5月 4th, 2014 Posted 12:00 AM

車は男の子ゆえ、そしてデザイナーゆえ、
カーデザイナーほどではありませんが、それなりにいっぱい、
恵まれた車を乗ってきました。
一時は運転手付きの車も、
そして米国のリムジンも所有し使ってきました。
しかし、車椅子使用であり、商売用車両も考えられたはずの
そんな車が発売されていますが、私はこれを否定しておきます。
おそらく、障害者、特に車椅子利用者にとっては、
とても望んでいた車両だと思いますが、
私はデザイナーとして、障害者として、これらの車デザインを
全否定しておかなければなりません。
なぜなら、スロープでそのまま車椅子で乗れば、固定されていて
乗り心地は最低であり、それは荷物扱いになっている代物です。
これを「福祉車両」と言う貧しさゆえ、文化にはなっていません。
しかも、この解決で「福祉」を宣伝することを激しく非難します。
最近は、シートが回転して車両から出てきますが、
私もこうした車両を利用せざるをえないことが起こります。
周囲のやさしさはよく分かりますが、設計はまったく駄目です。
なんといっても足が必ずひっかかって大事になります。
私にとっては、セダンで充分です。
カーメーカーやタクシー会社でも「福祉車両」と分類していますが
私にとっては「福祉」という基本の無知さが歴然のモノです。
もっと、根本のことを考慮すべきでしょう。
まず、腰の運動要因がデザイン以前の設計から外れています。
もし、こうした福祉車両が役立つ人は、認知症の人だけです。
いや、認知症の人の志向までを熟知したデザイン設計が必要です。
私の教え子でカーデザイナー諸君には、車両デザイン自体が、
実は現代から未来性を未だに歴史性を引きずっている、
大誤解と品格性を失っていると断言しておきます。
『これは最適ではない・誤った車椅子対応車輌デザイン』
Tags: 「福祉車両」, カーデザイナー, リムジン, 腰の運動要因, 認知症, 車両デザイン, 車椅子使用, 車椅子利用者, 障害者
Posted in 企望を「までい」具現へ, 危機解決をめざすデザイン実務, 未分類, 祈望から企望へ
目次を見る
5月 3rd, 2014 Posted 12:00 AM

私が彼の存在とその意味を知ろうとしてきたのは、
ルイス・キャロルの「鏡の国のアリス」に取り憑かれてからです。
そして、「ハンプティ・ダンプティ」を当然として、
「比喩」という概念、
特にデザイン思考の私流基軸にしてきました。
あるメーカーのインテリアデザインのテーマに使ったこともあり、
ルイス・キャロルは私が選んだ私の賢人12人の一人です。
これは「プラトンのオルゴール」では相当に再考再考の人でした。
ハンプティ・ダンプティは、スラングとしては、
ずんぐりむっくりという意味に過ぎませんが、
なぜ、このスラングに至ったことも歴史的なある意味、
思考という歴史的なコンテクスト上にあると思っています。
さて、デザインは概念思考で言葉を運用します。
それは言葉とデザイン、とりわけ、比喩さらには暗喩までを
思考連続させていく方法論の実務作業でもあるわけです。
私にとっては、ハンプティ・ダンプティをコアとして、
ルイス・キャロルに学んできたと思っています。
このことを大学の講義に持ち込むことは未だに出来てはいません。
が、少なからず、比喩としてはそのままルイス・キャロルからは、
「鏡」を見詰めとらえてきたと自負しています。
したがって、比喩=ハンプティ・ダンプティからの示唆として、
「鏡」への反映に比喩を、デザイン思考に入れてきたはずです。
そんなこともあって、このハンプティ・ダンプティの人形を、
時々眺めています。
次世代のデザイナーに伝えたいことは、ハンプティ・ダンプティ、
その存在を西洋的な寓話から、思考の手がかりにしてきたことは
改めて書き残し、デザイン思考の象徴の一つにしてほしいのです。
「『鏡』の存在を知り尽くすこと」
Tags: 「ハンプティ・ダンプティ」, 「プラトンのオルゴール」, 「鏡」, デザイン思考の象徴, ルイス・キャロル, 寓話, 暗喩, 概念思考, 比喩, 言葉とデザイン, 鏡の国のアリス」
Posted in 企望を「までい」具現へ, 危機解決をめざすデザイン実務, 祈望から企望へ
目次を見る
5月 2nd, 2014 Posted 12:00 AM

光造形は本来、日本の発明でした。
しかし、米国産業にすっかり移行してしまいました。その影響は、
3Dプリンターブームをあたかも未来産業として喧伝に至りました。
しかし、ブーム止まりであり、それを流行現象としていることが、
わが日本でも喧騒されてしまいました。
出来上がっているモノは余りにも安易なモノづくりです。
フィギュアづくりなどは、光造形でも最初はありましたが、
ほとんどが流行現象となって結局は消滅しました。
私は、光造形から廉価なプリンターで、
自分仕様の家庭内モノづくりを日本ならではの
新たな取り組みにするべき関係づくりを計画してきました。
現在の3Dプリンターのブームの浅薄さに私は呆れていますから、
日本独自路線として、伝統工芸産地とのサーキット計画を創成し、
陶磁器、漆器、打刃物などの全国産地に、
まずは、現状のプリンターで、自己発想品を作成してもらい、
それを各産地のプロに、伝統工芸技能で支援してもらいます。
結果、自分のプリンター成果物は、現物として産地産品に革新、
この革新が全く新たな伝統工芸になる回路=サーキット創りです。
すでに、私なりに認めている産地サーキットを準備しています。
現在はまだ国産の廉価なプリンターさえ生まれていません。
ほとんどが米国製のプリンターになっていますが、
米国が日本への輸出をしていないモノも出てきました。
けれども、ほとんど中国製は香港ではさらに格安製品コピーであり、
これらの製品には未来はありえないとさえ判断しています。
無論、光造形に比較すればモノづくりの核心にはなっていません。
私の狙いは、日本独自の「問題解決の手法」として、
3D-Printingを伝統工芸技との融合性を創っていくつもりです。
3D-Printingサーキットとしてのモノづくりを開始します。
『3D-Printerと3D-Printingの時代にやっとなったが』
『光造形から3D-Printingまでをプレゼン』
Tags: 「問題解決の手法」, 3D Printing, 3D-Printingサーキット, 3Dプリンターブーム, サーキット計画, フィギュアづくり, 伝統工芸産地, 光造形, 格安製品コピー
Posted in 企望を「までい」具現へ, 危機解決をめざすデザイン実務, 祈望から企望へ
目次を見る
5月 1st, 2014 Posted 12:00 AM

「かわいい」=「kawaii」は現代の感覚主義として風潮を制御し、
国家戦略にまで投企==現代風潮的な理解になっています。
「かわいい」という感覚が政治戦略化されることについては、
相当の準備が必要であるものと考えざるをえません。
私流の形態論では、「かわいい」には、形容詞要素は明快であり、
決して人間には脅威や凶暴性を与えないかたちがあります。
それは獰猛な動物をモデルとしても、受け入れられる形なのです。
したがって、私が最も危惧することは、
モデル化されて消去された獰猛さ=かわいさと直結していることは
再熟考をしなければなりません。
ところが、「かわいさ」には社会的に大容認されている安心さ、
そのものが担保化されて風潮を超えた曖昧性まで消滅しています。
私は、軽薄さまでを受け入れる感覚の程度を、
敢えて全世界のバランス感覚であると論理化しておきます。
このバランス感覚こそ「度量衡」の「度」と「衡」、なのです。
それが結局はファッションの軽薄さを裏付けているものでしょう。
この軽薄さには実際は勇気の源泉があるものと考えるべきです。
たかだか「かわいいライオン、そのぬいぐるみ」には、
凶暴性も獰猛性もまったくありませんが「かわいさ」があります。
結局、このかわいさは勇気を真に裏付けているからこそ大切です。
人間世界が知的な軽薄さを見過ごしている勇気の存在こそ、
実は、自分をかわいい存在にしたいという、
ぬいぐるみを所有し顕示する軽薄であたかも無知的ささえ、
実際は大きく擁護していることを制度だと断言すべきことです。
私が問題にすることは、無知な軽薄さに耽溺している感性です。
そのような感性の対象に流れているぬいぐるみの効用性です。
つまり、知的で風潮化されている軽薄さに「かわいい」が、
明白に勇気となっていることの制度化を再容認すべきでしょう。
『キャラクターのデザイン=かわいいデザインの再定義』
「アイドル・キャラクターのメタ・アンビエントへのコンテクス」
「キティちゃんにて確認できる『安全と安心』」
「『きれい』にすることが『美しい』こと」
「物質・形容されるモノの価値とモノの形容価値」
Tags: 「かわいい」=「kawaii」, ファッションの軽薄さ, 勇気, 国家戦略, 度量衡, 形態論, 感覚主義, 投企, 担保化, 曖昧性, 獰猛さ, 知的な軽薄さ, 脅威や凶暴性
Posted in 企望を「までい」具現へ, 危機解決をめざすデザイン実務, 祈望から企望へ
目次を見る
4月 30th, 2014 Posted 12:00 AM

街中で自動販売機は、日本では市民の倫理観もあって、
まだまだきれいな状態で盗難もなく設置されていて、
すっかり街のいわゆるストリートファニチュアになっています。
現代人はどこでも喉を潤す便利さを手に入れています。
もうほとんど見慣れた街の要素になっていますが、
あくまでも商業主義での競合性なのか装置進化を遂げていません。
確かに、次世代デザイナーの「デジタルサイネージ」化、
これが一時は話題になりましたがその後の展開は止まっています。
想像されることは、コスト高であったことや、
ユーザー嗜好は現物自販機だったことでしょうか。
無論、自販機への物流システムなどはもっと進化するべきです。
かって私もこの自販機をC.I.表現に使ったことがありますが、
それは存在性へのデザインを吟味したことがあります。
現在の自販機装置のデザインに、何か特色は?と考えると、
大きな進化、つまりデザインそのモノは進化していません。
むしろ時代遅れの装置デザインに終わっていまっています。
それは、街の景観、ストリートファニチュアとして、まったく、
デザインが出来ていないと評価しておきます。
ストリートファニチュアとして、私は、まずなんといっても
指摘しておくべきコトは、天災対策などは皆無だと思います。
確かに、万一震災時など水の補給は可能かもしれませんが、
設置対策での防災などは対策未然のモノが出回っています。
私は早急に、しかもストリートファニチュア化しているだけに、
もっと新たな自販機のデザインが必至だと考えざるをえません。
そして、もっと街の景観、ストリートファニチュアになるには、
飲み物表示・寒温表示・さらにはサイネージ化するべき、
街の救援要素と要因づけが必要だと提案しておきます。
『通称・点字ブロックのデザイン間違い!』
目次を見る
4月 29th, 2014 Posted 12:00 AM

街の景観を決定してるのは、コンビニと電話販売店です。
そして当然のごとく、看板が出ています。
街の進化が歴然としているのは、こうしたチェーン店の存在です。
店舗の存在は、街の景観と雰囲気を変えていますが、
同時に、日本中どこにいっても街の風景は平準化されました。
それは街の機能が分かりやすいという利点もありますが、
平準化された街は、日本中どこに行っても同じです。
おそらくこれから街の景観はガソリンスタンドが変わるでしょう。
それは自動車の機関や石油から急速充電スタンドに移行するはず。
私は、街に出れば必ず見かける「看板」とそのデザインに対して、
未だに看板にすぎないことには進化の兆しが皆無です。
もはや看板の時代は終わっていますが、
あくまでもV.I.された統一的な視覚効果を
商業主義で終わっていることに大きく異論を申し立てておきます。
街は時代変化していかなければなりません。
私は看板にこそ、いくつかの性能性と効能性を実装化すべきです。
まず、性能としては天災予報や防犯システムを装備し、
街に存在している意味の効能性を仕込むことで、ようやく、
私は看板に存在する機能性が生まれると判断しています。
すでに、コンビニは、防犯場所にもなっているようですが、
それだけの機能はありません。さらに、
電話販売店ならば、サーバーシステムやWi-Fiのハブ基地、
こうしたことが看板に実装されるべきです。
そうして、私は看板デザインでの骨格であるマークデザイン、
この新たなあり方が求められるべきでしょう。
なぜなら、日常、私たちの生活をこうした看板のデザインは、
私たち自身の美学性を変動させていることは間違いありません。
目次を見る
4月 28th, 2014 Posted 12:00 AM

駅舎のデザインは全く新鮮みというより、現代を見失っています。
ある駅舎の建築コンペで素晴らしいと思ったデザインは、
入選はしたけれど採用されていないだけにとても無念でした。
さて、私はふるさと福井には月一度は帰省していますが、
小さな福井駅舎で最も楽しみにしているのは、
「書」が展示されていることです。
私は「書」こそ、日本の伝統美学そのものだと思っています。
したがって、政治家は達筆であることを要求しています。
「書」の出来ない政治家は歴史から外されるものとみています。
福井駅舎の工夫のひとつですが、この展示意義は大きいはずです。
草書はじめ様々な作品が展示されています。
私はこの展示意味は素晴らしいものと思っていて、
もっと多く、20点ほど展示して欲しいと駅員に伝えたほどです。
これらの作品は決してプロではないでしょうが、
市井の書の技能としては伝統性があると判断評価しています。
福井駅から帰阪するときには、なるべくゆっくりと見ています。
この美しさは市井から展示に及んでいることに最大の美学を
私は大きく認めているのです。
しかし、これだけの展示が駅舎を利用する人にとっての
大きな意味が伝わっていないことを残念に思います。
つまり、「書」の美しさを知ろうとするだけの観念すら、
失ってしまっているのかも知れません。
これが街=まちで失ってしまった気持ち=きもちでしょう。
結果街に氾濫するブランドマークやロゴすら美しさがありません。
目立つだけの装飾マークは、日本では氾濫していても、
街の景観を徹底的に美しくするためにも、私はこうした展示を
駅舎であっても陳列してほしいと願っています。
目次を見る
4月 27th, 2014 Posted 12:00 AM

最近は室内のキャンドルが求められてます。
自宅にもワイフが様々に収集しているほどです。
しかもワイフの専門が「建築と照明」なのでほとんど収集物です。
私には蝋燭ですが今はキャンドルとか洒落た名前になっています。
蝋燭には、私は二つの思い出があります。
一つは仏壇の灯明と、もう一つは、足羽山に隠れ家としていた、
岩山につくってあった洞窟の中にはいつも置いていました。
洞窟の蝋燭は仏壇の灯明を持ち出したモノでした。
デザイナーになってからは、色彩や照明では、
あらためて「明かり」を定義づけようとしてきました。
私は、光と照明には明確な意味づけがあると考えてきました。
それは、「見つめる光」と「見つめられない光」があります。
そこで「見つめる光」というのは、見詰められる光は、
人の心の中にまで光は差し込んでくるものです。
私はこれを「あかり」と呼ぶことができます。
「あかり」には二つの種類があります。
「明かり」と「灯り」です。
そうして、「灯り」はまさにキャンドルや蝋燭の灯火でしょう。
この「あかり」は、見詰める明るさがあると同時に、
光は揺れる動きがあります。まさに揺れるあかりだから、
何か、心情を託せることができるモノになっていると思います。
こうしたキャンドルのあかりは、
今ではLEDでの照明器具にまでなっているようですから、
私はこの使い分けまでが可能になってきた時代だと思います。
したがって、デザイナーの照明展や照明器具デザインには、
ひかりとあかりの分別も不可能はモノは無視して構いません。
蝋燭の明かりとLEDの灯りはやがて融合化されるでしょう。
*足羽山・福井市にある山(福井市内に山並みとしてほぼ海抜100m)
目次を見る
4月 26th, 2014 Posted 12:45 AM

日本のJR・JT・JA・JUは、日本を代表する企業ロゴです。
しかし、
日常最も目にする企業ロゴでありながらマークでもあります。
それぞれのロゴあるいはマークについてのデザインについては、
デザイナー名も知っていますから、
デザインの質については云々することは歴史判断になるでしょう。
しかし、この四つが代表しているコトは、
ロゴとマークが共存していることであり、日常的存在、
その美学性は確認されるべきと考えてきました。けれども、
それを記述するには正直、その勇気を私は持っていませんが、
このほとんどシンボルマークとなっているロゴタイプには、
それぞれの現代的な意義と将来への意味性を再考すべきでしょう。
なぜ、私がこうしたマーク的なロゴタイプを
敢えて取り上げているのは大きな意味と意義があるからです。
おそらく、C.I.デザインの専門家から見れば、
それぞれのメリット性とデメリット性はあるのです。
ところが、日常化してしまっているマークの存在=効能性が、
日本人の感受性での美学を決定付けています。
したがって、このマーク的ロゴが、そのまま企業V.I,
V.I.=ビジュアルアイデンティフィケーションを決めています。
私は決めているというよりは押し進めた結果の美学性の問題です。
安易に企業のロゴなのかマークなのか不明にさせていたり、
経営者の美学性を押しつけているモノには大落胆します。
もし、私がデザインの専門家として批評するのは、
自分の講演の時程度ですが、私の使命として、
このしたロゴタイプやマークには、私の意見は書き残すことを
最近、特に考えるようになってきています。
その最大の理由は、日本人の紋章観念からの伝統性を
私は専門家として明確にしておきたいからであり、
それは、日本の現代企業その経営者のセンスを再考するためです。
「負けて当然・企業のロゴタイプだけでは勝てない」
「ロゴタイプ書体その基本ルールには伝統がある」
「企業C.I.ロゴタイプは、まさしくシンボル」
「商品力を低下させている流行マーク・小学生も信じない」
目次を見る
4月 25th, 2014 Posted 12:00 AM

私の解釈が間違っているのかもしれませんが、
小説で語られた事が、歴史の真実になってはならないと思います。
先般、福井の地元紙で報道された内容に大きな違和感があります。
その根拠は、1980年代から安政の大獄と咸臨丸の事実、
1990年までの10年間、すなわち、日本開国の歴史性の再考です。
私は日本の開国には、様々なストーリーがあるだけに、
このストーリーは、小説のコンテクストには充分成立します。
しかし小説のコンテクストを歴史と読み間違えが多すぎるのです。
真実・事実・正義という「真」は、
人間にとって、主観性が入り込むほど歪曲化は簡単に起こります。
それを情報化と断言してはいけないと考えます。
それこそ、内村鑑三の「後世の最大遺物」を読めば、
彼がこの著作時の社会評論家たちの言説は決して残らないという、
この指摘が当たっていると私は考えています。
日本の開国には、坂本龍馬が大ヒーローで語られています。
しかし、これは小説の話に過ぎませんが、今や歴史事実です。
私は大きな違和感をもっていて、
徹底的に1980年から1990年までを追いかけ、
ほとんど暗記していますから、この三岡八郎=由利公正のことは、
大間違いだと断言しておきます。
確かに、坂本龍馬も暗殺されただけにヒーローかもしれませんが、
歴史の真実と重ね合わせることは私にはこの指摘理解無理です。
由利公正は日本開国において「五箇条のご誓文」の作者である事は
真実ですが、そのことをヒーローイメージから語ること自体を
私は大訂正しておきたいと考えています。
小説プロットを歴史コンテクストにする情実を捨てるべきです。
日本人は、明治開国、世界大戦などにこの性癖があることを
私は是正すべきだと書き残します。
「『医の知の未来』適塾175年・緒方洪庵没後150年=大阪大学」
「安政の決定事項にデザイン導入してから・・・」
「会えずとも、誤解されようが・・・私は語り継ぎます。」
「憧憬の人物、その実筆書状を探す」
「徳富蘇峰の評価も忘れられて・・・・」
「ふるさと福井の偉人たちへの敬愛あるのみ」
目次を見る