ち、
デザイン価値・対・価値デザインを、
「知財権」の有無、その制度の見直し時期を見計らってきました。
ようやく、私はデザイナーとして、具体的な製品によって、
知財権、その中の最も権利主張が弱い「意匠権」を見直しました。
結果、
三つの見方に至っています。
● 外形・外観の盗用では意匠権は成立困難であること。
● 盗用はやはり倫理性の欠落からデザイナー見識が問われること。
● 知財権としての成立はほとんど不可能であり、
 制度破壊が一時期は讃えられても、
 やがてはある種のデザイン・スキャンダルに終わります。
すなわち、
デザインの本質は、一時的なブーム=流行性では、
その本質的な存在感をすぐに喪失することは
歴史的に明白になっていくものです。
流行学
なぜなら、「流行学」という学域があります。
これはマーケッティング論や経営学の領域学ではありません。
「流行学」とは、疫病や伝染病の流行性の学論です。
したがって、Appropriationは伝染病的なメタファー表現にすぎません。
そのことを明示していると考えていいのかもしれません。
現在、知的財産権が明確であるのは「著作権」のみです。
なぜなら、これは登録して権利取得とその収益独占ではありあせん。
「著作」という表現で、すでに「存在」が公認される制度です。
比して、意匠権・特許権・実用新案権・商標権は、
あくまでも登録です。

果たして、Appropriation、あるいはAppropriation的登録は、
まったく知財権登録では、拒絶・遮断・裁決は明確です。
Business Design Model
すなわち、デザインは、その本質において、
「倫理性」が大きな骨格であるかぎり、
Appropriationは、やや長期であっても「流行」にすぎないのです。
デザイナー職能でのデザイン対価を社会公認させれるには、
決して「盗用」は許されないということです。
私が「Business Design Model」という提案の
背景論理はここにあります。


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