kazuo kawasaki's official blog

Archive for 5月, 2011


「かたちには三つのかたちがあるようだ」


   


     5月 7th, 2011  Posted 12:00 AM

「かたち」というかたちはありません。
私は「かたち」に関わってきました。
私なりに、「かたち」は三つあると想っています。
形式・形体・形態だと考えてきました。
しかし、形式はかたちというモノに
いたるわけではありません。
むしろ、形式はすぐに形骸化する事があります。
それでも形式のデザインは強固にあるものです。
形式で取り繕いは極めて簡単です。
そして形式のデザインほどまた難しい事は無いと考えてきました。
その前に、形体というのは、
立方体・球体・三角錐・四角錐などの基本形式が、
モノのかたちになっている物です。
そして、形態は基本形式からの状態変化・変貌したモノです。
デザイナーとして、この三つのかたちに拘ってきましたが、
かたちを造形するということが、
自分から距離=隔たり=近さという概念が見え出すとき、
ようやく、造形するこうした三つの「かたち」から
最も欠落していく事に気づき始めるものです。
とりわけ、具体的に身体との距離感と、
自分自身だけの想像力との距離感が把握・認識できるには、
ある種の能力が必要になると思えるようになりました。
少なからず、この能力を参照するには、
自分の「かたち」の検証をある方向から試すことしかありません。
この手法がデザインだと思っています。
したがって、この三つのかたち=形式・形体・形態には、
自分の誠実さは決して失ってはならないと確信しています。
形式・形体・形態に誠実さが無いモノは容認不可能です。
だから形式論議に終始する議員制民主主義は腐敗しているのです。

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5月6日Staff Blog


   


     5月 6th, 2011  Posted 10:07 AM

5月6日

節電を意識し、
設備関係の使用電力を確認し、
見直し中です。

見直しを検討し始めた途端に、
機嫌を損ねたのか
それとも潔く身を引いたのか
故障した製品があり、びっくりです。
BOSS(川崎和男, Kazuo KAWASAKI)
クレヨンしんちゃんろうそくも
必要に応じて出番となり使用しています。


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5月6日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     5月 6th, 2011  Posted 9:30 AM

5月6日 先勝(辛酉)

「親和性」
ということを考えてみると、
私には、まず「親和性」
などすぐに破壊してしまう
わがままさが生来備わっているようだ。

『デザインの極道論』界面


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「哀しみと悲しみの対立・土下座」


   


     5月 6th, 2011  Posted 12:00 AM

魏志倭人伝での跪礼(きれい)。
大化の改新では跪礼は立礼に変更。
『弘安礼節』では庶民が大名への儀式礼。
しかし、跪礼=土下座とは、
身分の上下での礼節の定めでした。
一国のリーダー、大企業のリーダーが被災地で土下座。
被災者が土下座を要求するという悲しみは、
彼らの哀しみからの要求、
こうしたシーンを見るとき、
リーダーシップを欠落させている跪礼は「対立」でしかなく、
そのことをも受け入れているリーダー資格は剥奪が当然でしょう。
今、まだ予断を許さないフクシマ原発とその被害者は、
精神的・肉体的な疲労困憊と哀しみがあります。
リーダーの土下座に追随している周辺に解決策がありません。
この二つの悲しみと哀しみは「土下座」での対立になっています。
50日以上も「一次避難」そのものが変です。
現政権が本来災害において為すべき義務放棄は明らかです。
しかも、民間企業といっても大企業相手の「指導力」が皆無です。
すでに原発事故の収束から終息までは長期になるでしょう。
もはや「仮設住宅」での避難は解決策ではありえません。
ならば、最新鋭の集合住宅の建設に入るべきです。
土下座は被災者の「怒り」という哀しみに過ぎず、
「全てが不可能だという納得」の「かなしみ」の対立になっています。
加害者と被害者の構図を成立させているよりは、
 ・「原発事故復旧」
 ・「集合住宅建設」
 ・「商工業の再開」
 ・「一次産業の復旧」
 ・「教育と医療環境復旧」への共有観が必要。
被災地で子供たちの精神的苦痛は「幼児がえり」と言われるほど、
精神性の破壊にまで及んでいると聞きます。
リーダーたちの土下座は、「無為なる心なき謝罪」にすぎません。
私たちは、「原発復旧で現場作業する人々」にこそ、
土下座してお願いをしなければならないでしょう。
跪礼とは形式としての儀礼=偽礼にすぎません。
そこから創造は何もありません。
しかし、「心からの礼節=跪礼」は、
現場作業の労働に向けられるべきことだと私は考えます。

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5月5日Staff Blog


   


     5月 5th, 2011  Posted 10:51 AM

5月4日

入荷のお知らせがあったGolden Time。
BOSS(川崎和男, Kazuo KAWASAKI)
のデザインです。
この限定Watchは、
Sold Out状態が続いていたので
完売で再入荷なしと思っていたのですが、
最終!ロットが入荷したとのことです。

ホワイトとゴールドの
組み合わせがいいですね。
シリアル番号も入っています。

探されていた方、
ぜひこの機会にご覧になってください☆
こちらです。


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5月5日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     5月 5th, 2011  Posted 9:30 AM

5月5日 赤口(庚申)

界面
親和性ということ

『デザインの極道論』界面


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「報復テロのターゲットは日本かもしれない」


   


     5月 5th, 2011  Posted 12:00 AM

テロリストの首領が殺害されました。
なぜ彼が「テロ」の首謀者だったのでしょうか。
「テロ」という言葉は、
「戦争」の代替名称になりました。
「戦争」という隠喩性を焦点にしつつ、
情報操作した新たな名称に大衆意識変化をもたらしました。
なぜ「テロ」が・・・この理由は知られていません。
「宗教対立」という虚構の物語にすり替えられています。
これはイデオロギーからの政治闘争の終焉が示唆されていました。
私たちの日常性が何か巨大なものに支配されてきた歴史現実です。
ところで、彼はもともとは親米派だったはずです。
それが、「なぜ」ということに世界のマスコミは黙考しています。
あらためて私がこうしたことは世界謀略などと言うのは、
荒唐無稽な私の想像力と考えてもらってもかまいません。
テロの原点には、明らかなエネルギー収奪闘争があります。
・・・なぜアフガンで、
・・・なぜパキスタンで、
マスコミはその正体を明確にしません。できないのでしょう。
人類が「火」を発見し、
この「火」は武器であり、「文明」を開花していくエネルギー。
そして「火」の制御は人類の科学すらまだ解明に至りません。
すべて「火」の制御は「政治支配」と「経済的力学」の対象です。
この支配力は科学性すら超越しているのです。
というより科学性が何かに支配制御されているということです。
私には、昨今TVでの「原子力問題議論」そのものが、
あらたな見えないイデオロギー=原子力技術という対象を
「大衆化」した支配性と操作性の表象だと思っています。
新たな資本主義体制の変更と世界経済の収奪問題とみるべきです。
あたかも「放射能現実」に私たちが投げ出されてしまったのです。
「反原発」は、巨大石油資本による援護下での活動であり、
「脱原発」は、振興エネルギー資本集中への戦略です。
だから私たちが見失ってはならない事を明確化することが不可欠。
それは私たちの日常性を守護する民族観を取り戻すことです。
本居宣長から橋本左内・吉野作造・吉田茂などの思想復権を熟考。
さて、テロリストたちの報復が囁かれています。
その報復対象が日本にならないことを想定しておくべきでしょう。
現日本政権は、「テロ」への姿勢を曖昧にしてきました。
ゆえに、テロリスト首領の軍事的殺害計画はもちろん、実行後も、
米国から日本は報告受けずでした。
現政権の国際的戦略が皆無だったことを証左しています。
この事情はとても深刻なポスト・モダン的政治問題だと思います。
国難状況下にある日本こそこの国際的テロ構造から逸脱すべきす。

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5月4日Staff Blog


   


     5月 4th, 2011  Posted 10:00 AM

5月4日

iPad用にキーボードを
セレクトしているのは、
折畳み式のREUDOと、
タッチパッド付Riitek Rii 。
移動に合わせて使い分けている
BOSS(川崎和男, Kazuo KAWASAKI)

キーボードと言えば、ようやく発売
となりましたCOOL LEAFも、ぜひ
チェックください。こちらです。


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5月4日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     5月 4th, 2011  Posted 10:00 AM

5月4日 大安(己未)

悲しみ、その心の上の非とは、
それぞれが分かれて
相反している形象であるという。

それゆえに、
悲と憤は同意の表意文字に
なっているともいわれている。

『デザインという先手』つまれたいたみ


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「中央集権の限界・東京では制御不可能」


   


     5月 4th, 2011  Posted 12:00 AM

先般、「復興計画」での手法を聞かされました。
私の回答は、すべてNOでした。
それは私の経験からの判断でした。
かって、ふるさと福井の伝統工芸産地で、
東京流のデザイン手法、
特に、言葉でのイメージや概念の話を
私なりには一所懸命に試みましたが、
産地のみんなからは、「何も伝わってこなかった」と言われました。
被災地、特にフクシマ原発では、
その現地事情を間近で見つめ、現地での問題を共有しない限り、
復旧はもとより、復興など可能なわけがありません。
政権による復興メンバーがいわゆる「現地視察」など無意味です。
無論、企画や計画は「机上での情報操作」に他なりません。
しかし、パソコンに数値を打ち込もうが、
現地の瓦礫や「まち」づくりへの現地対応は絶対に不可能です。
特に、原発事故は人類が初めて体験する途方もない「想定外」です。
もっとも、「想定外」は本来は設計においては、
設計計画が成し得たことではありえないと私は考えますが。
「会議は踊る」という名文がありますが、
会議で解決は不可能だということを現代は忘却しているのです。
「解」という文字には、明らかに角有る牛を解体する形象です。
体験とは、自分の身体が現場で感得することであり、
身体・生体反応にほかなりません。
しかも、自分の生体内部で何が起こっているかは、
余程のことがなければ不明です。
たとえば、すでにケータイ電話は日常的ツールになっています。
しかし、ケータイと脳内での電磁波と放射能はまだ不明です。
これほど具体的なことが分かっていても、
人間には、「体験」による判断が不可欠だということです。
生命が危うくなるのは、本当に死線にまで身体が運ばれた時、
ようやく、原因が推測できるにすぎません。
すでに私たちは「中央集権の無理」を知り尽くしていても、
「机上の論理」に計画を載せる習慣から解放されていません。
今、私たちは次の世代の日本を、
まず、現地の救済からスタートさせているだけにすぎないのです。
現場主義が最優先であるべきです。
でなければ、「復興ごっこ」に過ぎないことを自覚するべきです。
ちなみに日本人の平均年齢は44.1歳です。
すでに経験はあるはずです。
経験の強さとは現場での感得情報から判断する判断・脳・能です。

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