7月 1st, 2010 Posted 12:00 AM
支配層は1億人
世界人口は加速度的に、70億人に向かっています。
現代明らかになっていることは、たった1億人だけが、
この地球上で、文明的かつ文化的な生活を送っているだけです。
もっとも、この1億人が「幸福」かどうかは不明です。
なぜなら、自殺率から考えれば、この先進的国家は「幸運」なだけでしょう。
そして、「資本主義」が結果的に「幸運さ」を支援しているのも、たった1億人です。
もし、「慈愛」があたえられるべきは、全人口65%約45億人(年収3万円から7万円)と、
23億人(年収20万円から200万円)の人たちに向けて、もっとも「慈愛」が必要です。
優しさと易しさ
根底的、根本的には、最も発露すべき「感性」の健全さとは、
「慈愛」という優しさです。易しさではありません。
「やさしさ」と書き直した曖昧さを打ち切って、
「優しさ」は「慈愛心」という感性です。感情の不純さではありません。
日本語の美しさそのままに、「優美なる慈愛」こそ、
日本の伝統的な文化資本です。
さて、私が「資本論」を肯定的に評価するならば、
「労働者」=被支配者を「慈愛的」な守護主張だったかもしれません。
しかし、「資本論」には優美さは皆無です。
論理で攻勢する主張に最も欠落するのは「優美さ」です。
「資本主義」の合理性がはぎ取ってきたのも「優美さ」です。
それなら、「優美さ」と「慈愛」が創出する「資本」、
何が「優美で、慈愛ある」ことが「資本」になるのかを突き詰める時代を、
人類70億人に問われているのでしょう。
優美な慈愛
そして、その先陣を担うのは、
わが国なればこそ「モノづくり」に込める「優美な慈愛」です。
無論、その主役は日本のデザインが創出します。
Tags: 70億人, モノづくり, やさしさ, 世界人口, 優しさ, 優美なる慈愛, 先進的国家, 幸福, 幸運, 慈愛, 支配層, 易しさ, 自殺率, 資本主義
Posted in 035「哀しみの美しさ=慈悲・慈愛」, 資本主義から逃走せよ!
目次を見る
6月 30th, 2010 Posted 12:00 AM
ボランティアなる慈善
「感情」の病は憂鬱であり、
単なる悲哀にとどまっているわけではないと思ってきました。
そして、悲哀を包み込む「慈愛」は、
哀=愛よりも広大無辺な支援力を持っています。
私が車椅子生活を宣告されて、リハビリテーションで入院していた時、
いわゆる「ボランティア」という活動が日本でも芽生えた直後だったと思います。
「明日は、あいつらが来るから、それなりに演技せーよ」と言う話を初めて聞きました。
私には何のことかわからず、6人部屋でしたから、尋ねました。
「明日になったら、わかるから」、と
誰も教えてくれませんでした。
当日、いかにも金持ち風の年配で、ギラギラしたメガネのおばさんたちが、
おしゃべりしながらやってきました。
だから、私はギラギラしたメガネのデザインは絶対にしないことにしています。
さて、病棟は、けたたましくうるさく、あの連中が?、でした。
その日、やや熱のあった私には、耐え難き時間が流れていきました。
私は、寝込んでいて、入れ替わり立ち替わり話かけられることにうんざりでした。
「どうしてこんな体になったの?」
「気分が悪いの?」
「ゆっくり休んでいなさい」
「洗濯物があったら、洗うから出しなさい」
(ウルセーェー!)、本当なら叫び罵っていたと思います。
彼女らが、満足気に帰っていくのも、けたたましくうるさかったのです。
「みんな、今日はみんな演技が巧かったなー」と、
病室は、おばさんたち一人一人のまるで品評会でした。
私は、この両者に「怒り」が残りました。
『これが、慈善ってやつなのか?』
慈善は、「施す側」は気持ちいいのでしょう。
「施される側」は、百も承知で、演技で感謝しているかのように演じます。
この演じ合いは、見るに堪えかねる情景でした。
以来、「慈善」は信じられません。
まず、言葉が間違っています。
「神様に捧げる象徴としての羊の頭」を「慈しむ」ことを表意していますが、
こんなことは想像ができません。
つまり、切り取った羊の頭を慈しむという場面は想像を絶するからです。
慈善事業への疑念
「慈善事業」はありえない。
慈善を声高にする団体など、信じること、
それは私には正直、疑念しかありません。
そして、デザインは決して慈善事業などに関与することを私は全否定します。
「我為汝略説 聞名及見身 心念不空過 能滅諸有苦」
お釈迦様は汝のために説くだろう。
観世音の名を聞き、観世音の姿を見て、観世音を念じ、
空しく過ごさなければ、諸々の苦しみを滅ぼすことができることだろう。
『観音経』の一節こそ、「慈悲」の力であり、
「慈善」になりえないことを言い説いています。
目次を見る
6月 29th, 2010 Posted 12:00 AM
メランコリー
「悲哀」は「憂鬱」と同義だと述べました。
そして、melancholy・メランコリー=憂鬱は、
「感情」という古代中国の解釈とまったく一致していることに
私は驚いたことがあります。
人間の感覚には、「感性」と「感情」があります。
そして、古代中国、すでに「感情」の「情」として判断されていたことは、
青い=黒を意味しているドロドロしたものが心に入り込んでくることを
「感情」と意味していたわけです。
同様に、古代ローマ・ギリシアの医学用語として、
メラン=melan=黒い、と、 コレ=chole=胆汁から
「melancholia」ということで、
陰鬱でまったく無気力、想像力の起こらない気質性を
黒胆汁性=melancholikosとさえ呼称づけられていたようです。
憂鬱性という病性と憂鬱という気質は精神病と位置づけられました。
占星術でも、火星とか胆汁などを読み取っていました。
画家デューラーに、羽を持つ沈思する女性の銅版画《メレ,ンコリア・1》や、
ミケランジェロ《ペンセソーロ(沈思の人)》などの作品も現存し、
その背景も語り継がれています。
R・バートン『メランコリー(憂鬱)の解剖学・1621』は、当時のベストセラーであり、
F・フィチアーノ『人生の書(Liver Veta)』は、新プラトン主義としての解釈があり、
天才など傑出した人物には鬱的な沈思気質がある、
とまでメランコリア=感情的な悲哀性が語られています。
わが国では蘭医学としてメランコリア=「默朗格里亜」=胆液敗黒病とまで当て字化され、
J.ゴルテル著作を宇田川玄随が邦訳・《西洋内科撰要》や「鬱証」・「鬱愁」・「鬱狂」など、
この精神的疾病は多くの訳語が与えられています。
そうして、近代医学では、depressionという新語と新定義が当てられるようになりました。
dpressionは経済用語となっている「不景気」をも意味しています。
沈思黙考
私は、メランコリーという言葉の響きは、
どこかに「沈思黙考するロマンティックさ」を感じますが、
病的意義が原意だったとすると、現代語の「ネクラ」に相当していると思います。
「感情」の発揚としてのマイナス性として、
世界的な歴史での人間の気質性に、
「ドロドロとしたことが心の中に貯め込む」という意味がありますが、
これが悲哀・憂鬱であり、
これを解放させる「慈愛」との関係性、
この関係性づくりにデザインを当てはめています。
Tags: chole, depression, F・フィチアーノ, J.ゴルテル, Liver Veta, melan, melancholikos, R・バートン, デューラー, ドロドロ, ネクラ, ミケランジェロ, メランコリー, メランコリーの解剖学, 不景気, 人生の書, 占星術, 宇田川玄随, 悲哀, 情, 感性, 慈愛, 手法 感性, 新プラトン主義, 沈思黙考, 胆液敗黒病, 蘭医学, 西洋内科撰要, 黒胆汁性, 默朗格里亜
Posted in 035「哀しみの美しさ=慈悲・慈愛」, 資本主義から逃走せよ!
目次を見る
6月 28th, 2010 Posted 12:00 AM
二つのかなしみ
私は、心、感情が「かなしむ」様を二つ持っていると納得をしてきました。
それは、私が五体満足に生まれながら、「歩けなくなった体」になってしまったので、
「かなしい」ことを徹底して考え抜いてきたからです。
そして、30年前に「哀しみにデザイン・車椅子の開発」という
自分向けの「車椅子開発企画書」にまとめたことがあります。
これまで、私は「哀しみ」について、哀しみと「美」について記してきました。
「哀しみ」と「悲しみ」
したがって、「哀しみ」と「悲しみ」について、私の私見を述べたいと思います。
私はいつも漢字の表意性と表音性・原意に拘ります。
「哀」は、
心の中がいっぱいになるかなしみを口から出ないように
衣をかけてでも押さえようとする形象を持っています。
「悲」は、
鳥の羽が羽ばたきいっぱい左右に割れるような心持ちの形象です。
私は、「哀」は、自分の感情を閉鎖するように、
他に対しても自己の感情を飲み込んでいる様を表していると思います。
しかし、「悲」は、自分の感情を解放するために、
泣き叫び他にもそのかなしみを届けようとします。
それは勢いをもって、ややもすればその悲しみを暴力化することにつながります。
これが「妬み」や「僻み」や「嫉妬」になる感情です。
日本語が素晴らしいのは、
こうした人間の感情を二つとも統合化する表現を持っていることです。
悲哀と憂鬱
「悲哀」という言葉です。
「悲哀」は「憂鬱」と同義であり、
melancholyという、古代からの精神病的な心理的な解釈が哲学・医学・心理学として、
世界の古典書には「定本」が相当数も存在していることです。
悲哀=憂鬱=メランコリーとして、こうした「定本」を紹介したいと考えています。
日本語は「悲哀」という言葉とともに、もうひとつ大きな言葉を持っています。
「慈悲」
「慈悲」です。
これは仏教用語ですが、
観音菩薩に象徴され見守られている人間感情を表しています。
「四無量心」と言われている「慈・悲・喜・捨」の最高位の感情を表しています。
「慈悲」はサンスクリット語では、
慈=マイトリー=maitr、悲=カルナー=karuと表します。
「慈」は「人々に楽を与える」ことであり、
「悲」は「人々の苦を取り除く」こと、と言われています。
結局は、人々への愛・哀であり、これを自己犠牲をいとわない利他行にほかなりません。
私は、愛よりも慈愛の大きさは、自己無我であり自他不二の精神力だと確信しています。
したがって、デザインは「慈愛」の表現としての「美」,
「美」を象徴化していく営為=行学だと自分に言い聞かせているのです。
Tags: melancholy, かなしむ, カルナー, サンスクリット語, マイトリー, メランコリー, 僻み, 原意, 哀, 哀しみ, 喜, 四無量心, 妬み, 嫉妬, 悲, 悲しみ, 悲哀, 憂鬱, 捨, 美, 自他不二, 自己無我, 自己犠牲, 行学, 表音性, 観音菩薩, 車椅子
Posted in 035「哀しみの美しさ=慈悲・慈愛」, 資本主義から逃走せよ!
目次を見る
6月 27th, 2010 Posted 12:00 AM
哀
人間の生涯、「喜怒哀楽」が折り重なって日常を包んでくれています。
私は、多分、人生は「喜び」・「怒り」・「哀しみ」・「楽しみ」が
四分の一づつ携えているのかも知れないと思っています。
本来なら、「喜び」と「楽しみ」だけだったなら・・・とは、
誰もが願うことでしょう。
そして、この「喜怒哀楽」を受け止めて、
喜びをそのまま表す人もいれば、
怒りがあっても、飲み込んでしまう人、それぞれです。
私は、素直に喜び、楽しみ、
率直に、怒り、また哀しみをそのまま表せる性格です。
むしろ、「喜怒哀楽」に粘着しているかのような、
「妬み」・「嫉み」・「憎しみ」などは、決して自分に付着させることは罪悪だと考えます。
そして、そのような粘着性の性格などは、医学的にある種の「妄想的疾病」であることから、
「喜怒哀楽」がその人に与えられることは無いのだろうと想像します。
「哀」に「美」
さて、私は「哀しみ」に「美」があると考えてきました。
つまり、生きていくことが死んでいくことと同値ライン上にあります。
だから、「哀しみ」と「悲しみ」とは大きな違いもあるのでしょう。
私は、人間の生死が「哀しみ」にあるからこそ、
「喜び」と「楽しみ」で彩られる生活があると信じています。
舞・歌
その根拠の例示として、「舞」と「歌」を挙げることができます。
「舞」とは、祈り、願い、であり、
これはもう人力が及ばないからこそ「神」に肉体で表現をする行為です。
「歌」は、体を屈折させて、体内から絞り出すように声を出す行為です。
いづれも、根底には「哀しみ」があります。
感謝の踊と歌
そして、その願いが叶えば、人はまた「踊り」、「歌う」のです。
その「踊り」や「歌う」ことには喜びと楽しみが反射します。
またその喜びと楽しみは、反復されて記憶から幾たびも取り出すことができます。
この反射や反復が、
祈りと願いが届いたからこそ「感謝」ができるという構図になっているのでしょう。
私は、この構図の生地に「哀しみ」が塗り込められていると想像します。
この想像力こそ、
「美」を嗅ぎ取り、さらには「美」を創り出す意欲にもなるのだろうと考えています。
Tags: 哀しみ, 喜び, 喜怒哀楽, 妄想的疾病, 妬み, 嫉み, 怒り, 想像力, 感謝, 憎しみ, 楽しみ, 構図, 歌, 神, 美, 舞, 踊
Posted in 035「哀しみの美しさ=慈悲・慈愛」, 資本主義から逃走せよ!
目次を見る
6月 26th, 2010 Posted 12:00 AM
喜怒哀楽
私は、感激・感動は、感覚的な認識であると考えてきました。
そして、具体的には、スポーツが刺激要素となって、受け止める感激。
音楽が刺激要因となって、蓄積されてくる感動をあげました。
さらに、そうした感激が「反射的」であり、感動が「反復的」、
そして、その反射性も反復性も相互性や,があるのではという見解を示しました。
そして、反射的であれ反復的であれ、感激し感動すること、感動し感激すること、
この感覚が「想像力」を育成してくれること、
「生きがい」というのは感激と感動無しにはあり得ないと確信しています。
人間は、生きることが死んでいく道程であることを熟知しています。
人間の生涯には、「生老病死」と「喜怒哀楽」が重層しているのです。
「喜怒哀楽」に感激と感動が介在しているわけです。
では、その「喜怒哀楽」を最も根本で支えていることは、
何なんだろうと考える、あるいは思うと、
私は「美」を感覚的に受容できることがとても大事で大切なことだと信じています。
母との別れ
私にとって、もっとも哀しかったことは、
「母との死別」でした。
40年前のことです。
母の瞳が、とても透明になって、一筋の涙が流れました。
私は母と添い寝しながら、小さな声で、呼びかけていました。
父や親戚が隣の部屋にいましたが、一人で見送りたかったので、
こみ上げる息もつまりそうな声で呼びかけ続けていましたが、母は逝きました。
47歳でした。21年間の母の生涯は私が独占していたと思います。
まさに、母のあれほど透明な瞳より美しいものには出会ったことがありません。
ちょうど明け方でした。近所のお寺の鐘の音が聞こえていました。
「死別」は感激であり感動だったのだと思います。
「美しい瞳」と「鐘の音」は、私にいつでも「反復的」に思い起こすことが出来ます。
そして、母の瞳の透明さに、私の「美」の基準があるのです。
デザインは「美」を追いかけています。
私は、「哀しみ」の感激と感動の中に「美」を身体化したのだと思ってきました。
母が与えてくれた哀しみの感激と感動は、
当然、母へのとめどない「感謝」になっています。
だから、私は自分の「生きがい」に、
母のあの瞳のごとくの「美」を、デザイン表現で追い求めてきたことです。
Tags: 反射的, 反復的, 喜怒哀楽, 想像力, 感動, 感激, 感覚的, 感謝, 死別, 母, 生きがい, 生老病死, 相互性, 美, 補完性, 認識
Posted in 034「感動・感激・感謝は感覚から」, 資本主義から逃走せよ!
目次を見る
6月 25th, 2010 Posted 12:00 AM
反射・反復
私は、「感激」は、「反射的な認識」とし、
「感動」は、「反復的な認識」と位置づけました。
その具体例としては、スポーツが感激を刺激要素の一つ。
音楽は感動の刺激要因の一つだという、私なりの経験から私見を記しました。
そして、もっと実際的な「感覚」としての「感激」と「感動」には、
感動であっても瞬間的であり「反射性」もあります。
同様に、感激であっても永続的で「反復性」が必ずあるものです。
入れ子構造
つまり、私は、「感激」して「感動」するという事象と、
「感動」して「感激」する事実は、相互性だけではなくて、
補完的に感覚内ではまるで「入れ子構造」のようになっているものと判断しています。
それは、私たちが「感覚」から「認識」でのプロセスでは、
まず、どんな「刺激」も「適当刺激」として
「入れ子構造」で受け止めるという曖昧性があるからです。
決して、刺激に対して感覚器=目・耳・鼻など五感器や、第六感という予想や予測や、
野性的な予知能力が、正確無比なる感覚では無いということだと思うからです。
ギリシア哲学・エンペド・クレスの時代に、
「直感」や「感覚」が、思考として理性的な判断から遠ざけられていたのは、
この曖昧性だったと推測します。
さらに、デカルトに至っては、
感覚に由来する知識に対しては大懐疑的だったことも明らかです。
ようやく、ロックが、
感覚器官が可感的な事物の認識が心の中の「真っ白な紙」=tabula rasaに
書き込まれるのでは、という思索から、
カントによって、
感性的な直感と概念的な思考の双方向性があることを教えてくれたのではないかと思います。
「直感の無い概念は空虚であり、概念の無い直感は盲目である」
という言葉に、私は感激と感動を持っています。
だからこそ、私は、「感激」も「感動」も無い人間には、
「想像力」が欠落しているとさえ思うのです。
私は、本当に、反射的な、反復的な、感激と感動を日常的に感じていたいと願っています。
おそらく、「生きがい」というのは、
感激と感動によって、反射的、反復的な認識ができる自分だという自己確認が不可欠でしょう。
Tags: tabula rasa, エンペド・クレス, カント, デカルト, ロック, 入れ子構造, 反射, 反復, 想像力, 感動, 感激, 感覚器, 生きがい, 適当刺激
Posted in 034「感動・感激・感謝は感覚から」, 資本主義から逃走せよ!
目次を見る
6月 24th, 2010 Posted 12:00 AM
感激・感動の配置
かつて、「感性」というのは「感情」と同一視されていた時代、
歴史が相当に長かったようです。
私は、「感性」を心の中に何かが一杯になってくることから捉え直すと、
「感性」も、「感情」もその差異性が見えてくると確信して、
あくまでも私見ですが伝えたいと思っています。
そこで、感性と感情の間に、「感激」と「感動」を配置します。
そうすると、明らかに、心が激してくること・心が動いていることには,
明白な距離観があると思っています。
それは、何かに刺激されて私たちは生理的な認識に至ると言われています。
感激要素
具体的に刺激する物事を挙げてみましょう。
私は、スポーツは、「感激」を与える要素が大きいと思うのです。スポーツで、
勝敗の決着がついた時、「勝った!」なんていう「瞬間」に感激します。
私は、これを「反射的な認識」だと言いました。
だから、「感激」が瞬間的な要素、それが刺激因であることは間違いないでしょう。
感動要因
こうした瞬間に比べれば、
音楽は、時間軸がありますから、刺激因は、明らかに要因です。
音楽によっての「感性」あるいは「感情」の動きは「感動」になると思います。
私にとって、
音楽によって今もその「感動」を必ず携えることができる音楽は、たくさんありますが、
一つは、高校時代の音楽鑑賞で、「中央アジアの草原にて」・ボロディンでした。
本当は、音楽鑑賞なんて眠っていようと思ったのですが、
この曲を聴いた時に、体の中に、なんだか広大な広がりを感じたのです。
なんだ、この心の中に果てしないイメージの拡大が起こっているのは?、と思ったのです。
そして、眠気どころか、この広がりは絶対に覚えておこうと思ったのです。
そして、教師から題名「中央アジアの草原にて」を聞いて、
本当にすごいなー、交響詩とは言うけれど、
目の前には無辺なる景観を見ました。
音・旋律で表現する音楽の力を感じました。
もし、ピアノが弾けたなら音楽系大学を選んでいたかもしれません。
反復的な認識
音楽は、時間軸があります。
この軸があるから「音」は「要因」となって、
心の中に「感動」を運んでくれ、しかも、それは心のどこかに蓄積されています。
そして、再び、この音や旋律は、反復してくるのです。
「感激」が「反射的な認識」だとするなら、
「感動」は、「反復的な認識」になるものだと考えます。
言い換えると、スポーツは刺激要素として「感激」を与え、
音楽は、刺激要因として「感動」を与えるものだと思っています。
Tags: スポーツ, ボロディン, 中央アジアの草原にて, 交響詩, 反射的な認識, 反復的な認識, 感動, 感性, 感情, 感激
Posted in 034「感動・感激・感謝は感覚から」, 資本主義から逃走せよ!
目次を見る
6月 23rd, 2010 Posted 12:00 AM
祭
この文字は、「肉を手で持ち上げて、神に捧げている」とのことです。
肉を神様に、ということになれば、
清水をかけ、塩をかけ、お酒をかけて、丁寧に清めます。
察
そして、この文字は宀=うかんむりがありますから、
屋内に清められた肉が神様に捧げられていることになります。
意味の拡大が起こります。
屋内の隅々まで清めるがごとくに、検分し検証し、
清められているかどうかを綿密に確認することになります。
洞察・考察・観察、そして警察や検察にまで至っています。
「察する」というのは、
客観的であると同時に、清められているかという感性的な認識だと考えます。
そして、「気持ちを察する」というのは「思いやり」にまでつながっています。
さて、もう一度、「祭」にもどれば、
祭は、「感檄」し、
「感動」させることに満ちあふれていなければならないということにもなります。
私は、祭には、
祈りや願いが叶えられたことへの「感謝」を示す儀式=イベント性があります。
神への「察し」=思いやり=感謝のサイクルがここにも明確に表れています。
政
そうなると、私たちは常識的に、
「祭り」=「政(まつりごと)」だということは熟知しています。
果たして、
「政」が、「政治」は、社会の隅々まで「察して」くれているのだろうか、ということです。
私は、デザインという営為は、ユーザーの使い勝手を「察する」ことが基本です。
私が、政治が忘却していることがデザインにある、
と指摘を繰り返すのは「感性」={感檄・感動・感謝}が備わっているからです。
Tags: 察, 感動, 感性, 感檄, 感謝, 政, 政治, 検察, 清水, 神様, 祭, 祭壇, 肉, 警察
Posted in 034「感動・感激・感謝は感覚から」, 資本主義から逃走せよ!
目次を見る
6月 22nd, 2010 Posted 12:00 AM
咸
「感」は咸=みなへんと心から成り立っています。
咸は、口と戌(ほこ)です。
これは刃物で口を封じ込める意味を持ち、
口の中が閉じられながらも何かでいっぱいになっている、と言われてきました。
周易では「沢山咸」として六十四卦の一つとして、
「自分も相手も真心を持てば、それを互いに感じあうさま」
を表しているという解釈もあります。
心
私は、おそらく、「口の中が一杯になっている」という咸に、
心がついているというのは、
心の中も一杯一杯になってくること、
心に何かが封じ込められているほどいっぱいのことだろうと解釈しています。
最も、「心」というのは、心臓を表していますが、
感じるということは、認識、それも私は「反射的な認識」だと考えてきました。
察
だから、「驚く」ということから、「察する」ということにも繋がりがあります。
洞察、考察、観察などを構成しています。
多分私たちが、「認識」するというのは、
脳内反応だけでは言い切れないことがそれこそ一杯あるのでしょう。
まず、私たちは「感激」できる自分なのか?ということを自問しておく必要があるでしょう。
そして、「何に」感激するのだろうか、
「どうして」感激するのだろうか、
最近の自分は「感激」をしているのだろうか、
こうしたことを「察する」必要があるでしょう。
私は、「感激」は一瞬、あるいは瞬間的に心の中が何かで満たされるのです。
それから、「感動」というゆるやかな心の運動が持続してくるように感じます。
だから、「感激」し、「感動」する自分に出逢う必要があるのです。
私が、初めてモンドリアンの原画をニューヨーク近代美術館MoMAで出会ったとき、
それは「感激」がゆっくり心の中に広がってくる経験をしました。
まず、本物が見られた!、という感動は、
私は絵画によって心の中にしみじみと流れ込んでくる実感がありました。
翌日は、MoMAのその部屋にひたすら2時間居ても、
その感動は心の中を一杯にしてくれました。
以来、「感」とは心の中が、瞬間的に一杯になるのが「感激」であり、
それがじっくりと一杯になっていくように感じることが「感動」だと思うようになりました。
だから、心が空白、あるいは空虚になることには、
やはり耐えきれないことも事実です。
Tags: モンドリアン, 六十四卦, 咸, 察, 心, 心臓, 感動, 感激, 戌, 空虚
Posted in 034「感動・感激・感謝は感覚から」, 資本主義から逃走せよ!
目次を見る