kazuo kawasaki's official blog

Archive for 8月, 2011


8月5日Staff Blog


   


     8月 5th, 2011  Posted 5:18 PM

8月5日

身の回り品を常に選別、更新している
BOSS(川崎和男, Kazuo KAWASAKI)
最小限のアイテムに絞ることは難しく
移動にはたくさんのモノと同伴です。
デジタルペンは、ただ今は、echo、
i Phoneのカバー一新して所持。
先週までは、
ホワイト系で統一されていましたが。


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8月5日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     8月 5th, 2011  Posted 10:00 AM

8月5日 赤口(壬辰)

もし、ものづくりに
サービスを加えるとするなら、
それはより使い勝手や手抜きのない
成果物を仕上げるということだ。

『デザインという先手』手抜き 不可欠である誠実さ


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「『闇』につながるケーブル」


   


     8月 5th, 2011  Posted 12:00 AM

とてつもない私の想像です。
想像世界に「闇」を置いた話です。
「闇」は音・音響が包含されています。
必ず含まれています。
しかも、無音もしくは神の音響空間です。
私は『闇」とオーディオの関係をここに見つけ出します。
おそらく、「闇」空間だとするなら、
私が重篤の中、現実か想像か、妄想かもしれませんが、
けれども確実に「生と死の空間」です。
だから通俗的にはオカルト的な妄想かもしれません。
しかし、私はこの妄想的かも、という想像力に、
「闇」と音・「音」とオーディオ・「オーディオ」と闇の構造を観ます。
つまり、オーディオがオカルト的と言われる所以かもしれません。
そして、私は、このオーディオ=音響を駆動させるエネルギー、
このことに言及していくことになります。
それはエネルギー=電力です。
日本では100V・50Hz/60Hzという世界で最も不効率で、
電力質最悪な交流送電を受けています。
私は、闇の具体例で音響・オーディオを考えるとき、
オーディオ電源、その送電ケーブル自体までをツールとしてみます。
すなわち、オーディオの質はケーブルで変化するという問題です。
私は明らかに変化すると体験しています。
発電され送電されてくる電力は一定ではありません。
100V・50Hz/60Hzの質を完全に一定化させなければなりません。
オーディオ電源装置を介在させ、
そのケーブルをより高密度なモノにするべきなのです。
そうすれば、オーディオの音質、
すなわち「闇」空間の質が保持されます。
結局、フクシマ原発事故によって、
日本は「脱原発論議」の中に放置されましたが、
100V・50Hz/60Hzの質までは誰も考えてはいないでしょう。
ところが、現実的には「闇」とともにある日常性、
そのケーブルにこそ、「闇」とのインターラクション性があります。
「闇」につながっているケーブルこそ「生と死」の狭間空間「闇」を
現実にコントロールしているのです。
私の想像力は、電力の質まで議論すべきだと自責しかけてきます。
まさしく放射能には「質」の問題があるのと同様の話です。
電力の質は、メディカルコードがあるように、
医療用電源はその質が、生命と関わっています。
オーディオには確実に「闇」空間へのケーブル・コード問題は
とてつもなく大きな問題解決の具体実例というわけです。

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8月4日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     8月 4th, 2011  Posted 6:13 PM

8月4日 大安(辛卯)

サービスとは、
保護であり介護であり援護である。

こうした行為に手抜きはあってはならない。
ものづくりにサービスという項目はありえない。

『デザインという先手』手抜き 不可欠である誠実さ


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「『闇』に統合されている意味要因」


   


     8月 4th, 2011  Posted 12:00 AM

闇=ψ{音・暗・響・意}。
闇が含んでいる意味性のことばは、
音・暗・響・意を飲み込んでいます。
ψは美度性を表す記号を引用。
闇には音・響が、耳鳴りとしてあるかもしれません。
そして暗=光がありません。
その暗闇で音響の有無も無い空間だとすると、
本来あるべき意味性までが剥ぎ取られています。
ここからは、私の体験、重篤状況と言われていても、
私自身は闇空間に身体があります。
その空間には三度行って帰って来ました。
最初は交通被災で胸椎を圧迫骨折、
胸骨六本内二本が肺に突き刺されて呼吸困難。
一日放置で体力有りとなって手術。
私は闇空間に居ました。
音響無く、遙か彼方に光の輪が見えていました。
次は、越前和紙産地で和紙見本を紙漉していて心臓発作。
気絶していましたが、全く同じ闇空間に浮いていました。
そして敗血症で多臓器不全寸前まで闇空間。
これら三回とも同位相の闇空間には遠方に光の輪。
この輪に吸い込まれていきます。
とても快適で快楽性があるほどですが引き戻されると、
途端に悪寒・嘔吐・高熱が始まります。
この三つの病態が幾たびもサイクルになります。
私はこの闇空間が現世と彼岸の間にあることを実体験しています。
おそらく、これがいわゆる臨死体験なのかもしれませんが、
私は体験しながらも確信も信用もしていません。
むしろ「闇」といわれる空間性の意味に、
音・響・暗・意が包含されていることを確認しています。
まず、闇空間に位相に音響と光の関係を考えることが出来ます。
私はあらためて「闇」の意味の中に自分を配置してみます。
それが、自分を思考停止にする大きな圧力と考えるからです。
思考停止には暗闇・音響・光が介在していると思います。

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8月3日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     8月 3rd, 2011  Posted 9:30 AM

8月3日 庚寅(仏滅)

自己主張には、
絶対に、
思い切りのよさが必要である。

『デザインの極道論』すがすがしい


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「人は『闇』に生きていく」


   


     8月 3rd, 2011  Posted 12:00 AM

『闇』に人は囚われています。
闇の実感は「音」ともに存在。
それは漢字の意味にも示唆され、
「生きる」意味に直結していると思います。
闇の世界、闇世界とは意味が異なります。
闇世界=「やくざ世界」を比喩していますから除外しておきます。
さて、人が対峙するのは、三つの闇の世界です。
社会現実の闇の世界、これは知る人知らない人がいるでしょう。
リアリティの闇の世界です。
知っていても、決して触れられない世界、世界観があります。
バーチャルの闇の世界。
これはイメージ世界であって、個人性や個人的な想像世界観です。
そして、本来の闇の世界というのが、真実としての闇です。
すなわち、私たちが「生きている現実から死まで」の闇です。
パウル・クレーが最も見事にこの世界哲学を視る方法を、
ことばとして、理論として書き残してくれています。
「カオス」から書かれている「造形思考」の記述があります。
イメージをいわばプリコラージュできるという記述です。
私が闇を最も意識し認識し、「音」世界で追い求める動機です。
さて、闇の世界に想像が届くかどうかを人は毎日対決しているのです。
私たちは「闇」から生まれ「闇」の世界に戻ります。
「生と死」は闇の世界観そのものでしょう。
だから、私たちが生きていくことが突然断ち切られるのは、
常に傍らには「闇」=カオスではなくて、
ブラックホールの淵に居るのでしょう。
きっと私たちは闇を最も怖れるからこそ、
「音」≒「音楽」で支えられているのだと私は思っています。
闇とはアナロジーでもメタファーでもなくて、
「生きていく」ことのレトリックだと考えています。

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8月2日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     8月 2nd, 2011  Posted 9:30 AM

8月2日 己丑(先負)

自分の権利を
きっちりと行使するためには、
その権利を保持している意味としての
義務を考えて、
必ず義務を果たすことで権利が
成立するということを
矜持としていたいと
自分に言い聞かせている。

『デザインの極道論』すがすがしい


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「Blog形式変革に喧嘩を売ります」


   


     8月 2nd, 2011  Posted 12:00 AM

私のこのブログは、
すでに4年間毎日記述。
体調が悪くて発熱しようが、
定刻0時を越えて明け方近くであっても、
書き続けてきました。
予定通りのアップがないと知人から心配されたりします。
それはともかく毎日、ことばとかたちに向き合う私なりの決め事です。
私の性格は、一旦ヤルと決めたことは絶対にやりぬくことです。
これは祖父と父からの教えを受け止めてきたからだと思っています。
いわゆる「男の子」(この言葉はセクハラ用語)として、
ヤルと決めた事をやり抜けば、必ずそれは報われるものでしょう。
何が報われるかといえば、極めて「男の子」という望みにすぎません。
しかも私にとってそれは、モノの世界、
自分の日常性を包んでいるモノの体系にすぎません。
たとえば万年筆からファッションでの好きなアイテムだけの世界です。
しかもデザイナーという職能になれた幸運さで、
モノの体系には、素材から製造・生産、そして消費構造までに、
知識より知恵を巡らすことに一喜一憂しています。
オーディオが好きですから、ようやく1万曲=200Gをリッピング。
社会人になった時にはオーディオ、
いや美大の卒業制作も「3Dステレオシステム」でした。
今でいう、2.1ch=左右に中高音で一つの低音(ウーハー)です。
それよりも今、Social NetworkやCloud Computingの
より具体的な展開のなかで、
私はBlog形式をSocial NetworkではFacebookで、
閉じられたCommunityでの発言をしていくべきかと悩んでいます。
すでにデザイナーとして積み重ねてきた記述ノートの公開も、
自分で電子出版形式を取り入れました。
「好き嫌い」を明確な「わがまま」で
記録記述していく時代かもしれません。
実情は、Cloud サーバーの海外企業やSocial Networkでは、
まだまだ概念だけが先行しています。
その代表的な活動に「自分の情報発信性」を開示してみようかと、
私は賢明に熟慮している最中です。
こうした考えを突き動かしているのは、実に曖昧で、
「男の子」としては見過ごせない事が多発し始めているからです。
「時代・近未来に喧嘩を売ります」。
それは、今の自分の残された時間と自分に喧嘩を売るためです。

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8月1日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     8月 1st, 2011  Posted 11:57 AM

8月1日 戊子(友引)

喧嘩師を名乗っているんだから、
この虚像は、
もうこれを変更する気持はまったくない。
しかし、
実像は常に虚像化されるという
あやうさをあくまでも知っているつもりだ。

『デザインの極道論』すがすがしい


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