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『「橋」を渡ること・その思い出とともに』


   


     6月 29th, 2014  Posted 12:00 AM

私の自宅は農人橋というのが正式な地名です。
しかし、谷町4丁目が交通要所点になっています。
なるほど大阪には河川が多かったためか「・・・橋」が多いのです。
私は毎月必ず映画を楽しむことにしていますが、
参勤交代を題材にした武家映画では、プロットの要には、
極めつけの橋が登場してきます。
私には、この二つの橋が今も残っていたことに驚きました。
長い木造だけの橋と、かづらでできた吊り橋です。
かづら橋は、わがふるさとの吊り橋ですから、
あそこでの撮影がロケだったのか、あるいはもうはやCGなのかは、
素人の私には分かりませんが、かづらという蔦橋が今なお健在なら、
これは今後も残しておくべき橋ですが、
「安全対策」的には存続のための「安心安全設計」が必要でしょう。
神社の参道を歩むには、「端」を渡る作法があります。
それは真ん中の賛同は「神」の道になっているからだそうです。
私は、はし=橋と端との歩み方には日本の伝統的な美学があります。
参勤交代を命ぜられた貧乏小藩の目覚ましい創意工夫と
忍び者との対決や、参勤交代により、各藩は大出費に苦しみ、
江戸への参勤交代が地方の文化を江戸でも開花させた武家作法。
コメディ仕立てになっていますが、その命令背後の仕掛けなど
私はいつもながらに楽しむことができました。
そして、江戸と参勤交代、侍と忍びの矜持正しさが、
「長い木造の橋」と「蔦の吊り橋」という江戸時代の技術を
私たちはこれからも残していくことが出来るのだろうかということ。
まさしく、里山発想や鄙=地方と中央との政が、
あの時代であっても、「民のため」への正当性こそ、
やはり「ありのまま」を私たちは継承させ得る能力の有無でしょう。
昔形式の継承性こそ、現代の技術知恵が求められているわけです。


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『サッカー競技が露わにした資本主義社会の監督不在』


   


     6月 28th, 2014  Posted 12:00 AM

ワールドカップ「サッカー」への国益とも思える程の期待、
それは意図されていた資本主義社会の狂乱が日本を包みました。
私は「性愛と資本主義」その最終稿「サッカーと資本主義」によって、
サッカー競技での商業主義としての監督や解説者を批判しました。
それは、敗北を指揮したリーダー力の大欠落を象徴していました。
しかし、それはわが国のサッカーチームがシンボルだっただけです。
・政治における野次騒動においての議長も、
・期待していた現政権の大臣においても、
・地方行政での首長采配の無能さにおいても、
・大企業に及ばず、中小企業の経営者においても、
・学校の校長や学長においても、
・独立法人の理事長においても、
・すべからくの意志決定者指導者は当然として、
間近にいる補佐役でも、私は、指導力・采配力、
補完すべき立場人間にこそ、
いかに、日本の資本主義社会の収奪が露呈していたことです。
かくいう私はどうかということですが、批判者は論外を旨とし
批判すべき立場を棚上げにして陳述を明確にしたいと考えます。
つまり、それはなぜ、性愛と資本主義、それにサッカーが事例、
このことを「監督論・リーダー論」で批判から非難までを
書き留めておきたいからに過ぎません。
私は、資本主義社会でのプレーヤーは倫理的にも「納得と肯定」を
念頭にした諦観を基本とした性愛があります。
この性愛とは世俗的なエロス的ではなく、あくまでもリビドーです。
このリビドーの倫理的な真剣さと真面目さがあります。
比して、監督やリーダーが収奪している醜さには、
身を賭しての「強い反抗」があるべきだと考えています。
少なからず、私はワールドカップでの資本主義が明確に、
中南米やアフリカ諸国に移動あることに注視をと絶叫します。
そして彼の地には、リーダーがすべからく不在であることです。
すなわち、サッカー敗北のこの日本にも、
すべからくの領域でリーダーは不在だということは明化されました。

『サッカーは資本主義を象徴し収奪されたスポーツか?』
「大好きな画家・これが私のまなざし」


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『ありのままにー現代現実の反証事実が多過ぎるからか?』


   


     6月 27th, 2014  Posted 12:10 AM

私は、流行のモノは出来るだけ受け入れたい派です。
このアニメーション映画を観ました。
なにしろ、映画でのCGやアニメーションの技術進化にびっくり。
1980年代中盤頃に、水・水滴・水蒸気・火・炎などや夕焼けには
「Natural Phenomena」のアルゴリズム開発を、
米国とカナダで間近に見て来た私には驚きの連続です。
このアニメーションの表現技術や、映画出現の意味を熟考しました。
ひたすら、「スゴイ、スゴイ」と想い続けました。
アニメーションのプロットは、西洋民話の定番ですが、
登場する人物や動物、寓話的生物、怪獣などの表情と動作すべて、
その一コマ一コマにヒット基盤があったようです。
確かに、「氷表現」は擬似的だと思いますが、
霧や風雪の表現は格段に進歩していたと納得しています。
映画冒頭のアニメーションと現代の対比は説明的で不要ですが、
プロットの詳細な緻密さが手仕事のデジタル化は見事でした。
そして、アニメ・ミュージカルという形式での歌詞内容には、
正直、現実が失っている事象を照らし出していたと思います。
今、「ありのまま・・・」などは消滅していると言えるでしょう。
私たちの情感の根底には、消えてしまった「ありのまま」が
次第に無くなっていく,大きな哀しみがあるのでしょう。
私は、毎日、自分こそは「ありのまま」でありたいと思いますが、
多分、周囲にはその加飾、いや過飾性に映っているのでしょう。
びっくりするようなことを見聞し過ぎる現代、その事象には、
決して「真実」=ありのままなどはありえないのです。
このアニメーションが空前のヒット作、流行現象だとするなら、
私はもう一度自分存在の自然さ=ありのままを再確認すべきです。
「Natural Phenomena」を見いだそうとして、
水しぶき、燃え上がる炎、そして夕焼けから暗闇、
この三台の実写ビデオ映像モニターの横には、
一台のアルゴリズム言語の検証モニターがならび、その真下には、
CG画面上に映し出されている映像が今なお浮かんでいます。
「ありのまま・・・」に生きぬくべきだと思っています。

 「色彩知識はトロントで消去、そしてbit色彩を知る・04」


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『サッカーは資本主義を象徴し収奪されたスポーツか?』


   


     6月 26th, 2014  Posted 12:00 AM

「結果がすべて」と選手たちは述べました。
ワールドカップのサッカー競技は国家、民族を狂乱させています。
サッカー競技は、戦争終結、その起源の由来なのでしょうか、
人類の遺伝子に暴力性の狂乱性を引き継いでいるようです。
そして、この凶暴性は、見事に近代国家において、
「平和なスポーツ競技」への勝敗事に変革させられました。
スポーツ=勝敗事はさらに資本主義経済でのビジネスモデルです。
しかもワールドカップというフェスティバルに、
凶暴性は驚喜性・狂乱性でも法治化されたことは進歩でした。
この驚喜性が、情報時代、マスコミの淺智恵によって、
「興行的商業主義」に押し込められてしまった哀しさは明白です。
日本の敗北の理由を改めて問いただす理由などはありません。
しかし、サッカー競技を資本主義経済で「興行化」した無能さは、
グローバルで技術技能、心技体を精進させてきた選手には、
「敗北」その背景的実体は明らかにすべきだと考えます。
私は、実績無い指導者や解説者、まして監督は力量不足です。
今回の日本チームで私が認めるのはグローバルで、
精進と研鑽してきた選手たちのみであり、
国内ローカルチームでの選手は、経験で容認できます。
けれども、解説者、さらに監督は無能だと断言すべきです。
たとえば、大学人になって実績も無い教員が、
学生達に「課題や講義」することを徹底的に批判してきました。
「自分の経験に勝負で勝った経験の無い」人間と、
それを興行イベント化したマスコミの不純性は露呈すべきです。
「サッカーと資本主義」という、一文が日本にあります。
サッカー歴史の系譜が、資本主義経済化で驚喜性と狂乱性で、
社会の見せかけであっても正当性と平和性の意味は偉大でした。
グローバルな選手たちをさらに結束出来なかった監督、
そして、マスコミの手先にしかなりえなかった解説者によって、
日本の敗北は、国益勇気を穢した輩だと私は思います。
なぜならば、サッカー競技を資本主義の正当性をルール化した
「オフサイド」こそ、狂乱以前に驚喜性にした智恵でした。
中南米やアフリカ新興国からのグローバルな選手たちの存在、
それは、欧米の、あるいはアジア新興国、日本自体、
「未来の資本主義、そのあり方」を象徴していたものと、
私は、日本の敗北を位置づけています。
私のサッカー競技への思考を補完するならば、
是非とも、「性愛と資本主義」増版の最終稿には、
「サッカーと資本主義」は語られています。
この精読をしながら、今だからこそサッカーどころではない、
紛争・内乱・戦争はさらに拡大していることを意識すべきです。


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『3D-Printingで伝統工芸産地へのサーキット戦術開始』


   


     6月 25th, 2014  Posted 12:00 AM

阪大に3D-Printer技術を全国から集約作業に入りました。
3D-Printer技術を3D-Printingとして、
真実、その技術トップ達と連携をしています。
実際は廉価なプリンターでの限界がありますから、
その技能がとても重要になってきます。
購入すれば、附属してくるモノは出来ますが、変形を加えればもう、
そのプリンターでの成形限度は明らかになってきています。
私が最も駄目だと思うのは、フィギュアづくりです。
光造形システムでもフィギュアづくりは流行しましたが、
その技能:技術ではありませんがもう何も使い道は閉ざされました。
私が拘ったのは、トポロジーの形態です。
本来は、教科書的な位相空間の形態ですから、線描きだけです。
私が辿り付いたのは、
点に大きさがあり、線に太さがあり、面に厚さが可能でした。
この思考をこれから伝統工芸産地とのサーキットづくりを開始です。
簡単に言えば、3D-Printerで作成したプラスチック形態を
本物の刃物・鋳物・ガラス・陶磁器にしていくルートをつくります。
自宅で、プラスチックの包丁をつくれば、
刃物産地では本当の刃付けがした包丁が出来上がってくるのです。
阪大が中心になって、契約した産地で、実際のモノを仕上げます。
おそらく、欧米ではこのサーキットシステムは出来ないでしょう。
日本の伝統工芸技を3D-Printingに置き換えていくことです。
そこから、次の3D-Printerの新素材が見えてきます。
重要なことは、新素材を3D-Printing技能として、やがては、
自宅の電子レンジでも本物づくりが可能になる事だと考えています。
すでに3D-Printerでの実現範囲の限界が設定できてきています。
おそらく、3D-Printerでモノづくりが自宅内、
いわゆるデスクトップになる時代はここから始まります。


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『「実装設計」=筐体デザイン+回路デザイン=問題解決』


   


     6月 24th, 2014  Posted 12:00 AM

デザインとデコレーションには大きな差異があると思っています。
その実例の一つを紹介しておきます。
実装設計。
これを私は海外ではConfigurationとLayoutだと言ってきました。
Layoutとは回路設計であり、筐体への部品配置をConfigurationだと
言い続けてきました。
それは日本語の「実装」という言葉の明快さであり、モノづくり、
つまり、日本には素晴らしい複合的な意味の記号性そのものです。
これは随分以前の商品であり、プロには的確な提案でした。
動画や音楽の編集機器ゆえに、筐体と回路をまさに実装によって、
回路性能性と筐体構造による存在性に機能性と効能性を、
デザイン、つまり問題解決を成し遂げた商品設計デザインです。
このアッセンブリーモデルは、私が自分の講義で使っていました。
製品本体の大きさは、CDジャケットサイズに回路基板と、
筐体への部品配置によって、機能性を決定づけることができます。
デザイナーにとって、技術表現はそのまま回路と筐体に表れ、
営業表現は、技術での性能と機能が、社会的な存在性=効能です。
したがって、技術も営業も納得を求めるのは、
実装設計よりも実装デザイン、性能・効能・機能の問題解決そのもの
私は実装デザインによって、技術と営業のバランス設定が重要です。
設計では、問題解決による本来のバランスを求めるのは困難ですから
ずばり、問題解決の実務として「実装デザイン」統合性が必要だと、
私はいつも技術と営業、このバランス配置を求めています。
日本人だから「実装」を、単なる構造と配置を統合化できるのです。
今、理解を求めてきた企業では、Configuration Layout、
この言葉が浸透を始めています。
やがて、「Zissou」と呼ばれることを目指しています。

『技術革新以前の問題解決=デザインがある!』
「コンピュータを強く認識したときの人物と試作デザイン」
「最近の実装設計に問題あり」
「SZ-1000・私のオーディオ最終作だから」
「知財権・意匠権改変の対象となった商品開発」


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『「ひも理論」はデザインで語れるが、その前に!』


   


     6月 23rd, 2014  Posted 12:12 AM

デザイナーが、数学「的」な見解を述べようものなら、
知ったかぶりした数学「屋」に限って能なしの輩をみかけます。
したがって、本来の数学的な仮説である「ひも理論」以前に、
これも私の趣味であり、私が使い慣れている紐やロープについて
書いておこう思った次第です。
おそらくヨットに長けた人ならばロープの使い方は熟知しています。
私は、父から逮捕術での紐やロープ使いを幼児の頃から教わり、
高校の山岳部時代にはロープ使いを訓練させられました。
私の得意技に紐使い、ロープ使いがあります。
そして、それこそ数学の仮説である「超ヒモ理論」を教養として、
私なりにそれをデザインへの応用を考えてきました。
最も、数学屋が紐やロープ使いはできるはずがないでしょう。
たった一本の紐、とりわけ、その結び方やその展開方法は、
何か、趣味がなければ学校では教えていません。
夜の星・星座名や道端の草花名を教えないことに等しいのです。
本来、小学校時代に恐竜を教えたり、草花、高山植物、天気図など
絶対に教えるべきだと私は思っています。
結局日教組の先生が日本の教育を壊してしまったと確信しています。
その最大の理由は、
今、紐やロープを手法として教えられるでしょうか?
たとえロープ使いは難しいかもしれませんが、紐程度の扱いは、
トレーニングとして教え込むべきだと思っています。
大学人になって紐・ロープを扱える人間に会ったことがありません。
それこそ、数学屋で「ひも理論」を語ることができても、
金槌の使い方も知らないのに、建築を語ろうとするようなものです。
以前、高名な建築家をある有名な評論家が「彼は釘も打てない」と。
「君はそんな人物になってはいけない」と諭されました。
時折、手元にある「紐」と戯れるとき、
私はいつもこの一流の批評家の話を思いだします。

『最も嫌いだった著作からこれを始めた』


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『「ふくしま」だから未来と絆で、夢のプロジェクトとは?!』


   


     6月 22nd, 2014  Posted 12:00 AM

ふくしま・3.11の復興は国家的な大問題です。
だから、ふくしまに未来と絆で国家プロジェクト?夢など皆無です。
「ふくしま未来」という浮体型風力発電装置と
「ふくしま絆」という浮体式変電所のプレゼンに立ち会いました。
プレゼンテーターの若者が、あたかも、福島復興の全日本計画を
知識有り、知り尽くしたかのような風力発電と変電システムには、
私は大激怒を「演じて」国際的な失敗事例など質問をしました。
結局、年配のリーダーがプレゼンテータを名乗り出てやりとりです。
まず、再生可能エネルギーの未来は従来の風力発電?・・・ 変です。
福島沖、地上から20Km沖合、高さは地上32階ゆえに、
送電は変電所経由になりますが、送電能力でたった800所帯です。
海上にある変電所は風速50kmに耐えるらしいのですが、
台風どころか海上では落雷に耐えきるとかのシステムに、
国家予算はどれほど使用されたことでしょうか?
費用対効果から資源回収の便益性は、あくまでも未来への投資?。
未来・絆という命名には、「あたかも」があり過ぎるわけです。
しかも、「ふくしま」にはこのようなプロジェクトで、未来を、が、
蔓延し過ぎていると私は判断と評価をしています。
私の提案などは無視され続きの連続、
しかれども、費用対効果万全の「真実提案」を自負しています。
「ふくしま」にお役所仕事でどれほどの国家予算が、
費用対効果は全く無視されたままは容認するわけにはいきません。
おそらく、このプロジェクトには「ゆるキャラ」まであります。
一体、広告代理店は、この開設の大仰な記念式典などには、
「便益性」という投資回収はあるはずもなかったでしょう。
なるほど、無能な連中が再開発国家予算に群がっています。
この報道をTVで観たことがあるでしょうか?
たった、800所帯、海上の風力発電失敗事例は無視されています。
とても容認できる、「未来」も「絆」も、
「ふくしま」だから許されていることには、改めて激怒します!
最後に、私の耳には、「これほど知り尽くした審査員がいたとは」。
これが実態ならば、私はあらためて自衛しなければなりません。
超大規模な土地での太陽光発電で1800所帯なんて!
そのメーカーは破産することは明白になっています。

『電力の自由化と電気の自由化があります』
「世界中が・March.11.2011ならば・・・」
『中国の月面着陸ロケットの思惑・範原発を!』


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『手づくり=手造り・手作り・手創りの大誤解』


   


     6月 21st, 2014  Posted 12:00 AM

今なお、 (さらに…)


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『「新素材」になれば、日本も世界も変えられる!』


   


     6月 20th, 2014  Posted 12:00 AM

デザイナーとはとても認めがたい人に、私は無関心と無視です。
しかし、許しがたく見逃せないとなれば、私は徹底的に闘います。
だから、無視されている人にはその自覚をしていただきたい。
あなたには社会的な存在意味がもう無いのです。
社会的な存在意義などは最初からありません。
この世から、まず職能家として消えてほしいのです。
これまで、無関心と無視してきた輩はいづれ明らかにします。
この人がデザインという役割をしたら、世の中が醜くなるのです。
世の中はただでさえ、美しいモノ・コトが無いから、
デザイナーという職能は「美しい」社会・国家・世界を創るのです。
けれども自然は、気候は、地球は、想定外で私たちを包んでいます。
とりわけ、世界は制御出来ない自然によって、
まず、天災が起こり、天災は人災を誘発し、あのMarch 11.2011、
想定外で、私たちの国家はまだまだそのままです。
にもかかわらず、無知なままで防潮堤を高く高く築きあげようという
それが、国土強靭化計画ということで、リードされています。
私は、懸命に「新素材」をデザイン開発しています。
それは新たな資源を創り出すことをデザインでリードしたいのです。
したがって、この「新素材」を否定使用とするなら、
私は無関心・無視ではありません。
そんな輩はこの世に存在することを必死で消滅させることにします。
まず、東京中心主義に集中と集約を行います。
この集中と集約を東京で起こすことからこれからの展開を始めます。
そして、「新素材」ゆえに美しいロゴタイプとマークで、
この存在を励起し発信を始めます。
ここに打ち出したのはその一つに過ぎませんが、
この素材がおそらく、私は今、日本という国だから民族だから、
そして、3.11の悲惨さを未だに解決出来ないからこそ、
デザイン解決のために、この「新素材」の展開をスタートさせます。
私の前で邪魔と思った瞬間、私はその輩を消滅させるつもりです。

「常に目周りは気になる」
『科学的な解明は石灰化すら解釈できていないようだ』


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