4月26日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design
4月 26th, 2021 Posted 12:00 AM
Tags: マレーヴィチ, 予知, 作家, 始計としてのデザイン, 川崎和男のデザイン金言, 運命, 黒い十字形
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4月 26th, 2021 Posted 12:00 AM
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5月 7th, 2013 Posted 12:00 AM
「March.11.2011」を体験した私自身の運命。
私はデザイナーという天職である幸運があり、しかも車倚子生活。
自分の生涯でこの国難と真正面に対峙しなければなりません。
そして、大学を退任しましたが、
「までい-Project」=東日本大震災の復興デザイン計画と、
それをさらに大きな視野で捉え直す「危機管理」へのデザイン。
これが私にとって最期の仕事になると常に言い聞かせています。
「危機管理工学プロダクトデザイン寄附講座」を率いています。
しかし、危機管理学・危機管理工学、
さらに、危機に対するデザイン、プロダクトデザインの学際化。
この学際化で「危機への臨機応変なデザイン」と、
その「産業化」をめざしています。
問題は、「危機とは何か」ということ、
私の定義づけの言い換えは、「何が危機か」です。
おそらくこれからも、このFBで、
その「応答・回答・解答」デザインを記述していくでしょう。
資料を読み込んできましたが、
最近、この「危機とは何か」について、
真正面からしかも冒頭で、
この考察を「ことば」にした本にやっと出会いました。
とても大きなヒントです。
というよりも、私の人生でこうしたことは度々起こります。
それは、常にこの「問題提起」を掲げていれば、
誰かにささやかれたように、思考のヒントを目前にするのです。
まず一回読んで、さらに私が読みあさった資料から、
この考察のままでいいのだろうか、と再思考します。
結論は、
まだ浅薄過ぎると言うのはこの学者への反論のようですが、
それは、私がデザイナーであり、大学人として、
しかも「危機管理デザイン賞」を選別する責務での判断です。
さらには、「危機管理を成就する産業そのもの」に、
プロダクトデザインで主導していくことだけに、
私は、これだけの定義では無いと明言しておきます。
危機管理学と工学とプロダクトデザイン、
この三つの学際化によって、
この天災と人災、日常が「危機状況」に対して、
わが国の産業化をと考えています。
Tags: March.11.2011, デザイナー, プロダクトデザイン, までい-Project, 体験, 危機管理, 危機管理デザイン賞, 危機管理学, 危機管理工学プロダクトデザイン寄附講座, 問題提起, 回答, 国難, 天職, 学際化, 対峙, 幸運, 復興デザイン計画, 応答, 東日本大震災, 生涯, 産業化, 真正面, 私自身, 視野, 解答, 車倚子生活, 退任, 運命
Posted in 企望を「までい」具現へ, 危機解決をめざすデザイン実務, 祈望から企望へ
8月 1st, 2011 Posted 12:00 AM
Tags: 1949年2月26日, 2049年, 交通被災で車椅子, 使命観, 叱咤激励, 右脳, 同情, 姓名判断, 宿命, 左脳, 悔し涙, 海江田万里, 生年月日, 血液型, 誠実さと正直さ, 運命, 魚座・B型・左右利き
Posted in 祈望から企望へ
8月 24th, 2010 Posted 12:44 AM
死に至る病とは絶望
ともかく交通被災を受けた私にとって最も大きな問題は、
「なぜ? 自分にはこういう運命、宿命」ということでした。
五体満足な体で「生」を受けたにも関わらず、
「歩けない体」になぜ自分は? ということでした。
私は大げさに言えば多分、この問題こそ「哲学的問題」だと悟りました。
「生老病死」での「病」への自我意識との対決こそ「哲学」だということでした。
「死に至る病とは絶望である」ということを、連日考えていたように思います。
それは現在も連続して抱いています。
具体的には、肉体に襲いかかってくる発熱や悪寒や嘔吐や意識障害に関わらず、
「精神的な恐怖感」は耐え難きものがあるわけです。
私は、とても重大な分別に気づきました。
それは、「怪我」と「病気」を自分の身体に居座っていることから、
「怪我」というのは、「自分を怪しく」することに対して、
人間は、余程の受け身で耐えきれるものなのか、ということです。
そして、「病気」というのは、
「気持ちが病んでいる」証にすぎないものなのだ、ということで「気」を抜いてしまえばいい、「病」が次々と私を責め立てているとことです。
私は28歳から、この連続苦行を幾たびか受けるようになりました。
そして、自分なりの結論で、この苦行と立ち向かうことができる「術」を身体化できました。
哲学なのか、宗教なのか、という「際限」は、「死」を意識することにあるのでしょう。
難証難行による自力は本願にあらず
なぜなら、「自力」に対して、
日本人の精神世界を支えてくれた対岸には「他力」を位置づけていました。
どの宗教なのかは、ここでは不問としておきますが、
いわゆる「他力本願」などは、「怪我」と「病気」を抱いた本人には何の意味もありません。
むしろ、「自力」を鍛えあげることは、「難行道」なる論理が明確に宗教、
それも仏教緒宗の「教判」にありました。
私が、まさに「車イス」に乗るだけのトレーニング=リハビリテーションは、
「難証難行」をひたすら受け入れるだけと割り切ったことです。
いわば、自分に襲いかかってきたこの難行を相手にしている自分を客観視することでした。
ただし、これは今なお割り切っていても「自力」の難行であり、
「本願」にあらざることは認めざるをえません。
Tags: 五体満足, 交通被災, 他力本願, 哲学的問題, 宿命, 怪我, 教判, 死, 死に至る病とは絶望である, 生老病死, 病気, 自力本願, 自我意識, 連続苦行, 運命, 際限, 難行道, 難証難行
Posted in 044「車椅子と自転車」, 資本主義から逃走せよ!