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Posts Tagged ‘最大’


5月30日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     5月 30th, 2011  Posted 7:58 PM

5月30日 先勝(乙酉)

制御するというのは、
力を小出しにしながら、
最終的には全力を果たせば、
最大の、あるいは最良の効果を
上げることになるのだ。

『デザインという先手』十分なる「先手」


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5月29日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     5月 29th, 2011  Posted 10:00 AM

5月29日 赤口(甲申)

将棋やチェスでも、
次々と対戦相手の手を先読みし、
自分の力を分割しながら、
「勝てる」ように
戦略を行動に移していく。

これが、
「充分ではなく充分に」
ということだ。

『デザインという先手』十分なる「先手」


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「資本主義からの逃走」
  「多様さは公約数性と公倍数性・デザイン要素と要因」


   


     1月 8th, 2011  Posted 12:00 AM

最大公約数
例えば、24・36・60という数列。
これを2で割り、次に3 で割ると、

 2×2×2×3=24=(2×2×3)×2
 2×2×3×3=36=(2×2×3)×3
 2×2×3×5=60=(2×2×3)×5

したがって、因数分解的には2×2×3=12がこの数列で共有。
これが、24・36・60の「最大公約数」greatest common measure=12となります。
この場合の「最大」というのは公約数の素因数が最大を意味しています。
これは素因数から、24群・36群・60群のそれぞれの多様さから、
多数決的にこの群には、12という価値には賛同しているという例示です。
したがって、共有観のある12があれば、この三つの群は賛同するでしょう。
少なからず、24群・36群・60群という多様さに、
12という多数決の基本的な納得価値があることを示しています。

最小公倍数
次に、2×2×3=12という最大公約数に対して、
2と3と5が残りました。
そこで、2×2×3=12(GCM)2×3×5=360(LCM) 、
つまり、360が最小公倍数=Least common multipleになります。
これは、ユークリッドが書き残してくれた 「ストイケア」にこの計算方法がありました。
ユークリッド互除法=Euclideam algorithmと呼ばれていました。
最大公約数と最小公倍数を見比べると、
最大と最小という素因数に実は「多様さ」の度合いがあると考えます。
デザインで応用すると、
最大公約数的なデザインなら、12は、24群・36群・60群には不可欠なデザイン要素であり、
2×3×5をデザインが無視すれば、
それぞれの群がデザインでは実現してもらえなかった要因ということです。
デザインが市場要求性を満足させるには、最大公約数的なデザインをめざします。
デザインが最小公倍数的な要因は、少なからず無視するでしょう。
「多様」と「多数決」を見直す一つの方法だと考えます。


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『資本主義からの逃走』
  「資本主義で民主主義を防衛している大きな錯覚」


   


     1月 6th, 2010  Posted 8:00 AM

錯覚

民主主義は、近代市民権で最高かつ最大の理想主義?。
私はそうは思っていません。
民主主義はある意味では、
「無血革命」での勝利成果なのでしょうか。
そうだとするなら、
「革命」は、民主主義の体制下では不可能だと思います。

だから暴力的な「革命」を私は望んでいるわけはありません。
なぜなら
「革命」と「革新」は、まったく意味が異なっています。
「革命」というだけに、「いのち」がかかっています。
「革命」は血が流れて「痛い・苦しい」はずです。
そんなのは嫌です。
「痛い・苦しい」というのは、
私はどれほど体験してきたことでしょうか。
だから、
民主主義は本来、決して、
痛かったり、苦しかったりでは無いはずです。
ところが、人生・生涯には、痛みや苦しみがあります。
それを民主主義が全て解放してくれるわけではありません。



「革命」の革という象形文字は、解体された獣の皮です。
「ピィーン」と張った「革」に刃物を入れることが、
「革命」・「革新」の「革」を表示しています。
私はもう一度、問い直します。
民主主義は語られれば語られるほどの理想主義でしょうか。
絶対に「民主主義」が大きな隠れ蓑になっていると思います。
その隠れ蓑を補強してきたのが資本主義かもしれません。
そろそろ、民主主義が民衆主義を言い換えている、
その事実をあぶり出す必要が私はあるとさえ思っています。
資本主義と民主主義の狭間に常に起こっているのが「錯覚」。

私はこの「錯覚」を見極めてこそ
「美」・「義」・「善」が、
やっと自分の表現に込められると考えています。

美・義・善


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