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Archive for 7月, 2011


7月22日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     7月 22nd, 2011  Posted 10:00 AM

7月22日 先負(戊寅)

ものづくりの基本は、誠実さである。
なんだか、とてもきれい事で
教条的なことを書き連ねているが、
敢えて、自分にも言い聞かせなければ、
この風潮の中で、その基本すら私も
見失ってしまいそうな気がしてならない。

『デザインという先手』手抜き 不可欠である誠実さ


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「光陰の下で佇む姿勢」


   


     7月 22nd, 2011  Posted 12:00 AM

今、日本は哀しみの中。
この国難の中で、
哀しみは次々と巡っています。
3.11、あの日のことを
私たちは決して忘れることはないでしょう。
しかも、台風も巨大であり、
自然の猛威に私たちは晒されています。
だからこそ、もう一度佇んで観なければいけないのでしょう。
「考」という文字が教えてくれています。
この漢字の源は「老」です。
老人=白髪で腰が曲がった形象を示しています。
そして、この老人が杖をついて佇んでいる形象が「考」になります。
つまり、考えるというのは、
老人のごとく、経験から知恵を紡ぎ出す行為ということになります。
私は、「考える」ときには、まず経験がベースになり、
それを補完するように人間や歴史が思考してきたこと、
それが経験から「学」なり「論」なり、となっていることが基盤です。
「佇む」こと、その心の中には哀しみがいっぱいあり、
哀しみがあればあるほど見過ごしてしまうことがかえって増えます。
これは私の実体験です。
見過ごしたことは膨大です。
したがって、最も重大なことは佇んでいる姿勢が問題です。
自然の猛威は光景=光と影、まさに光陰を投げかけています。
この光陰は猛スピードであって、立っているどころか、
佇んでいる姿勢を保つことさえ出来がたいと思います。
哀しみが怒りとなれば、佇む余裕どころか攻撃姿勢となり、
喜びと楽しみは、佇むことを一時忘れてしまうものです。
私は、たとえば本当に今の時代、
光陰のごとき事象すべてを見渡して佇む必要性を感じます。
あらためて、このまま情報化の進展が「クラウドだけ」に、
エネルギーのあり方が「脱原発だけ」に、
もっと国際的な関係論が「民主主義だけ」に、
自然と技術が「調和だけ」に、などなどに想いを巡らして
「佇む」姿勢保持で光陰を受け止められるのかということでしょう。
私に突き刺さってくる「光陰の矢」はまだまだ多いようです。

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7月21日Staff Blog


   


     7月 21st, 2011  Posted 10:08 AM

7月21日

増え続け
BOSS(川崎和男, Kazuo KAWASAKI)
常に更新しているへッドセット。
JAWBONEのシリーズは、
日本で販売される以前は、
NYのApple storeで入手していました。
これは、
骨伝導のモノで通話、音楽が楽しめます。

今最も使用頻度が高く、
音の満足度が高いとの評価、
B&Oのベッドセット。


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7月21日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     7月 21st, 2011  Posted 9:30 AM

7月21日 丁丑(友引)

言語道断の世界から
解放されながら、
それでも言語の連載環の中で、
「道断=言わず」と想いつつ、
かたちで言い尽くしたい!

そこに
デザインの世界があるはずである。

『デザインの極道論』あとがき


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「後世への最大遺物は熟考すべきこと」


   


     7月 21st, 2011  Posted 12:00 AM

「後世への最大遺物」
内村鑑三の著作があります。
彼はキリスト教徒の一人です。
私がこの著作を読んだのは、
交通事故被災で入院していたときでした。
入院中はひたすら読書をしていましたが、
その時、最も驚愕した書籍でした。
それは、私の予測を遙かに討ち揺るがす、
ある意味では私自身への事件だったと思っています。
まさか、自分の生涯において後世に残す物の第一番目、
それが「お金」だと書かれています。
彼が後世への遺物として残すべき物のことが、
講演記録が著作になったものですが、
「なぜ」と考えさせられてしまうからです。
確かに、お金の効能はとめどなく大きいことが確実です。
今般の大震災にあっても、せめて寄付・義援金を考えました。
そして100億円を寄付した人物や、
スポーツ選手やタレントさんたちの寄付金額を知ると、
如何に自分にはそれだけの蓄えが無かったことに、
あらためて自分自身への無力さで愕然となります。
さらに職能家としてデザイナーにはとても高額な寄付、
それが不可能かを思い知らされました。
無論、だれか同業者でも高額な寄付をした人がいるでしょう。
こんな寄付すらできない自分を情けなく思っています。
誰もが「お金」の効能は間違いなくあることは知っています。
内村鑑三もこのことを最大遺物として述べていますが、
それ以外にも最大遺物が何であるべきかを決定しています。
それでも私なりに、今般本当にわずかな寄付をしましたが、
ただしそれが政府系に渡った途端に、
それは被災地に届いていなかったことには怒りを覚えます。
現政権の無能力さを書きとどめておかなければなりません。
以後、それなりに出来るだけの寄付をと考えています。
そして、それは直接、被災地の県、市町村宛が確実です。
人生において自分の最大遺物をどうするべきかを、
私もそろそろ準備をしなければなりません。
この著作には、当時は評論家と言われた人の名前があります。
しかし、今となってはそうした評論家の言説も名前も不明。
著作にも彼らの名前すら歴史には残らないと書かれています。
是非とも、一読をすすめます。
生涯において何を残すべきなのかというのは大きな問題です。
父は私に「美田残さず」と言い続けていました。

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7月20日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     7月 20th, 2011  Posted 9:30 AM

7月20日 丙子(先勝)

願わくは、
デザイナーをめざす次世代の若者に
「言語道断の世界にこそ、
 かたちが生まれてくる」
ということを伝えたい。

『デザインの極道論』あとがき


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「なでしこJAPANと国民平等意識」


   


     7月 20th, 2011  Posted 12:00 AM

女子サッカーチームの優勝。
大和撫子のひたむきさは、
世界中に大きな感動を与えました。
私は、現状の国難に咲いた日本人の華として、
その精神性へのすがすがしさに共感します。
さらにこれを強く明記しておく必要性を覚えます。
つまり、日本中が驚喜し感動し感激し、
そして彼女たちの活動を心底から感謝する「きもち」こそ、
日本人としての平等観であり日本人の存在性を示唆するものです。
しかしこの平等観の認識を日本は自虐史観で欠落してしまいました。
最大の原因は民主党政権の政府機能がまったくの無毛さ、
これを引き込んでしまったことが証拠です。
よって、国民は政権にも政府にも期待どころか、
不信感しか持ち合わせなくなったことにつきます。
彼女たちが「世界一」であることを、
現政権の閣僚達が賛美してはならないと意地悪に考えます。
それは彼ら自身の政策基盤理念を放棄したことでもあるわけです。
「世界一」を公認しない政府の重責を改めて問い直します。
彼らには存在意義と存在効能性が無いことを示しているはずです。
いわゆる左翼系・社会主義的なイデオロギーには、
最初は必ず平等性をうたいあげ、支配権力を手にした途端、
平等性を公然と無視することは、歴史が証明しています。
「暴力装置」というレトリックを被せた閣僚の言葉が耳鳴りします。
この発言こそ社会主義性が独裁制に変質することそのものなのです。
サッカー競技をサポートする人々は、
そのきもち共有感の象徴には国旗=日章旗を掲げます。
しかし社会主義的傾向者には、国旗である日章旗を無視します。
同一国家の国民の平等性を確認する手続きは、
言語=日本語を共有していることが大原則であり、
「なでしこ」という言葉・言語感覚は日章旗と同等であることです。
国旗を法律で制定し直す国家などありえません。
自虐史観の援用と適用が、
新エネルギー論理論争にまで展開してきました。
須く、支配層としての機能だけを主張する政権は打倒すべきです。
私たち国民は、「撫子」のごとく風に揺れてはなりません。
即刻、この政権打倒によって、平等意識を獲得しなければ、
この国難解決にあたって、さらに大きな哀しみに突き落とされます。
ペンは剣よりも強い時代は過ぎ去りました。
今、確実なことは、具体的に勇気を与えてくれた彼女たち、
この存在への賞賛を糧に、感動の共有でしょう。
これこそ国民の平等感覚そのものだと思います。
大きな哀しみがすでに始まりつつあります。

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7月19日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     7月 19th, 2011  Posted 3:23 PM

7月19日 乙亥(赤口)

私は、自分のデザイン、
自分がデザインという手法で
社会に存在させる形態を、
まず自分自身が、
自分を削り取り、
私の肉体の一部から生み出したかたち、
自分のことばでそのかたちを
守ってやりたい!
と思い続けてきた。

『デザインの極道論』あとがき


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『障がい者へのデザイン』
「畳性能の改善と和室療養空間革新」


   


     7月 19th, 2011  Posted 12:00 AM

     


ナイチンゲールは、療養環境について「ナイチンゲールの覚え書き」の中で、絨毯は最も療養環境には不適合なモノと書き残しました。しかし、現代の絨毯やカーペットでは抗菌作用のある素材開発が完成しています。絨毯は西欧社会では単なる室内調度品を越えてステイタスを表示する存在でもあったのです。さて、わが国には室町時代に薦(こも)や筵(むしろ)を重ね敷きすることから進化した敷物として帖(ちょう)とまで呼ばれる伝統的かつ美術工芸的で社会的な効用性=ステイタスを絨毯と同様に持つモノまでになりました。当然、京間や田舎間と言われるモジュール=大きさの標準化も完成されたモノになっています。そして現代住宅や住居においても和室という室内空間を最も特徴づける敷物になっています。けれども、高齢社会での療養環境の中では、特に、車椅子にはまったく不適合な敷物です。これは絨毯も同様です。もっと広範囲な見方をすれば、車椅子・ベッド・移動可能空間の設え調度品としては不都合なモノになってしまいました。それは和室であり、茶室など、日本の伝統的室内空間が障害者対応からは断絶せざるをえないものになってきていることです。まして段差ある場へ畳敷きはバリアになってしまいます。私自身、車椅子で畳敷きの部屋に入ることは大変に憚れることが多く、たとえば、葬祭時にどうしてもということになれば、巻きカーペットを持参し、それを敷かせていただく許可をいただいて畳部屋にあがることになります。無論、日本のいわゆるお座敷仕様の部屋、料亭などは遠慮せざるをえません。日本式和室のあるホテルで、その部屋が障害者対応というのは、すでに根本的には大きな間違いがあるということです。この見直しは現在要求しておかなければなりません。もし、家族で高齢者で寝たきり生活を余儀なくされたならば、畳は撤去しなければならないでしょう。結局、畳という調度品周辺、唐紙や障子などの日本様式すべての見直しが必然となっているということです。私は、畳という日本の伝統的調度品をさらに進化させて、療養空間や車椅子などとともに大きな改善と調和を建築家ともども求めていくべきことではないかと考えています。和室という日本空間は、高齢社会にあって変革が要求されているものと判断しています。


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「新たな日本ブランド・なでしこJAPAN」


   


     7月 19th, 2011  Posted 12:00 AM

明らかに女性の時代でしょう。
サッカー競技とは、
スポーツが戦争の文化的進化、
その象徴性と平和性を最も競争と競走を
統合進歩させてきた人類の知的な歴史成果です。
30年という歳月を要したということですが、
女性サッカー競技=競争において、
日本は新たなブランドを創りあげました。
「なでしこJAPAN」という競争集団です。
「なでしこ」とは日本の草木として、きわめて一般的であり、
カーネーションもその一類に属する物ですが、
かよわいたたづまいながら、
小花であり華美さも派手さもありませんが、
人を引きつけるつつましい美しさのある花です。
準決勝から決勝まで引き込まれるように、
団体スポーツをさほど好まない私が見入ってしまいました。
スポーツ競技には、必ず伝統性が宿ります。
その伝統性には、能力の連綿とした集積と継承性が宿ります。
その上、伝統であるだけに前世代を否定しつつ、
常に同時代との共時性を身体化していく集団力が必要です。
「なでしこJAPAN」はそれを見事に体現化していました。
そして何よりも、涙が無かったことです。
無論、勝利すれば感涙あって当然でしょうが、
私は、スポーツと泣くという昨今の感情表出に、
ある種の違和感を持っていました。
私など観客の一人が、彼女たちの活躍に涙するのは、
もう明らかに老齢現象だと認めざるをえませんが、
むしろ男性スポーツに感涙を見るときの違和感がありました。
つまり、女性たちの揺るぎない自分らしさの表出は笑顔。
試合中も笑顔あり、真剣さに笑顔で立ち向かうこと。
これを国難への大きな態度と姿勢と言うのは大げさですが、
少なからず、現状のわが国にあっては、
日本ブランド=なでしこJAPANが世界一になった効能こそ、
「世界一でなければこの小さな存在性」=アイデンティティ、
かけがえの無い大切さを共有する国家存在はありえないのです。
「世界一である必要性」はわが国の存在性の確認に直結。
まさに「なでしこ」という花に象徴された女性の実力、
これを絶賛するとともに、
新たな日本ブランドが生まれたことを喜び、ここにこそ、
大きな希望・祈望・企望があることを確認することができました。
私は団体競技競争よりも、個人競争が好きなタイプですが、
あらためて女子サッカーによって、
団体競争としてのサッカー競技のフェアさ、
そして新ブランドになった女性チームに心底感動しました。

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