4月 25th, 2012 Posted 9:30 AM
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4月 25th, 2012 Posted 12:00 AM
NHK番組で
「頭がしびれるTV」の企画がきました。
「黄金比」をテーマにとのことで、
メールで質問を受け、
担当ディレクターが来学してインタビューを受けました。
結局、収録して私も出演することになりました。
「黄金比」は古今東西、
歴史の中で一つの美学的基準としてはゆるがないものです。
美大時代からまず学んできたように思います。
なぜなら、黄金比を意識してデザインするということではなくて、
デザインし図面化したときに、寸法チェックしてみる私なりの手法です。
特に気がかりなのは、私の先祖が宮大工として、
徹底的な「割図」をして宮大工をしていたことは明らかです。
300年前の図面を伯父から譲り受けて現物図面で確認していますし、
時々取り出してこの「割図」を凝視することがあります。
宮大工道具としては曲尺で十分にこの割り出しが可能です。
そして、
私は万年筆マニアでもあるので、VISCONTIにこのセットがあります。
限定生産品ですから、もう手に入らないかもしれません。
またVISCONTIの万年筆は、万年筆でも別格です。
あるホテルのバトラーの方がサインを入れるときに、
VISCONTIを差し出されたとき、
やはりそのホテルは別格だと感じました。
そのことを告げると、
「もう見分けていただけるゲストは年々減少しています」
と告げられました。
私は、この黄金比よりも白銀比に興味があります。
黄金比はフィボナッチ数との連関は見事です。
しかし、私はむしろ葛飾北斎の『冨獄三十六景』の「神奈川沖浪裏」や
竜安寺石庭は、
黄金分割の論理を熟知していて仕上げられたものとは思えません。
だから、私もデザイン設計の始めから意識して
黄金比や白銀比を使おうとは思っていません。
けれども教育として、
歴史的な美術作品・建築、自然界の様々は知識獲得のためには不可欠です。
だから、
iPhoneアプリでこの計算機を研究室で作成し販売しています。
収益はPKD活動(Peace-Keeping Design)のデザイン実現に向けています。
おそらく、デザイナーを天職としているので、
きっと生涯、
黄金比・白銀比の世界をいっぱい見ておくことと
デザイン設計結果が適合することを常にめざすでしょう。
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4月 24th, 2012 Posted 9:00 AM
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4月 24th, 2012 Posted 12:00 AM
フリーになっても、オーディオデザインで生きていく、
その気持ち、志は変わっていませんでした。
東芝Aurexでは、音響機器の工業デザインに留まらず、
イベント企画=Aurexコンサートやオーディオフェアなど、
ショールーム設計、レコード編集、量販企画まで
なんでもかんでも興味いっぱいに首をつっこんでいました。
意匠部長(現デザインセンター長)にはしばしばしかられつつも、
チーフがいつも私の自由行動を許してくれていました。
実際は意匠部長もかわいがってくれていたのです。
上司には本当に恵まれた東芝は、私を鍛えあげてくれていたのです。
音響機器デザインをより拡大したい、
この想い、デザイン領域の拡大という志は今も変わっていませんが、
オーディオにビデオアート・作曲録音・多チャンネルHi-Fi再生を
作品化しようとしていました。
30-Channelというのは、
30個のフルレンジスピーカー=ロクハンを曲に合わせて
一個一個制御しようと考え実現しました。
リレー回路でSPチェンジするプログラマブルコントローラーでした。
今ならパソコンで簡単に可能です。
しかし、この投資は発表はできませんでしたが、
現在、「アンビエントアライアンス」に繋がっています。
「興味を持ったら、徹底的に納得するまで実行する」。
これこそ「行学」の基本だと私は思い、行動を起こしてきました。
どれほど当時は無駄遣い=浪費したかしれませんが、
人生において重要なことだと考えます。
だから、このことは教育者としても、
自分で作為的に重ねてきた経験ですから、
学生、次世代デザイナーには強調主張しておきたいと思います。
そして、そのようなことを試みているデザイナーということで、
フォーライフ・レコードや
「流行通信」、PLAYBOY 誌や平凡パンチ誌にも伝わり、
フォーライフ・レコードからデジタルガレージ設立や
「流行通信」に連載を持ちました。
けれども、徹夜仕事やメチャクチャな生活習慣で、
すっかり体調を著しく悪くしてしまいました。
父や金沢美大の恩師からも「帰ってきなさい」、
常に診てもらっていたドクターから
「ふるさと」へ帰れと命じられてしまいました。
丁度、ジョン・レノンが暗殺されたこともあり、
(私の青春は終わった)との気持ちいっぱいになり、
大きな挫折感を持ちながら、56豪雪になろうとする福井に戻ったのです。
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4月 23rd, 2012 Posted 11:06 PM
4月23日
またまたヘッドフォン三昧の
BOSS(川崎和男, Kazuo KAWASAKI)
そして数種色の色展開がありましたが、
BOSS定番色?のブルーをチョイス。
パッケージ凝っていました。
この分割です!モノの写真ではなくて、
パッケージ写真のみですが、
音もなかなかの音質とのことでした。
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4月 23rd, 2012 Posted 10:46 PM
4月23日
ボスの母校である
福井県立高志高校の同窓会にて
ムービーを通し母校への想いを語る
BOSS(川崎和男, Kazuo KAWASAKI)
そのための
ムービーインタビューがありました。
高志高の3世代にわたる卒業生の中で
第1世代代表として
インタビューを行いました。
楽しかった高校時代の想いで、
大幅に予定時間を伸ばしてしまったですが、
インタビューに来られた方も高志高の後輩で
高校時代から地元の原子力問題まで
幅広く話しができ、
とても有意義な時間でした。
地元福井への深かい愛情を感じました。
また、インタビューの後は
就活中の川崎研究室博士前期課程の学生
二人の面接アドバイスも。
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4月 23rd, 2012 Posted 9:16 PM
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4月 23rd, 2012 Posted 12:00 AM
フリーランスになったとき、
これまで周囲の親しい人たちが急に冷たくなりました。
東芝関係で親交のあった人たちは、
私が東芝社員だったからやさしかった、
このことを思い知らされました。
しかし、本当に心ある人たちは私を支援してくれました。
その支援で、やりたかったことに投資というか浪費をしました。
シンセサイザー・4chデッキ・ミキサー などを買い込み、
現代音楽のようなものを作曲し、
その再生システムを本格的に造りました。
まだマイコンがようやく4bitの時代でしたから、
リレー回路でプログラマブルコントローラーと
30個のフルレンジでトーンゾイレタイプの
壁面スピーカーシステムを造りあげました。
これは2chに音楽をステレオ録音し、
2chで左右にどのスピーカーを鳴らすかという制御システムでした。
プログラマブルコントローラーは4800カ所ハンダ付けが必要でした。
それはまさに日本人のエンジニアが出来る「技」でした。
だから「伝統工芸」だと考えて、
当時、京都で行われた伝統工芸展に出品しました。
当然コンペ事務局から受け取れない旨の通知がありました。
それは想定していたことです。
やがて、このエピソードを残しておけば、
必ず「君の作品だったのか」ということになると想像していました。
それは意外と早く訪れました。
日本デザインコミッティで
「デザインフォーラム銀賞」をいただいたとき、
コミッティのある先生が京都でのコンペ審査委員でもあったので、
その話をしたとき、
「あれは君の作品だったのか」ということになりました。
さらに、このシステムを当時「ビデオアート」が騒がれ初めていたので、
ギリシアの現代音楽とビデオアートコンペにも出品しましたが、
見事に落選しました。それでも一向に構わない、
いづれ私はそのアーティストにもなれるはずだとうぬぼれていました。
シェーンベルクやクセナキスに憧れがありました。
だからシンセサイザーで作曲し録音し、
さらに30個のスピーカーで自動演奏させるシステムづくりに、
デザインで得たデザイン対価はすべて注ぎ込んでいました。
今や、当時のシンセサイザーはiPadのアプリになっています。
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4月 22nd, 2012 Posted 9:30 AM
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4月 22nd, 2012 Posted 12:00 AM
関東労災病院でのリハビリテーションを終えて、
私は赤坂にデザイン事務所を開設しました。
1978年でした。
まだ東芝社員のままに独立を許諾されたのです。
ただしオーディオ関連以外のデザインに従事することが条件でした。
しかも給与は支給されていました。
ただの直感でデザイン事務所名は「Super Edison」でした。
技術・エンジニアリングを意識し、
「デザインは発明でもなければいけない」
という柳宗理先生の思想を込めたネーミングでした。
たまたま、米国人のモデルがガールフレンドの一人だったので、
彼女は来日すれば仕事休日に、モデルとして手伝ってくれました。
それで、デザインスタジオのプロモーションスライドづくりです。
当時は口コミだけでデザイン依頼をしてくるクライアントに、
「Super Edison」のスライドとオーバーヘッドプロジェクターで、
スタジオでのデザインワークプロセスなどを見せていました。
工業デザインの仕事よりも、
イベント企画や商店街活性化企画をしていました。
とてつもなく大きなイベント企画ばかりしていたようです。
ちょうどピンク・レディー全盛期で、
新宿で新築の最高層ビル「野村ビル」屋上で、
紅白歌合戦終了とともに日本で最大の鐘を突き「ゆく年くる年」をやる。
そのために高岡で鋳造されている直径2mの鐘を東京まで陸送、
それは陸運会社のTVCFにし、
屋上には陸上自衛隊のヘリコプターで下ろしてもらうという企画、
実現いよいよとなりました。しかし、
澁谷のNHKから新宿まではパトカー先導ということまで決まったのですが、
没になりました。
ある仏教系からの文句が大きくて
「とんでもないそれは除夜の鐘の冒涜だ」という批判で中止になりました。
東京のある商店街通りに、
パリのごとく「花街道」にしようという企画、
そのために花咲く季節前にビニール栽培をしていたら、
その花が突然すべて枯れるということもありました。
それから3/4インチビデオ撮影スタジオ業もやり始めていました。
また新宿に高層ビルが竣工となり、
その屋上にハリウッドから実寸の映画モデル「ゴジラ」を座らせる、
なんてこともスタッフがハリウッドの演出会社を説得し
船便で運んで来る企画も実現間際に、
消防庁の許諾どころかお叱りを受けたりしました。
すべてが失敗していたわけではありません。
晴海埠頭にあった晴海の見本市会場では、
「日本オーディオフェア」で展博ディレクター。
1988、1989とあるメーカーを人気No,1にしたこともありました。
東芝時代には東芝でのディレクターをしていたので、
開催前日、ディスプレーデザインのチェックには
会場内まで自家用車・当時はGMの「モンザ」で乗り付けると、
顔なじみの展博屋さんたちが大拍手で迎えてくれました。
「よくがんばったな」
「生きていてくれてありがとう」
「流石にまったく新しいディスプレーだ!」
「車椅子になったからさらに神がかりな展示だ」なんて言われて、
長髪の頭をみんながぐちゃぐちゃにしながら撫でて喜んでくれました。
(あぁー、自分はオーディオのこの世界にまた戻れた)と、
大笑いしながら泣きました。
毎日、でかいイベント企画、その発想の楽しみを懸命にすることで、
寿命は40歳まで(当時のドクター診断予知)という重くて真っ暗闇、
心に突き刺さってくる「哀しみ」と闘っていました。
1%の精進で 99%は死に向かっていく諦観を心に留め、
ともかく明るく振る舞っていました。
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