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Posts Tagged ‘議員制民主主義’


「かたちには三つのかたちがあるようだ」


   


     5月 7th, 2011  Posted 12:00 AM

「かたち」というかたちはありません。
私は「かたち」に関わってきました。
私なりに、「かたち」は三つあると想っています。
形式・形体・形態だと考えてきました。
しかし、形式はかたちというモノに
いたるわけではありません。
むしろ、形式はすぐに形骸化する事があります。
それでも形式のデザインは強固にあるものです。
形式で取り繕いは極めて簡単です。
そして形式のデザインほどまた難しい事は無いと考えてきました。
その前に、形体というのは、
立方体・球体・三角錐・四角錐などの基本形式が、
モノのかたちになっている物です。
そして、形態は基本形式からの状態変化・変貌したモノです。
デザイナーとして、この三つのかたちに拘ってきましたが、
かたちを造形するということが、
自分から距離=隔たり=近さという概念が見え出すとき、
ようやく、造形するこうした三つの「かたち」から
最も欠落していく事に気づき始めるものです。
とりわけ、具体的に身体との距離感と、
自分自身だけの想像力との距離感が把握・認識できるには、
ある種の能力が必要になると思えるようになりました。
少なからず、この能力を参照するには、
自分の「かたち」の検証をある方向から試すことしかありません。
この手法がデザインだと思っています。
したがって、この三つのかたち=形式・形体・形態には、
自分の誠実さは決して失ってはならないと確信しています。
形式・形体・形態に誠実さが無いモノは容認不可能です。
だから形式論議に終始する議員制民主主義は腐敗しているのです。

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「民主主義が護ること、破壊することを分別」


   


     4月 23rd, 2011  Posted 12:00 AM

国会は、議員制民主主義の「場」です。
しかし、天災と原電事故の政治の場が、
なぜ首相官邸なのだろう。
どうしてあの場の議論で決定したことが、
被災地運営で可能になるのでしょうか。
代議士からさらに選別されたリーダーの実務能力、
これがこれほど無能であることに私たちはNOを告げるべきです。
官邸で閉じこもっている指導者に
何が見えているのでしょうか。
明らかに、国会の場からも被災地という場は見えません。
もっと見えないのが放射能。
かと思っていたら、ますます見えないのはリーダーの方針。
民主主義を標榜し、共有と共時感覚を有しているのは民間であり、
そして行政それぞれ「地方」であることが露呈しました。
「中央集権国家体制」は破滅したと考えるべきです。
無論、これは民主党に限らず自民党も同罪だと思います。
民主主義だから私たちが護られてきたことがありました。
たとえば、水道の水が飲める国家、
しかも「うまさ」まで追求できた日本でした。
私たちは、そのことに慣れ切ってしまったのでしょう。
私たちも反省と自省が求められています。
世界140ヶ国で水道完備は13ヶ国と言われています。
ところが、民主主義を建前に「隠匿」してきた「原子力」は、
企業利益=資本主義の我田引水への固守により、
本来は「理想主義対象であるべき原子力」を破壊したのです。
文明の利器ゆえに、その危険性を「安全・安心・信頼」を
台無しにしたのは、誤った資本主義とその下意識主義の民主主義。
あらためて、民主主義の罪と罰を明確に分別する大きな機会を
わが国は手に入れたことを確認しておきましょう。

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「代議員には教養と財産があるべきだった」


   


     4月 22nd, 2011  Posted 12:00 AM

議員制民主主義は近代憲法の賜物。
真っ直ぐな理想主義だと思います。
そして、この制度は英国から始まりました。
政治という支配構造の根底には、
「声なき声を」代理で議論する人が代議員です。
この英国式議員制もすでに限界がきていると想像します。
そういう意味では「民主主義も終焉」しています。
かって、英国での代議員には二つの条件がありました。
「教養と財産」がある人物によって議員制民主主義が出発しました。
わが国の議員制民主主義を司る代議員には、
教養は学歴となり、財産は代議員という商売での蓄え財産贈与。
このようなことが明確になってきたのが、
日本の議員制民主主義を「声ある声が」取り囲んでいます。
だとするなら、代議員が為すべき責務は放棄されていることです。
明確なことは代議員にあるべき「教養」と「財産」を
再度検分し直すことでしょう。
すでにこの事などは幾たびも日本の「声なき声」の中にあります。
教養が学歴ではありません。日本人全ての了解事項です。
今回露呈したことは御用学者の卑しさだったと言えるでしょう。
建設族、原子力族、電力族とよばれていた代議員たちが、
多数決=票集めに、学歴を教養と読み間違えていた無能さです。
大学人としてこのような学者たちをどれだけ見てきたでしょうか。

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