3月29日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design
3月 29th, 2011 Posted 9:30 AM
Tags: デザイン, 川崎和男のデザイン金言, 際限
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3月 29th, 2011 Posted 9:30 AM
Tags: デザイン, 川崎和男のデザイン金言, 際限
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3月 28th, 2011 Posted 3:00 PM
3月28日 先勝(壬午)
Tags: かたち, 川崎和男のデザイン金言, 際限
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3月 27th, 2011 Posted 9:30 AM
3月27日 赤口(辛巳)
Tags: 象徴性, 造形性 川崎和男のデザイン金言, 際限
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3月 24th, 2011 Posted 7:38 PM
Tags: 川崎和男のデザイン金言, 際限
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8月 24th, 2010 Posted 12:44 AM
死に至る病とは絶望
ともかく交通被災を受けた私にとって最も大きな問題は、
「なぜ? 自分にはこういう運命、宿命」ということでした。
五体満足な体で「生」を受けたにも関わらず、
「歩けない体」になぜ自分は? ということでした。
私は大げさに言えば多分、この問題こそ「哲学的問題」だと悟りました。
「生老病死」での「病」への自我意識との対決こそ「哲学」だということでした。
「死に至る病とは絶望である」ということを、連日考えていたように思います。
それは現在も連続して抱いています。
具体的には、肉体に襲いかかってくる発熱や悪寒や嘔吐や意識障害に関わらず、
「精神的な恐怖感」は耐え難きものがあるわけです。
私は、とても重大な分別に気づきました。
それは、「怪我」と「病気」を自分の身体に居座っていることから、
「怪我」というのは、「自分を怪しく」することに対して、
人間は、余程の受け身で耐えきれるものなのか、ということです。
そして、「病気」というのは、
「気持ちが病んでいる」証にすぎないものなのだ、ということで「気」を抜いてしまえばいい、「病」が次々と私を責め立てているとことです。
私は28歳から、この連続苦行を幾たびか受けるようになりました。
そして、自分なりの結論で、この苦行と立ち向かうことができる「術」を身体化できました。
哲学なのか、宗教なのか、という「際限」は、「死」を意識することにあるのでしょう。
難証難行による自力は本願にあらず
なぜなら、「自力」に対して、
日本人の精神世界を支えてくれた対岸には「他力」を位置づけていました。
どの宗教なのかは、ここでは不問としておきますが、
いわゆる「他力本願」などは、「怪我」と「病気」を抱いた本人には何の意味もありません。
むしろ、「自力」を鍛えあげることは、「難行道」なる論理が明確に宗教、
それも仏教緒宗の「教判」にありました。
私が、まさに「車イス」に乗るだけのトレーニング=リハビリテーションは、
「難証難行」をひたすら受け入れるだけと割り切ったことです。
いわば、自分に襲いかかってきたこの難行を相手にしている自分を客観視することでした。
ただし、これは今なお割り切っていても「自力」の難行であり、
「本願」にあらざることは認めざるをえません。
Tags: 五体満足, 交通被災, 他力本願, 哲学的問題, 宿命, 怪我, 教判, 死, 死に至る病とは絶望である, 生老病死, 病気, 自力本願, 自我意識, 連続苦行, 運命, 際限, 難行道, 難証難行
Posted in 044「車椅子と自転車」, 資本主義から逃走せよ!