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「現代日本を憂う情報・憂国のパロール」


   


     7月 19th, 2012  Posted 12:00 AM

3.11以後のわが国・祖国を憂います。
ちなみに、大震災・原電事故・現政権への不信などを
ともかく、「日本の選択」から「反原発の思想史」から、
単なる商品書籍的な評論から、とんでもない粗悪本、
つまり右から左までを読みあさってきました。
最も私は祖国という表現をするほどですから、右よりと、
時には罵られているような書き込みも目にすることがあります。
「私なりの新保守主義」を創出したいと
目論んでいることは間違いありません。
基本は、父や祖父達が敗戦から創り上げてくれた「楽園だった日本」、
特に、日本の伝統美と自然美を護り抜きたいからです。
それも、デザイナーという職能で
表現していくことに徹したいと考えています。
私は、「政権交代」に賛同は最初からしていませんでした。
どうしようもなくて自民党に投票しました。
それは、民主党では経験不足は明白、
だからといって自民党という迷いの中でも政権交代には反対でした。
結局、そこにこの国難です。
的中しました。党則も無い政党は、イデオロギーさえ混乱していて、
「リーダーシップ力」など求める方が無理だったと思っています。
私は、もう政党政治も困難であり、
議会制民主主義も限界にきているという判断にいきついています。
それは、資本主義と民主主義に呪縛されてきた、
そんな現代史から開放される最期を見届けることになるのかもしれません。
「憂国のパロール」を私はデザインでささやかに支えるつもりです。


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「緊急課題になった『リトルネッロ論』の再考と具現化」


   


     7月 17th, 2012  Posted 12:00 AM

このところ「危機」関連に囚われています。
3.11からこの「経験したこともない豪雨」や竜巻に及ばず、
社会環境・時代環境が取り巻いている「危機状況」です。
それは子どもの世界においては「いじめ」になっています。
虐め・苛め=「いじめとひらがな表記」がすでに、
わが国の曖昧さを
さらにだらしない社会にしてしまっているのかも知れません。
今私は「危機管理デザイン」に関して
重大なデザイン領域を間もなく発表します。
そこで、ドゥルーズとガタリが持ち出した
「リトロネロ」を再検討すべきだと強く思い直しています。
私は、倉俣史朗の評論のために、
この言葉と概念を中村雄二郎先生の「精神のフーガ」から学びました。
最近は、SNSが変貌させたデモに、
非暴力性やサウンドデモ形式の評論用語に、
「リトルネロorリトルネッロ」が登場します。
簡潔に言えば、
子どもが薄暗くなってきた自宅への帰り道で、
闇への恐怖感を押し殺すために鼻歌を歌って、
自分を勇気づける音楽のリフレインを意味しています。
要は、恐怖感を自分の中で、
鼻歌を歌うがごとくに解消しようという積極性を
与えていくことと言っていいでしょう。
私は、この哲学用語を倉俣史朗の「How high the moon」と題された
エキスパンドメタル製のソファデザイン、
その解釈と解説に適用させました。
ところが最近、わが国での新しい形式のデモや、
「危機管理」=命の護り方すべてにあらためて、
この言葉が哲学用語として
最重要なキーワードになってきていると実感しています。
まさに、「苛め・虐め」での子ども達の自殺は、
自殺教唆そのものであり、
自分の子ども時代を振り返っても、虐められた経験から、
自分はどうしてきたかを思い起こしています。
私は転校の度に、苛められましたが、
相手は大抵が集団です。一人っ子の私を虐めるのは兄弟たちでした。
だからその集団を分解して、一人一人にやり返す、
そんな途轍もない不気味さを演じて逃れていたと思います。
そんな時も、
どこかで「鼻歌をリフレイン」している自分を思い出すことができます。
絶対に、相手への恐怖感を与え直すことが重要ですが、
それよりも、自分を勇気づける「リトルネロ」を持つことが重大です。
「リトルネロorリトルネッロ」論を
現代の全ての危機管理の思考下敷きにできることを記しておきます。


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「ロボット・『舞』の意図すること」


   


     4月 27th, 2012  Posted 12:00 AM

「ロボット」、その言葉=戯曲からの由来はすでに教科書的です。
が、その由来名辞から解放されているとは言い難いと私は思っています。
J・ボードリヤールは「物の体系」で、
「ロボットは想像的なものの局面が神話として
到達したものに他ならない。
それは目に見える機能性の投影という局面である。」と、断言。
私は、わが国のロボット学者や企業は、
ヒューマノイド系とメカノイド系に
輪郭化されていることに不満がありました。
この指摘を「私のロボットデザイン」で
評論的な表現にモデル化したいと考えてきました。
ベースは、中村雄二郎先生の「形態論」と「身体論」です。
「形態論」=安心+安全であり、
「身体論」=安全+安心として再考すると、
スポーツや舞踊が引用できると結論づけることができました。
ところが、「舞踊」は日本だけでなく、
世界中の「踊り」が見事に二分できるとたどり着いたのです。
それはボードリヤールの指摘からも、
ロボットという名辞からも解放されるデザインから
技術仕様を決定していく一つの「基礎学」でした。
「舞」は、足裏を決して見せません。
能舞が日本の伝統芸能として的確でした。
名前も『Nomenclator』という古代ギリシア語を選別しました。
「Nomenclator」というのは召使いですが、
データを把握している情報マンのことです。
誰かが歩いてきて領主的な主人に挨拶をすると、
「あれはどこそこの誰で、先般、病気をしていたとか」、
性格や立場を主人様に伝達する奴隷でした。
しかし、人間ゆえに「感情を持っている」という決めてがありました。
だから、私のロボットは呼び名を変えて、足裏を見せないで行動し、
なおかつ感情=泣いたり笑ったりという表情を、
ヒューマノイドでもメカノイドでもない
形態の身体化を図るということでした。
これは私の人工心臓の究極である「感情=交感神経β1と副交感神経β2」で
鼓動しているような「性能化」感覚と一致しています。
例えば、帰宅すると出迎えてくれて、
ユーザーの想いを共有してくれることが目標意図になりました。
これは大阪大学に特任教授となったときに、
阪大フロンティア研究機構で、ワーキングモデルとして、
「感情共振」=Emotional Domainまでへのアドバンスデザインとして
開発具現化できました。
このモデル化は「玩具性」を離脱する一つの方法だと思っています。

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