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Posts Tagged ‘サイレントユーザー’


『バブル経済は私たちも破壊したのでしょう』


   


     1月 29th, 2017  Posted 12:00 AM

明治のチョコレートは、私自身がその味を知ったモノでした。
しかも初期のパッケージのロゴタイプは、
デザイナーなら絶対に知っているグラフィックデザイン。
大御所であった故・亀倉雄策氏のレタリングでした。
ところが、グラフィックデザインの切なさというべきか、
全てが小文字表現になってしまいました。
多分、企業には逡巡性があったのではないでしょうか、
もし、時代風潮からの変更であったとしたなら無念だと私は思います。
したがって、このロゴタイプになってからは、私は明治チョコレートを
もう絶対に買わないでおこうとさえ思ったものです。
ちょうどこの時期になると、バレンタインという行事の準備が始まります。
デパートから、バレンタイン商戦始まりとかの小冊子を見て世の中は大変、
正直、呆れながらも、どこがこの商戦にどのような戦術になるのかという
興味がとても私にはあります。若い頃には大手デパートで、
自分自らが「ラブチェアー」という企画展をしたことがあります。
「ラブチェアー」って和製英語ゆえ、「ラブシート」、と、
米国の親友にアドバイスをもらったこともあります。
さて、チョコレートでもバレンタインでもなく、
日本の企業が壊れ出したのは、あのバブル時期からだった気がします。
バブルでの経済の崩壊は、企業にガバナンスとか、
企業は株主のための存在とか、しかもインターネットでの
情報時代=意識革命は、SNSとかのネガティブさが企業存在まで、
とても怪しくして、モンスターなる消費者とか、
サイレントユーザーという、文句は言わないが、
その企業の商品消費は辞めてしまうなど、
性悪説の社会構造が出来上がってきている気がしてなりません。
それこそ、「イジメ社会」も激しくなったようです。
ケータイやスマホがこの社会成立をバックアップしています。
企業の義も善も否定が扇動して、
美は「かわいい」ということに置換されたのでしょうか。
チョコレートの名作だったデザインの変更は、
まさしく小文字だからこそ「かわいい書体」へということは、
私には悲しみでしかありません。
バブル時には私は米国での仕事だけをしていました。
東京が「何か変」だったのです。
バブルは私たち日本人を壊したのかもしれません。

* 「チョコレートの決定打は決まっている」
* 「2/14のチョコレートは天然とヒーリング」
* 『漫画・アニメーションにみる日本独自のロボット観』
* 「泡・バブルって、やっぱり凄いんだって思います」
* 「キティちゃんにて確認できる『安全と安心』」


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『デザインのようなデザインという大誤解の現実がある』


   


     5月 27th, 2016  Posted 12:00 AM

「デザイン」への大勘違いが格段と増殖しています。
正直、この紹介は「怖いこと」であり、
みんなが「沈黙して決して語らない」という風潮が蔓延しています。
しかし、現状の一般認識が「これがデザイン」ということはプロとして、
見過ごすことが出来ません。
「サイレントユーザー」として生きようという決心がすでに「変」です。
無論、それぞれの出来映えにはいわゆる「努力の足跡」があります。
その否定ではありません。
こうしたデザインされたかのような「デザインのような」性質、性能
それを社会制度が黙秘していることに、機能も効能もガラパゴス化して
「日本の危機」が明確だということです。
社会制度は「たかがデザイン」という扱いが明白ゆえに、
敢えて訴求します。
「これらはデザインのようなモノ」に過ぎず、
「デザインでは無い」という再宣言なのです。
しかも、これらはすべて実現していて規制事実なのです。
デザイナーとして、大学人として、懸命かつ賢明に生きてきた者として、
「悲しくて哀しみ」に突き落とされています。
「それならお前のデザインは」、というブーメラン効果が来るでしょう。
向かい合って、決闘する覚悟もし、決意もしています。
まず、「コンセプト」だ、「イノベーション」だ、「デザイン思考」だ、
という発想から解放されるべきです。

「デザインとは何か」が終焉してきたことを主張してきました。
「コンシリエンスデザイン」で三つの定義をしました。
 ● 「問題解決の『応答・回答・解答』があるだろうか。」
 ● 「価値の創出が実現しているだろうか。」
 ● 「未来の創成に連動していくだろうか。」
2020年のすぐ後には日本は国際的な立場を失うでしょう。
わが国の「正しい美しさ」は、デザイン職能が主体的に、
性能・効能・機能で「これがデザイン」を主張し、
共有・共時の価値=好ましさと望ましさを創出創成することです。

*『コンセプトから「ライン発想」の三つの思考空間』
*『デザインは問題解決!・この本質の再整理』
*『愛着と愛用がデザインの全体価値である』
*『鏡映は冥府に降りていることゆえに「何がデザイン?」
*『陽子加速器での核変換デザインによる復興』


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『進化していないクーラーとその工事・現場知らずの製品』


   


     6月 8th, 2014  Posted 12:00 AM

自宅をリニュアル工事=これで実態を把握しました。
クーラーを新製品取り付けになりましたが、私が立ち会いました。
最大の理由は、工事店が最も良いとの評価でしたが、
取り付け位置を大間違い、ゆえ詳細を知る私が見届けました。
工事店の現場の人は大変なことだったでしょう。
かって、Gマーク審査委員長時代に、応募クーラー全てを選ばず、
大問題になったことがありました。やり直しが必要でした。
それは建築関係審査委員たちからも「これは製品ではない」と。
私自身、製品を分解して、全企業全製品が不完全と判断しました。
それからやや進歩?していたのかもしれませんが、
結局、今回工事を見て全く駄目と評価しました。
現在のGマークは選別制度が審査委員自体が無知的をみかけます。
審査委員に選ばれたことを驚喜する作品無しの審査員が増え、
製品知識が大不足審査ゆえ海外への賞応募が増加している有様です。
Gマーク制度の批判は一応控えますが制度の腐敗が進んでいます。
さて、クーラー製品の技術もデザインも設計は遅れています。
現場で再度取り付けのための作業を残し、水平垂直も出せません。
日本の造船と日本の文具を審査した私の本分として見逃せず、
すべての作業を見届け、指示せざるをえなくなりました。
この実態は、マンション業者も、ましてクーラー製品会社も、
社長は知らないでしょうが、「やり直しは必然」のはずです。
クーラーは相変わらず室外機デザインは未熟であり、
単に競合企業同士の「装飾デザイン」はデザインにあらずです。
取り付けの誤魔化しや、子細な取り付け位置間違いなど、
立ち会ったのが私ですから、業者さんは大変だと自覚しながらも、
私は、クーラー全企業、その全社長に提言します。
この製品は「日本のモノづくり」にはなっていません。
所詮、中国での大量生産での儲け主義がはびこっています。
ユーザーは「サイレントユーザー」になっているのでしょうが、
私は厳しく非難しておきます。
当然、取り付け位置間違いはやり直してもらうつもりです。
だれかユーザーが明確に発言提言をしなければならない日本です。
いづれ、日本のGマーク制度は大批判しなければなりません!

『これはデザインの大きな問題である!』
「*貿易国策の一つがGマーク賞制度、その審査委員資格*」


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「沈黙の質、沈黙の美を問い直す」


   


     7月 29th, 2011  Posted 12:00 AM

サイレントユーザー。
商品やサービスのユーザーでありながら、
そのユーザーとして、
商品やサービスに不満や疑念を抱き、
本来なら不平や文句を言うところを我慢する人たちです。
そして、以後、決してその送り手である企業や組織には
二度と近づかない人・ユーザーのことを意味しています。
だから、デザイナーにとっては、
その不満や疑念もわからないままのユーザーがいること、
それはとても怖い存在です。
しかもこうしたユーザーの人が、
一度知人や友人に口コミ的に「あの商品は・・・」とか、
「あの企業は・・・」という話は、
企業存在を破壊する力があります。
いわゆるクレーマー=すぐに文句や不満を告げてくる人も、
ユーザーとしては、商品やサービス価値を貶めますが、
何も不満を語らない人の存在が最も怖いと思います。
私も自分の商品デザインを非難されたり批判されたりは、
常に起こっているものと判断していますが、
必ずこうした「沈黙するユーザー」がいることを意識しています。
若いときには特に購買するどころか使いもしないで文句を言われると、
「冗談じゃない」といきり立ったものです。
そして企業責任のあり方についても、
如何にクレーマーに対処するかというのでは、
それも企業のあり方を歪めるものになってしまいます。
ところで、今日本人は、
サイレントユーザーになってしまいました。
どれだけ不満や望みを伝えても、
現政府や行政に伝わらないならば、
「沈黙」する国民になってしまいます。
それが亡国につながってしまうと考えます。
現政府は国民のパニックを畏れて情報公開を控えている、
この考え方こそ、「沈黙する国民」を増加させています。
「沈黙は美なり」という武士文化も見事ですが、
「沈黙」の質にはきわめて慎重でなければ「効能性」、
さらに「存在性」を確実に失うことになるでしょう。
日本人は我慢強くそしてパニックにはならない知的存在であること、
私はその一人でありたいと思います。
だからこそ、日本人であることに誇りを持てるのだと思うのです。
今、「沈黙」が問い直されているものと判断しています。

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