12月 13th, 2011 Posted 10:00 AM
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6月 18th, 2010 Posted 12:00 AM
景観
景観は三つあります。
「光景」・「風景」・「情景」です。
「光景」は、乾坤に光ある世界は「生と死」があるのみです。
この世界は創造神によって創られたという伝承が歴史の始まりとなっています。
「風景」は、
日食・月食・彗星・雷鳴風雨という自然と人間の世界にほかなりませんから、
風景観に、自然神への畏敬が生まれたと考えるべきなのでしょう。
そして、「情景」です。
「情景」は人間と人間とが織りなす関係性の場面です。
この世界に神は存在していません。
「情景」には、性悪と性善が交錯し、
人間関係の景観にほかなりません。
性善だろうが性悪であろうが、エネルギーの対決が景観となって「情景」です。
このやりとりを「情報」だと言ってもいいでしょう。
「情景」でのエネルギーは、隠喩としての人間の活力であり、
直喩としての人間関係力になるものと判断します。
そこで、「風景」のエネルギーは、
すべて「自然力」、それも恐怖ゆえに畏敬するべき力に他なりません。
さて、それならばあらためて「光景」の力のエネルギーは、
すでに枯渇寸前の化石燃料でもなく、
これまでの水力発電、火力発電ではないことになってきました。
光景に向かわせる原子力
乾坤世界へ、神をも怖れぬ科学がたどり着いた「原子力」は、
「光景」に向かっている人類の知識の総結集です。
果たして、人類は、「風景」に抱いていた畏敬をも忘れ、
「光景」に、原子力というエネルギーの利用へと進み出しています。
私は、「景観」から得られるエネルギーと「景観」に反抗するがごときエネルギーを
バランス感覚で見詰め直さなければならないと考えます。
「原子力エネルギー」は、
本来、創造主によって生み出された「光景」に差し出す「祈り」と「願い」、
その知恵で有るべきでしょう。
震えるほど怖い「原子力エネルギー」に、
もはや、人類は「救い」を求めなければならなくなってきたことは確かです。
デザインという知恵の対象
私は、景観=光景・風景・情景に原子力エネルギーを、
推進派でもなければ、反対派でもない立場から、
デザインという知恵が
「祈り」、「願い」、それは「救い」を求めることになるのだろうかと熟考じてきました。
結論は、「デザイン」から「原子力エネルギー」に取り組んでみようと考えます。
「デザインが原子力エネルギーと、どう対応していくか」を
まっすぐ差し出してみます。
それは、「光景」に「祈り」・「願い」・「救い」の作法を
デザインで組み立てるべきであることを問いかけてみるつもりなのです。
Tags: 乾坤, 光景, 化石燃料, 彗星, 性善, 性悪, 情景, 救い, 日食, 景観, 東芝4S計画, 祈り, 自然力, 雷鳴風雨, 願い, 風景
Posted in 032「景観にある原子力」, 資本主義から逃走せよ!
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