kazuo kawasaki's official blog

Posts Tagged ‘談話’


『会話と対話の構造から』


   


     8月 7th, 2014  Posted 12:00 AM

人間同士のコミュニケーションには二つの形式があります。
会話=conversationと対話=dialogueです。
最近は会話が出来ない人が増加しているという話を聞きます。
私自身も、会話が出来ないのは、基本的には年代の違いを感じます。
それは極めて常識的な関係性という構造が壊れだしているのでしょう。
さらに、会話が限定化されると、それは対話になります。
そして、明らかに会話と対話には大きな差異があることです。
なぜ一方がcon+versationであり、一方は、dia+logosが問題です。
明らかに、対話はギリシア語のdialogosが語源であることに注視。
これはdiaとは決して、conである「二つの」という意味ではなく、
「・・・として」ということから、言葉としてのやり取りという
会話での限定性を意図しているととらえるべきでしょう。
ともかく、会話にしても対話にしても、
人間の関係性は話合うことが、言葉を厳密にしてやり取りに至れば、
それは「対話」になり、談話や雑談を超えた関係性の構造です。
そして、対話には、自分自身だけでの会話が成立していることです。
したがって、会話という二人同士の話合いが出来なくとも、
人は自分自身への言葉の確認作業=表現体系づくりは可能です。
なぜ私はここで「会話」と「対話」を取り上げているのでしょうか?
それはデザインする対象への会話形式と対話形式を明化するためです。
私は話をモノ=デザイン対象にしたときには、
会話としてのデザインと対話としてのデザインがあることの分別です。
デザイン対象の表現が、会話なのか、対話なのかは、
現状のデザインすることとデザインされたことの関係性の構造です。
ひとまず、この記載があったことを記憶に留めておいて下さい。


目次を見る

『資本主義からの逃走』
    「話し合う、この実体験から文脈へ」


   


     8月 29th, 2010  Posted 12:00 AM

文脈の身体化
人間は「ことば」を持っています。
初めに「ことば」ありき、ということは、
自分が母親から「ことば」を身体化していきながら、
体験・経験でその「ことば」の内容と質をさらに「身体化」していくわけです。
私は、交通被災というとんでもない状況の実体験の中で、
その事件・事象・状況の中での「ことば」を「身体化」してきたのだと考えます。
そして、見つけ出しているのは「文脈」という「ことば」の脈絡性やその順列性で、
それらの意味を獲得することを、自分なりに創りだしたり制御できるということです。
しかも、この言葉の脈略性=文脈をさらに深く詳細にしていくこと、
それはそのままデザイン=造形による問題解決までを体験から決着させたいという意志と意欲です。
そこで、次のことばを並記してみます。
●「会話・会談・談話・対談・対話」です。
つまり、ひとまとめで言えば、言葉がこうした中で、
どのような脈略=文脈を持っているかを確認しておこうということです。
「会話という談話」対「対談という対話」は、
デザインという問題解決の中で、コンテクスト=contextが必ず常駐しているということです。
私が車イスという、いわば「不幸な事態」が、実際はその逆転であって、
「コンテクストへのまなざしを得る」=幸運さにつながっているということです。
私がデザイナーであったことは、
「問題解決」にコンテクストからの解答を造形化できるという自信を「身体化」できたことです。
それは「会話:対話」に、
コンテクストを必ず位置決めをして配置しておくことが必要十分条件だということを
車イスの「身体」・「身体の精神性」体験から教えられて知ったという幸運だったのです。


目次を見る

『資本主義からの逃走』
  「文脈へ入る差別と支援を受け止める・・・」


   


     8月 28th, 2010  Posted 12:00 AM

退院直前の経験
リハビリ病院でようやく退院の目途は、
私はとても早かったと思います。半年で退院しました。
まず、一日外出して、病院へもどる。
三日外出して、また三日病院。
一週間外出して、一週間また病院というトレーニングでした。
親友が立ててくれたアイディアは、東京都内の一流ホテルを選んでくれました。
「海外へ行ったときのトレーニングと自動車の練習をするべきだ」と
彼はホテルを選んでくれたのです。
これは退院間際に病院で大問題になりました。
ホテル暮らしのトレーニングなんて、認められないと言われたのです。
車イス生活で、どうやって「生きていくか」という問題も、
「イラストレーター」で食べていくために、別荘地に家を建ててそこで暮らす、
という呑気な計画でした。
フリーランスへ
ところが、その話が東芝の技術系の上司が聞いて猛反対でした。
「独立しなさい。スタジオはどこかクライアントを見つけるから」ということになりました。
赤坂に新築のマンション、
その一室からフリーランスデザイナーになるという道を用意してもらったのです。
東芝は退社したいけれど、当時の労働組合は「残れ」というややこしい話になり、
東芝の社員のままに赤坂で独立したのです。
同時に、母校・金沢美大の恩師から「帰ってこないか」という話も入ってきました。
そしてまだ東京でデザインしていくならと「メガネメーカー」を紹介されました。
話は受けましたが、契約までの時間をもらいました。
音響機器がやっとできる自分にメガネなどとても無理と判断していました。
そしてとんでもなく病院で結論的に言い渡されていたことは、
「君の年齢で、この障害なら40歳までが寿命」という「宣告の会話」でした。
私は、このドクターを見下しました。もっともこのドクターにはいつも質問ばかりしていました。
うるさい患者だったのでしょう。
〈よく、そんなことを言い渡せるもんだ!〉
ソーシャルアドバイザーから退院前に、
「東芝の工員で、どうやって生きていくんだね?」、
こんな言葉も、当時私の勤務先は、「音響工場」であったことや、
そして大卒だとか、デザイナーということは一切話していなかったので、
見下されていたのでしょう。
差別発言から学んだこと
〈身障者は見下されている〉という初体験を最後に退院したのです。
そして、もう一方では、恋人や親友、職場の上司、恩師たちの心からの支援と援助がありました。
もちろん一番は精神的に、ひたすら励ましてくれる「父親の存在」でした。
交通被災・救急病院・リハビリ病院、そして赤坂で独立という私の文脈は、
「会話」・「談話」・「物語」の実体験から、
「コンテクスト」の全体と部分、要素と要因、非人間的な差別発言を受け取っている自分を、
自分が励まし再確認することでした。


目次を見る