6月 11th, 2010 Posted 12:00 AM
共同幻想からは離脱したい
私は、「共同幻想」からは直感的に、離脱したいと思っています。
つまり、理想主義を共有する思索総意は理想そのものであって、
幻想の「弱さ」と「憑依する妄想」に、自分までが入りたくないのです。
ところが「共同幻想」は居心地がいいのです。
批判も非難もされません。
闘争する面倒も無く、自己主義的な安全性が確保維持できるからです。
この居心地を律する何かが必要です。
律する事は、二つあると思っています。
自律決意
● 「孤立する孤独性」を怖れないこと。
● 自家撞着と他愛主義という自己犠牲を受け入れること。
その具体的な実務行動の象徴性が「座禅」です。
「座」は、土=地面に自分の存在に主観性と客観性が同次元で座っている形象です。
時に、共同幻想がかかげるテーマは、
必ず、一つのマニフェストになるものです。
昨今は、政治家のグランドデザインはマニフェストという形式で発表されます。
ところが、グランドデザインゆえに、
「デザイン」の本質からグランドデザインという制度設計コンセプトまでを
政治家という職能では育成されてこなかったものと判断しています。
それは、グランドデザインは恐れ多くも「共同幻想」であり、
妄想化してしまう大衆生理があるのです。
したがって、
「共同幻想」を利用する政治的な制度設計=グランドデザインならば、
デザインは、「座禅」による「現成公案」を本質の見直しとするべきでしょう。
Tags: グランドデザイン, マニフェスト, 他愛主義, 共同幻想付与論, 制度設計, 大衆生理, 孤立する孤独性, 座禅, 弱さ, 憑依する妄想, 現成公案, 自家撞着, 自己犠牲, 自律決意
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6月 10th, 2010 Posted 12:50 AM
幻想に憑依する妄想
幻想である夢や希望は、少なからず、理想主義です。
だから、デザインに幻想は不可欠だと主張しています。
しかし、幻想の理想主義は「とてもか細い=幻という意味」のごとくです。
したがって、このか細さは憑依されるのです。
まさしく幻想が妄想となる傾向が張り付いています。
妄想の分類
妄想をいくつかに分類すると、
自分では幻想と思い込んでいるけれども、
本当は妄想だったという「客観的な認識」よって、
訂正を柔軟に可能にしておくことが肝要かつ寛容だと考えてきました。
● 関係妄想
● 被害妄想
■ 被毒妄想
■ 追跡妄想
■ 注査妄想
■ 嫉妬妄想
● 誇大妄想
■ 血統妄想
■ 発明妄想
■ 心気妄想
■ 罪業妄想
■ 微少妄想
● 憑依妄想
このように妄想は整理することができます。
この整理感覚を客観性にしておくことで、幻想と妄想の線引きをすることが、
「訂正の可能性」を確認できる「自分」、
その自己認識で解放することができるのだと私は思ってきました。
「瞑想」
この自己認識を図る手法に「瞑想」=座禅などが知恵だったのだと納得しています。
幻想と瞑想で、妄想かどうかを確かめることこそ、
資本論への肯定が資本主義の否定という妄想ではなく、
さらにそれなら、
資本主義から逃走あるいは解放されるという幻想に、
実は分類されている妄想に入り込んでいること、
そのことを最も重要に客観視しておくべきだと考えています。
Tags: 座禅, 微少妄想, 心気妄想, 憑依, 憑依妄想, 発明妄想, 瞑想, 罪業妄想, 自己認識, 血統妄想, 被害妄想, 被毒妄想, 訂正の可能性, 誇大妄想, 追跡妄想, 関係妄想
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6月 9th, 2010 Posted 12:34 AM
幻想
幻想の中に埋没していたいと思います。
いや、幻想の中で生きられるならとさえ願うほどです。
しかし、幻想と妄想は、まったく別次元だということは、
完全に理解しておかなければなりません。
ただ、日常会話的な場面で、
「これは妄想にすぎないけれど」と言うのは、
ほとんど冗談的な意味合いであることは断っておかなければなりません。
なぜなら、厳密に妄想というのは「病的」、いや精神病に他なりません。
幻想交響曲
「幻想交響曲」「というのがあります。
ベルリオーズの作曲であり、彼の代表作というよりも、
この曲によって、彼の存在が歴史的になったと思っています。
この交響曲の第一楽章が、「夢・希望」だったはずです。
私は、デザイン、あるいはデザイン的発想、デザイン効果は、
「夢」と「希望」をめざしていることをまったく疑うことなく、
強い確信の元に、デザイナーという職能であったことに満足しています。
妄想としての資本論
さて、幻想か妄想かの議論が「資本論」から「資本主義」に向けられてきたことは、
資本論に対する批判から肯定の間にありました。
少なからず、私には「資本論」から導出された発想にには妄想があったものと考える側の人間です。
しかし、「資本主義」の全面的賛同、疑念無き肯定は、
デザイナーという職能と経験から、
どこかで「幻想」としていたのかもしれません。
この賛同や肯定も、実は、か細くて揺れ動いたからだと、
つくづく思うようになってきました。
たとえば、「妄想」を精神病的に分類する方法で、
「幻想知覚」
「幻想着想」
「幻想気分」
知覚としての幻想・着想としての幻想・気分としての幻想と考えてみれば、
明らかに、デザインには気分性、着想性、そして知覚性があります。
しかし、この性情には決して「病的な確信」に寄りすがって、
「訂正不能」は起こらないということです。
「訂正不能」
幻想ということだから、気分も、着想も、知覚も、
常に訂正することに呪縛されてはいないということになります。
私が、デザインに幻想が不可欠というのは、
デザインは妄想に陥っては成立はしないという確信を携えてきたからです。
しかし、「資本論」が危ういのは、資本主義への否定論には、
知覚的にも、着想的にも、気分的にも、
「訂正不能性」がこれまで数多く存在していたことです。
けれども、今、私はここで、
「資本主義」への訂正を逃走という言葉にすることが可能です。
Tags: ベルリオーズ, 夢, 妄想, 希望, 幻想, 幻想交響曲, 気分, 着想, 知覚, 精神病, 訂正不能
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6月 8th, 2010 Posted 12:00 AM
白日夢
ここでの論理を終盤に向かって収束と集約をさせていきたい。
そうなれば「形態学序説」をもう一度しっかりと読み直そう。
そう思いつつ、
「白日夢」という言葉は明快で明確ですが、
結局は、「うすらぼんやり」しているだけの意味にすぎません。
私も叶うなら、連日、うすらぼんやりしていたくてたまりません。
確かに、私自身デザインに夢中なとき、
それは「緊張」と「白日夢」が交互になっているとも考えられます。
あるいは麻酔でとてもいい気持ちという感覚と同等な空意識があります。
白日夢の中で書き残されたのでは、という小説もあります。
太宰の作品には、それを感じ取ることがあります。
しかし、文章や言葉と対峙している感覚が、
白日夢的になるという体験を私はしたことがありません。
けれども、スケッチにともかく集中していて、
頭の中が本当の空白状況になることはしばしばです。
Morpheusが入り込む
そんな時、私はMorpheusが、私の中に入り込んでいて、
ほとんど空白と空虚の狭間に自分が浮かんでいると、
後で悟るのです。
それから、私はボールペンスケッチに色鉛筆着彩をします。
これはもう夢中になるのです。黒と色彩にのめりこみます。
Morpheusの意のままになっているのかもしれません。
そして、「コレダ!」という瞬間で白日夢から目覚めます。
幻想・カオスから創造
おそらくこの状況・状態は「幻想」の中に自分がいるのだろうということです。
「幻想」あるいは「幻想論」をひとまず纏めたいと思いますが、
それは、すでに「幻想」の否定論になりそうな気がします。
つまり、「幻想」だけに、
「幻想は幻想の中で」、
「幻想には幻想だけを」、とも想っているのです。
幻想×幻想=白日夢=カオスだとするなら、
明快さも明確さも際だっているわけではありません。
パウル・クレーは、このことに浸りきっていたデザイナーだったのだろうと推測します。
幻想こそ、カオスならば、
そこから幽体離脱を果たしたとき、
「ある・かたち」に辿りついているのです。
私は、この瞬間こそ「創造」だと想っています。
Tags: Morpheus, うすらぼんやり, カオス, スケッチ, デザイナー, デザイン, パウル・クレー, ボールペンスケッチ, 創造, 否定論, 小説, 幻想, 幻想論, 幽体離脱, 形態論序説, 感覚, 文章, 白日夢, 空意識, 空白, 空白状況, 空虚, 緊張, 色鉛筆着彩, 言葉, 資本主義からの逃走, 麻酔
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6月 7th, 2010 Posted 12:01 AM
Morphe
昨日は、うろ覚えだったMorphesは間違いでした。
ひたすら、このブログは毎日の思いつきや思い込みをメモっていますので、
くれぐれもご海容ください。
そこで、
Morpheus; Morpheという人物の存在性に、
私の「幻視」あるいは「幻想」を重ねます。
むしろ、彼の存在、その発想を共有したいと考えるからです。
これは幻想です。しかし、妄想ではありません。
モルヒネ
「モルヒネ」という麻薬があります。
まさに、その薬名の由来に関わっている人物です。
人物というより、登場人物と言っておくのが正しいでしょう。
ヘシオドスの「神統記」にはギリシア神話からの話があります。
Thanatos=タナトスに纏わる話です。
タナトスは「死」を司る人物(神)となっています。
この兄弟にSomnus=ソムヌス(Hypnos=ヒュプノス)がいます。
ソムヌスは「眠り」を司る人物(神)です。
そしてこの息子に、まさしく「眠り」の中でも、
白日夢
「白日夢」を担当?している息子がいるわけです。
この人物が、Morpheus; Morpheです。
「白日夢」だけに「日中もうつらうつらしている」のです。
この目覚めてもいない、と言って眠ったもいない状況から、
麻薬;モルヒネという呼称が生まれました。
さて、このタナトス、ソムヌス、モルペウスから、
ある幻想的な発想を引き出したのがゲーテでした。
1817年、彼は自費出版した書物というよりパンフレットがありました。
形態学序説
「Morphology Introduction」=「形態学序説」です。
このいわば幻想、あるいは、カオス的な状況から「形態」が生まれるという話は、
パウル・クレーの「造形思考」にまで繋がっているのではないかというのが、
私なりの解釈です。
私は、本来、「形態学序説」こそ、デザイン造形学の定本と考えてきました。
ところが、「形態学序説」は、医学領域で「形態発生学」、
あるいは「形態発生論」に伝統的な連続性を蓄積しています。
これは、「なぜ、内臓の形態が誕生してからある形態に至るのか」ということです。
私はむしろ、デザイン造形すなわち、
「形態造形」はゲーテの発想に大きなヒントがあると思い、
そんな発想論=白日夢的な中でぼんやりと、
観念的、概念的に浮かび上がってくる「形態」を当てはめたいと考えてきました。
前置きが長くなりましたが、
「資本主義」という「形態」から逃走して「どんな次形態」に入り込むべきなのかが、
このブログの考察メモ結果です。
「形態学序説」は「形態学」=Morphologyを提言してくれたのです。
私はあくまでもデザイナーという立場から、
Morphologyという背景を、あたかもMorpheusのように、
幻想から、確実な発想の持ち込みたいと考えている次第です。
私は、このブログの次の下敷きに「形態学序説」を置きます。
Tags: Hypnos, Morphe, Morpheus, Morphology, Morphology Introduction, Somnus, Thanatos, カオス, ギリシア神話, ゲーテ, ソムヌス, タナトス, デザイナー, デザイン造形, デザイン造形学, パンフレット, ヒュプノス, ヒント, ヘシオドス, モルヒネ, モルペウス, 医学, 幻想, 幻視, 形態学序説, 形態発生学, 概念, 死, 白日夢, 眠り, 神, 神統紀, 薬名, 観念, 資本主義, 資本主義からの逃走, 造形思考, 麻薬
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6月 6th, 2010 Posted 12:01 AM
ブログと「つぶやき」の双方向性
私は、次の言葉を、現代問題のキーワードであるがゆえに、
「再検証」と「再定義」が不可欠になっていると考えてきました。
キーワードが日本語であれば、
その日本語元来の意味=原意は中国の古典書や漢字原意からの経緯があります。
しかし、言葉は「時代とともに」意味を変貌し、変質させてしまうものです。
情報
環境
福祉
病院
などのキーワードに焦点を当てて、ほとんどメモ的な記述をしておきました。
一つ一つを掘り下げていけば、
それは「論文」となるほどの熟考結果とラング転換の論理構成が必要だと思います。
さて、このブログタイトルは「資本主義」への考察を行っていますから、
多分、なぜ、言葉・キーワード・原意などに拘っているのだろうか、
そう思われている読者諸兄もいらっしゃるでしょう。
しかも、「難解だ」とか「一人よがりな文章」であることも自認しています。
この場はあくまでも、私のメモであり、
毎日、現代の基盤である「資本主義」とそのまた基本・基準、
「民主主義」への大変更を私は目指しています。
三人称つぶやきが二人称となる
毎日、ここに記述し書き残すこと=記録は、
「私の熟考」=一人称的な想いであり、思索です。
そして、二人称としては、まずワイフに今日はこんなことを書き残したとか、
私のスタッフや学生や友人・知人には、「あなた」に向けている、という思いがあります。
そしてこのブログは、
TwitterというSocial Networkでのいわゆる「つぶやき」に連動しているので、
ブログに対するコメントとはまったく異なる「つぶやき」批評が届きます。
これは、三人称からの返信ですが、
明らかに、私の二人称相手が増加しているのです。
私はコメント掲載は受け取ってもその掲載は控えてきました。
どこかで、ブログという情報発信に対するコメントという形式が
絶対に「変わる」という直感があったからです。
見事に、それは「つぶやき」という形式がブログにも差し向けられるようになりました。
「Social Network」の登場は、
ブログの形式も変えようとしているのだと確信するのです。
Network主義へ逃走する
結論を急げば、「資本」は、確実に「情報」になってきました。
無論、日本語「情報」は、私流には再検証と再定義しなければなりません。
Morphesがつぶやいている
だから、「Social Network」での、政治・経済・文化などの世界観、
すなわち「新しい主義」が生まれようとしているのでしょう。
とりあえず『「ネットワーク主義」へ逃走』という仮称」への近傍観、
つまり、トポロジー観が、私にはその香りが漂っている気がします。
これが幻視であると突き放しつつも、
改めて、この幻視=Morphesの白日夢に漂っていることは間違いありません。
Morphesって誰なのでしょうか?
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6月 5th, 2010 Posted 12:46 AM
重篤
重篤という言葉があります。
私は3度、重篤状態を通過しました。
周囲が、ドクターたちから重篤と告げられました。
周囲は充分にその状況を理解していましたが、
私自身が重篤状況だったということは全く知りません。
危篤と重篤、医学的には危篤という言い方ではなくて、
重篤の方が医学術語だとドクターたちに教わりました。
さて、私自身の肉体的問題は、きわめて日常的です。
デザイン医工学
そうしたことで、私は「デザイン+医学」領域に携わっています。
この領域を「デザイン医工学」と呼称づけています。
このデザイン医工学には、
反健康=健康では無い=病気・病
半健康=いわゆる一病息災という日常的な病を持っている
範健康=健康であるためにどれだけ体調管理・保健であるか
以上のようなことから、
それぞれに対する「デザイン」対象として健康を見詰めています。
そこで、「病院」という機関・組織・空間・サービス・制度を明確に定義するとき、
この日本語はやはり、歴史性としての意味が閉じ込められていると判断しています。
ずばり、「病院」とは「病を閉じ込めた空間」という意味です。
閉鎖空間
「院」という文字は、「完全な閉鎖空間」を意味しています。
大学院も完全な閉鎖空間です。
比して、学校も「校」は板塀で取り囲んだこれも閉鎖空間です。
ところが、幼稚園などや学園の「園」は、遊園地もあるように、
「開放空間」です。
こうしたことから考え直せば、
私は「病院」は「病園」、
いや「療養園」が正しいのではないだろうかと主張をしてきました。
病院や医療関係者の方々からは、
現代性と重ね合わせて多くの賛同を得てきました。
なぜなら、「病院=病の閉じ込められた館」、
閉鎖空間であってはいけないという発想が出てきたことです。
それは、「病院」=ホスピタルからホスピスという日本語は、
Hospital・Hospisという英語の原意からは、
「病院」=Hospitalでは無いということです。
もてなし空間
HotelやHospitalは「もてなし空間」を意味しています。
したがって、
病気療養は、医療従事者のもてなし=看護の十分さが問われているということです。
つまり、私たちは漢字観=古代中国の病院定義を引きずっています。
Hotel・Hospitalの意味には相当の距離観があるということです。
現代、すでに「病院」という言葉の変更は必至だと提案します。
病院とホテルは「もてなし空間」として同格ある必要があるわけです。
そうなれば、「ホスピス」は終末医療の「園」であって、
「病院」の延長線上にあるわけではないことは自明です。
Tags: Hospis, Hospital, サービス, デザイン+医学, デザイン医工学, ドクター, ホスピス, ホスピタル, ホテル, もてなし, もてなし=看護, もてなし空間, 一病息災, 体調管理, 保健, 健康, 制度, 医学術語, 医療従事者, 半健康, 危篤, 反健康, 古代中国の病院定義, 園, 大学院, 学園, 学校, 完全な閉鎖空間, 定義, 対象, 幼稚園, 悲しみの日本語, 日常的, 日本語, 機関, 歴史性, 漢字観, 病, 病を閉じ込めた空間, 病園, 病気, 病気療養, 病院, 療養園, 空間, 範健康, 終末医療m, 組織, 遊園地, 重篤, 重篤状態, 閉鎖空間, 開放空間, 院
Posted in 030「情報としての日本語」, 資本主義から逃走せよ!
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6月 4th, 2010 Posted 1:27 AM
福祉
「福祉」という言葉です。
私は行政とは、街の活性化や産業関連、
そして、「福祉行政」へのアドバイスも随分長く携わってきました。
当然ながら、「福祉って何ですか」という、意地悪な質問をしてきました。
ほとんど、「福祉は福祉でしょう」とか、
「貧しい人や弱い人達を分け隔て無く行政サービスすること」です。
これなどは辞書にもそう定義されているから、常識なのかも知れません。
しかし、原意に立ち戻ると、その言葉が存在しなければならなかった理由や、
真意に照らし合わせれば、
「福祉サービス」の意味と意義が見えてくるはずと考えてきました。
福祉の原意
「福祉」には、『ネ』=しめすへんが二つの漢字に入っています。
これは福祉サービスをする主人公だと考えることができます。
というよりも、漢字の形象から『ネ』は「神様」を表しているとの解釈があります。
つまり、「福」は、神様が壺を抱えています。
しかも、その壺には財宝や食べ物が一杯入っていて膨らんでいるということです。
また、「祉」は、止は足跡だという解釈です。
ここから「福祉」の物語が始まるのです。
貧乏だけれど、懸命に、正直に働く家族が居ました。
しかし、貧乏だったので、食べ物にも事欠き、
寒いボロ屋住まいでした。
それを見ていた神様は、まるでサンタクロースのように、
食べ物やお金でいっぱいに膨らんでいる壺を持って、
その家に出かけるのです。
雪が降っていました。
その家の玄関、軒先にその壺を置いて帰っていくのです。
家族は、朝、その壺を見て驚くのです。
さらに、雪の上には足跡が残っていたのです。
これが「福祉」の原意だと解釈されました。
しかし、この物語を知る人が少なくなってしまいました。
むしろ、知らない人が圧倒的に多いはずです。
だから、みんなが平等に幸福に=福祉ではありえないのです。
福祉=幸福という意味は、意訳としては成立します。
要は、「懸命で正直な人」が見つけ出されて受け取ることができるのです。
これが真意ではないかと思うのです。
平等主義に福祉というのは、民主主義?社会主義?と、
私は思ってしまうのです。
私が現代日本、政権交代によっての「福祉サービス」は、
根本が間違っているのではという原意からの懸念があるのです。
人類は、全ての人々が「幸福」になる権利があることは確信しています。
デザインの本質的な目標も、「みんなの幸福」の創出です。
しかし、原意である「懸命さや正直さ」への神様からの贈り物ということになれば、
「福祉サービス」の方針設定=コンセプトは再考すべきことだと考えます。
Tags: 「資本主義からの逃走」, コンセプト, 原意, 壺, 常識語, 平等, 幸福, 懸命さ, 正直さ, 民主主義, 活性化, 物語, 社会主義, 神様, 福祉, 福祉行政, 贈り物
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6月 3rd, 2010 Posted 12:01 AM
古くなったキーワードを
私が現代をとらえているキーワードのいくつかを挙げてきました。
私はその代表例に「福祉」と「機械」をあげます。
機械
今夜は「機械」です。
「機械」という言葉は日本語としては歴史的に、一度、変更しました。
最初は「器械」でした。
「器」と「械」です。
理由は単純です。
文明論から見れば、文明への動機づけは「飢えと寒さ」です。
「飢え」に対しては、「器」というモノが必要でした。
その器から機となったのは、
今度は「寒さ」から身を護る機織りでの布が必要だったということです。
「器械」が「機械」へという変更は、機械の5大要素に関わってきます。
それは「械」という言葉が介在していることです。
この言葉は「武器」を表しています。
ということは、もう「機械」ではなくて「機器」が、
言葉としても美しいと思ってきました。
私自身、「機械工学専攻」という学科に席を置いていますが、
もう「機器工学」という言葉だと思っているわけです。
実際は、「機械」というイメージと「機器」という印象は異なります。
電子機械ではなくて、電子機器です。
ところが、通信機械という言葉ではなくて、この領域は通信機器でした。
通信機器は、実際的には「武器」ではないからです。
無論、戦争にとって通信機器は武器のようなものですが、
決して機械あつかいではなくて機器扱いだったことに注目するべきだと考えます。
新たな言葉の選定
いちいち、これまでの日本語ひとつひとつを引き出して思考しているこの執念は、
やはり、「言葉」の選択が、
概念と観念から、その意味にある種の枠組みや意味の限定を行ってしまうからです。
デザインにとって、コンセプト・概念・アイディア・観念・分別・センスなどは、
この限定された意味に呪縛される可能性があるからです。
「機械工学」は「機器工学」になってこそ、
あらためて、
人間ー機械=マン・マシンシステムの時代を終えることができると考えます。
私が取り組んでいる「人工臓器デザイン」というのは、
人工臓器的機械ではありません。
人工臓器的機器なのです。
「機械」という言葉から離脱すれば、
機械としてのロボットで無くて、
機器としてのロボットが必ず見えてくる、という確信が私にはあります。
Tags: アイディア, キーワード, コンセプト, センス, デザイン, マン・マシンシステム, ロボット, 人工臓器デザイン, 分別, 印象, 器, 執念, 学科, 寒さ, 布, 文明論, 日本語, 械, 概念, 機械, 機械工学専攻, 歴史, 福祉, 観念, 言葉, 護る, 資本主義からの逃走, 電子機器, 飢え
Posted in 030「情報としての日本語」, 資本主義から逃走せよ!
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6月 2nd, 2010 Posted 1:43 AM
概念と観念
私は「情報」や「環境」という現代最も重要なキーワード、
その曖昧さを再検証すべきと主張しています。
その再検証によって、
観念化と概念化を明確にすることができると判断するからです。
では、
概念化と観念化についてもその差異性と同意性を確かめておきます。
これも英語訳で取り囲んでみると、
差異性と同意性が分かります。
● 概念=(concept, idea, notion)
● 観念=(idea, concept, sense)
同意性は、concept, idea
差異性は、概念のnotionと観念のsenseだということです。
そこで、キーワードそれぞれについて、
次の差異性で検分していくことができるものと考えます。
■ 概念的にとらえるには、notion=意図・理解・見解
■ 観念的にとらえるには、sense=思慮・分別・感覚
さて、
こうした差異性を踏まえてキーワードを取り囲んで熟考します。
そうすれば、意味性の深度が必要だということに気づくはずです。
私はデザインをする対象に対して、
簡単に「コンセプト」立案と言う場合には、
すでに「コンセプト」=概念に直結している単純性に持ち込むことは、
デザイン実務、特にデザイン造形を狂わせるものと考えてきました。
しかも、すでに「常識語」であり、なんら検証しないままの
日本語そのものを再検証すべきだと提案しておきます。
Tags: concept, idea, notion, sense, キーワード, デザイン, デザイン造形, 分別, 同意性, 差異性, 常識語, 思慮, 情報, 意図, 感覚, 日本語, 概念化, 理解, 環境, 英語訳, 見解, 観念化, 資本主義からの逃走
Posted in 030「情報としての日本語」, 資本主義から逃走せよ!
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